第三章 出撃(3)
「あなたは来なくても良かったのよ、エッツォ?」
明日に上陸戦を控えた母船の甲板。
マリアナの小さな月が海面を薄ぼんやりと照らしている。
「なんだい、僕は邪魔者かい?」
アユムの言葉に、微笑みながら返すエッツォ。
「あなたはもっとクールな人だと思ってた。最初に、私たちの脱走につきあったことも意外だったわ」
「そうかな。そうだね」
と、彼は水面をじっと見つめる。
「今回の作戦も、無理につきあう必要はなかったのよ。あれのことなら、大丈夫、私たちがちゃんと引き揚げるから。あなたは安全な場所にいても良かった」
アユムが言うと、エッツォは小さく笑った。
「もちろん君たちがそうするだろうとは思う。アユム、君がそう言うのは、つまりこういうことだろう? ――僕が、傍観者だ、と」
彼の自嘲にも近い言葉に、しかし、アユムははっきりとうなずいた。
「そう、あるいは、評論家。決して自分の身を危険の中に置くタイプじゃないわ。エクスニューロを取り付けることにしたのも、むしろ、より安全であるため。そうでしょう」
「そうだね。だから僕はミネルヴァに残って、危険のない戦いの中にいても良かった」
「だったら、なぜ」
「……そうだね、それは、僕が、傍観者だからだろうね」
その声の響きには、とても遠くを見通すような響きがあった。思わず、アユムはエッツォの顔を覗き込む。
「僕は、そう、常に、最も大切なものをその傍らで観続けなければならない。マリアナには、大切なものがたくさんある。それぞれ、いろんな人が見守ってる。それを大切なものだと思う人が。そして、僕にとって、このマリアナで最も大切なものは、――シャーロット・リリーなんだ」
その率直な告白に、アユムは思わず笑いをこぼした。
「あなたにそんなタイプの感情があるなんて」
彼女が言うと、エッツォは首を横に振る。
「たぶん、君が考えているような気持ちで、彼女のことを大切だと言ったんじゃない。彼女は――きっと、誰にとっても大切なものになる」
「ええ、そうね、アルやセシリア、ランダウ騎士団のみんな。もちろん私たちも。あの子は、不思議と守りたいと思ってしまう。みんな、あの子に守られてるのにね」
「何と言うかな……それも、少し違うんだ。僕は、もう少し……そうだね、やめておこう。ひとまず、君たちと同じように、僕もシャーロットを見守りたいと思った、そういうことにしておくよ」
「……何よエッツォ、気持ち悪いわね。何か秘密でもありそうよ?」
「嘘じゃないんだ。僕は、僕自身の気持ちで、シャーロットこそ見守るべき人だと思った。だけどなんて言うのか……僕は彼女に、未来を見てるんだ。彼女こそ、マリアナの未来に向かってると思うんだ」
「それは、彼女が『魔人』だから?」
「今になって思えばそうかもしれない。でも、そうだと知らなかったときからそう感じていたんだから……ふふっ、僕の選別眼も、たいしたものだろう?」
エッツォが笑いをこぼすと、アユムも思わずつられる。
「命までかけようなんてつもりはなかったけれど、今回ばかりは、最悪の事態も考えておかないとね」
「そうね。何しろ、私たちはきっと――作戦が成功した時には、誰よりも弱いただの人」
そう、作戦上、そうなるしかないのだ。
それでも、エッツォは、危地の只中に同行することを申し出た。
「それでも、あなたは、行くの?」
「……それが僕の……僕の、信念だから」
そう言ったエッツォの瞳を、しばらく見つめ続けるアユム。
そして、何かを見出したような表情を一瞬見せたが、すぐに目を伏せた。
「――いいわ。あなたは、なんだか不思議な人、ってことで、納得しててあげる。あなたの見ている未来を守るために、ロッティを守ってくれるなら」
「ありがとう」
「このタイミングでお礼なんて言うもんじゃないわ、あなたが何者か、白状しているようなものよ?」
「……参ったな、アユムは勘がいいんだね」
「ほどほどには、ね」
二人はそれきり口をつぐみ、再び小さな月の映える水面を、長い間、眺めつづけた。
***
フェリペ・ロドリゴ・デ・パルマは、彼の秘密の研究室にいた。
彼は、あらゆることを知らねばならなかった。
彼はこの惑星の全知の神にならねばならなかった。
だからこそ、彼は、ミネルヴァの内部に、秘密組織『オモイカネ』を築き上げた。
その下部組織は、『学粋派』として、ミネルヴァに混乱を起こした。
この混乱は、彼の目的のために必要なものだった。
彼自身が、全知の神となるための研究。
そのきっかけと成果は、あのいけ好かないエンダー教授がもたらした。
彼は、エンダー教授を好ましい友人とは見ていなかった。
だが、天才だ。
彼がいなければ、エクスニューロは形にさえなっていなかっただろう。
エクスニューロがあったからこそ、彼は、生まれてきた意味を知った。
私は全知の神になるために生まれてきた。
彼は、エクスニューロと、その派生の一つの結果から、そう確信した。
それは、シャーロット・リリー。
あれを、自分一人のモノにしなければならぬ。
そのためには、彼が産み育てたミネルヴァと全ウィザードを犠牲に捧げても構わない。
むしろ、それらは、シャーロット・リリーを生み出すための贄なのだ。
そこに注がれた膨大な努力など、シャーロット・リリーを得るためだったと思えば安いものだった。
この宇宙のすべてを知ることは、学究者の究極の夢だ。
それを成しうる存在。
それを、偶然とはいえ、自分が生み出してしまったことに、時に恐ろしささえ感じて震えが止まらなくなる。
あれこそ、知の究極機械。
ふと顔を上げると、それを生み出したもう一人の天才、エンダー教授が、グラスを傾けている。
「どうした、またシャーロット君のことでも考えていたかね」
見事に思考を読まれたことに腹立たしさを感じながら、フェリペは、自分のグラスの中身を思い切りよく飲み干した。
「まさにその通りだ」
「エレナも得て、まるでわがまま坊やだな」
そう、それはもう一つの存在、魔人エレナ。
なぜ、シャーロット・リリーは、エレナに脆くも敗れたのだろう。
もちろん、エレナはシャーロット・リリーを再び得る実験の中で生み出された、もう一人の魔人。どちらが勝っても良かったのだ。
エレナは勝った。
そうなるだろうと予感していた。
エレナは、そのように作ったのだから。
だがそれと同時に、エレナは『負けた』。
エレナさえ予想できない情動による閃光弾の一撃。
それを見たとき、それを本当に自分が制御できるのか、突如として疑問を持った。
シャーロットを得ると決めていても、まだ、躊躇する気持ちが無いわけではない。
「……あれは、おそらくエレナとは違うものだ。その理由は君もおそらく勘付いているだろう? 結合強度を優先して可塑性を最弱に設定したエレナは、シャーロットのような同化現象を起こしにくい。シャーロットは、あれのエクスニューロは、人間的な直感を自発的に起こす可能性をあれの脳から吸収しつつある。究極の知の機械となりうるのは、シャーロットなのだ」
「ふん、なるほどな」
エンダー教授は低く笑う。
「――さて、シャーロット君を得て何をするのかね、という質問はしないでおこう。おそらく、私でもそうしただろう」
「つくづく、面倒な生き物に生まれてしまったものだ。私も、君も」
ゆっくりと言い終わり、フェリペはグラスをあおって空にすると、
「それはそうと、君は、あのウィザードたちに会っていただろう?」
と、話題を変えた。
「よく見える目をお持ちのようで。そう、抜け殻の魔人一人、ウィザード三人と一人の凡人に、な」
「君の舌はよく滑っただろうな」
「ああ、実にね」
隠そうともせず、エンダー教授は小さく笑う。
「まったくもって、期待通りの動きをしてくれるよ。では、彼らの今後の行動は読みやすい。新連盟の首都へ向かうのだろうな」
「例の凡人は、否定的だったがね」
「彼は、たとえ不利でも不可能だと分かっていても、自らを危険にさらすよ、間違いなくね」
フェリペは、エレナに立ち向かおうとしたアルフレッドの姿を思い出しながら言う。
「ほう、とるに足らぬ凡人にそこまで心を通わせあうとは、君らしくもない」
「合理的な判断だよ。彼がシャーロットを私に奪われないためには、あれを復活させるしか道が無いのだ」
「どうするね? 復活する前に奪いに行くかね?」
「いいや。目的を遂げさせてやろう」
「ほう?」
エンダー教授は小さな相槌で続きを促す。
「言っただろう? 面白いことになる、と」
「ふむ、新連盟か」
「そうだな、やや面白いプランができつつある」
「くっく、君の『遊び』がどんなものかしっかり見せてもらおう」
エンダー教授は、右手に持っていた煙草をくわえる。
フェリペはグラスにマリアナ産合成酒を注ぎながら、口角を引き上げた。




