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マリアナの女神と補給兵  作者: 月立淳水
第二部 マリアナの魔人
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第二章 量子の魔人(3)


「ファンタジー的な意味でそう言ったのではない。魔法使い――ウィザードという、エクスニューロ部隊の通称に対する彼女らの呼び方として、彼はそう呼んだ。魔法使いと似たようなことができるが、実は似て非なるもの――そんな意味を込めたのだろう。ふん、やつは学粋派などというリアリストたちを率いているくせに、根は随分とロマンチストなのだよ、笑えるね」


 言いながら、エンダー教授は再び、癖のような低い笑いをもらす。


「どちらが似非か? ……問うまでもなく、ウィザードたちこそが似非で、真なるものは、魔人だった。そのことに気が付かなかったことは、この研究における私の最大の失敗だったね」


「どういうことなんです、ロッティこそが本物とは」


 そのことが、この彼女の脱力と何か関係があるのか? と訝しみながら、アルフレッドはさらに問う。


「さて、君たちがどこまでついてくるか、試してみようか。量子論的な推測こそがエクスニューロの真なる力と言ったね。だが、推測とは、ある意味で『途中』だったのだよ。あらゆるものの量子状態は、時間T1と時間T2の間に張られた弦のようなものだ。その弦はもちろん量子論的な零点振動を伴うものだがね、その振動状態は、ある意味で確定状態なのだよ、すなわち、固有振動をしている。弦の振動に明確な節がある。その動かない節こそが現実の次元に現出する量子状態の一つ一つなのであり、それを観測から瞬時に明らかにすることが『量子論的推測』の神髄なのだ」


 エンダー教授は、適度に吸い込みながら新たにシガレットに火をつけたが、深く吸い込みはせず、それを右手の指の間でもてあそんだ。


「そう思っていた。ところが、興味深いことが起こった。それが、シャーロット君や、エレナ君に起こったことだ。生体ニューロンの幾何パターンと、エクスニューロの幾何パターンが、偶発的に相補的な配置になったらしいのだよ。すなわち、相関がゼロということだ。もちろん、完全なゼロではない、そんなことは宇宙が終わるまで試しても絶対に起こり得ない。ただ、それぞれのニューラルネットワークが、お互いの穴をきれいに埋めあうのには、相関係数が一定以下であれば十分なのだよ、なぜなら、量子演算を担う脳内イオン分子もエクスニューロ内電子も、有限の広がりを持っているのだからね。その閾値を私は突き止め、それをシグマ条件と名付けた。たまたま相補係数の変数にシグマを使っていただけだがね。ふん、いずれエンダー条件とでも呼ばれるかもしれんが、まあ、興味はない」


 そこまで一息でしゃべると、ようやく煙を胸深くに吸い込んだ。

 ふうっ、と吐いた煙が、ダウンライトの中にほのかな影を作る。


「その条件になると何が起こるか。簡単なことだよ。時間T1における境界条件を観測することで、時間T2までの完全な弦運動表記が得られる。あるいは逆に、時間T2の境界条件を観測するだけで、時間T1にさかのぼるすべての弦の状態の関数表記を得る。量子状態として現出するのは弦振動の節だけだから本来は隠されていて見えないはずなのだがね、振動の腹も含めた、弦の多次元振動運動の完全な関数式を得ることが可能なのだ」


 簡単なことだ、と言ったその彼の言葉を、アルフレッドはほとんど理解できなかった。


 ただ、おぼろげながら、意味を掴みつつはある。

 つまり、ある時間の状態を一目見ただけで、その将来を予測できてしまう、彼はそう言ったのではないだろうか。


「量子情報論の素養がないとなかなか難しい話かもしれんが、もう少し噛み砕いて言えば、目の前に『何か』があったとしたら、知ろうとすれば、宇宙の始まりから宇宙の終わりまで、その『何か』の歴史と運命を知ることができるのだ」


 エンダー教授の説明は、アルフレッドの想像をはるかに超えていた。


 宇宙の始まりから終わりまで、だって?

 いくらなんでも荒唐無稽だ。


「簡単なことだよ。目の前の状態は、T1でありT2でもあり得る。そこが終点と定義すれば、任意の始点までの関数式が得られるし、逆もまたしかり。宇宙の始まりから終わりまであらかじめ張られて振動している量子弦にとって、時間の方向に意味は無いのだよ。シグマ条件を満たしたエクスニューロ使用者がどのような意識を働かせればそのようなことができるのかは、さすがの私にも分からんがね、くっく」


 そう笑いながら、安楽椅子に横たわるシャーロットを眺めるエンダー教授。


「だが、その副作用が、あれだ」


 その彼の言葉に、誰もが息を飲んだ。


 そして、恐る恐る視線をシャーロットに向ける。

 薄目でぼうっと天井を眺めている。

 ほとんどの思考がなくなってしまったかのように。


「相補的、すなわちお互いを埋め合わせようとする条件なのだ。つまり、相性が良すぎる。ある意味で完全に乗っ取られたような状態になるし、その状態を継続すると、眠っている片方の神経活動は、もう片方の神経活動に徐々に吸収されていく。鈍重なイオン交換による思考と軽快な電子交換による思考があったら、当然、主たる神経活動、すなわち『人格』は、後者をプラットフォームとして選ぶようになる。エクスニューロを着けている限り、これはある意味で好ましい変化だ。より高速で安定なプラットフォームにすべての脳情報処理が移行していくのだから、単なるエクスニューロによる演算バイパスよりもはるかに高効率だ。私は『同化』と呼んでいる」


「まっ、待ってください」


 アルフレッドは思わず立ち上がり、エンダー教授を見下ろした。


「人格、と言いましたか」


「ああ、そうだね、気付かなかったかね」


 気づいていた。

 アルフレッドは気づいていた。

 エクスニューロを着けたとき、感情を失ったとしか思えない口調と無表情を見せたシャーロットが、徐々に、エクスニューロを着けたままでも感情を取り戻していったのを。


 ああ、あれは。

 彼女の人格が、徐々にエクスニューロに取り込まれていたのだった。

 ああ、そして。


 ――エクスニューロは、破壊されてしまった。


***


 死、とは、なんとあっけないものだろう。

 あの人格と情緒は、エクスニューロに吸い上げられて、そして、消えてしまった。

 それを死と言わずしてなんというのだろう。


 ロッティは、確かに生きている。

 だけど、あれはもう、ロッティではないのかもしれない。

 彼女の本当の心は、もう砕け散ってこの宇宙にはないのだ。


 あまりの喪失感に、アルフレッドは立ち尽くしていた。

 次ぐ言葉が見つからなかった。


 あの儚い笑顔を守ろうと。

 そう決めて進んできたこの道の半ばで、よもやその笑顔を永遠に失うとは。


 知らずに、彼の両目から涙が零れ落ちていた。

 アユムも、彼の気持ちを察し、そして、彼女自身、大切な友を失った悲しみに、目を閉じてうつむいた。


「……おい、やめたまえ、ここは葬儀会場じゃない」


 エンダー教授は、低い声で言った。


「だが、……だが、ロッティは」


「だから言ったろう、彼女の人格はエクスニューロへの同化が進んでいる、だから、エクスニューロを取り外せば、あのような状態にならざるを得んのだ。エクスニューロを装着すれば、また彼女は帰ってくる」


「破壊されたんです」


 ぼそり、とセシリアが言う。

 それに対しても、エンダー教授は暗い笑みを消さない。


「破壊? エクスニューロが? ……くっく」


「何がおかしい!」


 思わず拳を振り上げたアルフレッドを、今度はエッツォが真後ろから制した。


「君、短気は損をする。気を付けたまえ。君がシャーロット君にどのような感情を持っていようが私の知ったことじゃないがね、今後もシャーロット君と行動を共にするつもりなら、君の短気が彼女の足を引っ張らないように気を付けることだ」


「だ、だったら、教授はその……エクスニューロを元通りにする方法を……知っていると……いうのですか」


 アルフレッドは、全身の力が抜けて、ソファに崩れるように座りながら、つぶやくように尋ねた。


「……破壊などされとらんよ。私がフェリペのやつに聞いた話の通りだとするとな」


「だが、僕は実際にあれが粉々になったのを見た」


「ああ、エクスニューロとの通信用のアンテナが壊されたようだな、だがあんなものはいくらでもスペアがある」


 ……通信用アンテナ?

 アルフレッドだけでなく、残るウィザード三人も、エンダー教授の言葉に目を見開く。


「エンダー教授、その、お言葉を確認させてください。この――」


 アユムは言いながら、左側頭部のエクスニューロ『と思っていたもの』を取り外し、


「――これは、エクスニューロではないのですか」


 エンダー教授は、さも愉快そうに笑った。相変わらずの低い声で。


「こんなことを君らに漏らしたと知れたら、私もフェリペにこっぴどく叱られるかもしれんがな、それは、エクスニューロ本体との通信用のアンテナに過ぎん。考えてもみたまえ。脳のニューラルネットワークを幾何学的にコピーできるほどのデバイスが、そんな小さなケースに収まると思うかね。少し考えれば分かりそうなものだがね」


「とすると、本体は別の場所に」


「ああ。おそらく、今のところもっとも安全だろう場所に、な。ミネルヴァが総力を挙げてもあれを破壊するのはなかなかの難事だろうな」


 アルフレッドは、先ほどの喪失感を、その符号を逆にして感じていた。

 心に温かいものが再び満ちるのを感じる。


 ――ロッティは無事だ。


 そう、あの『アンテナ』のスペアさえ入手すれば、いつでも彼女は帰ってくる。

 問題は、そのスペアをどうやって入手するか、ということだ。これだけの軍事機密だ。相当にセキュリティの高い場所に秘されているに違いない。そんな場所を、シャーロット無しで攻略できるだろうか。


「エンダー教授……ありがとう、ございます。僕らが知りたいことはそれでした。――ロッティが無事だということでした。これから僕らは、スペアを探しに行きます。教授に迷惑はかけません。本当に、ありがとうございました」


 アルフレッドは、先ほどの非礼を詫びるべきか迷ったものの、謝意を表すことを優先した。

 彼は、おそらくフェリペ含むミネルヴァ上層部から口止めされている秘中の秘を漏らしたのだ。これ以上、彼に迷惑をかけてはいけない。


 もう行こう、と、残る三人に声をかける。


 だが、返答は意外な方向からだった。


「待ちたまえ、もう行くのかね? ――だったらこれを持って行け」


 エンダー教授が、ソファ脇の小さなサイドボードから取り出してアルフレッドに投げてよこしたものは――。


「こ、これは、エクスニューロ、のアンテナ!?」


「スペアの、な。そんなもの、その辺にいくらでも転がっておる。もちろん、リンク設定はされていない」


「では、これとシャーロットのエクスニューロのリンクを設定すればいいのですね」


 アユムの問いに、エンダー教授はうなずく。


「だが、一筋縄ではいかんだろう。そのリンクの設定をするには、近接無線の同一セグメントで本体とアンテナをお互いに認識させる必要がある」


「同一セグメント……どういうことです?」


 エッツォが訊き返すと、


「要するに、本体の半径二十メートル以内に近づけなければならんということだ、そのアンテナを」


 本体に近づけさえすればいい。


 だが、さっき彼は何と言った?

 ミネルヴァの総力を挙げても、それを破壊するのは困難と言えるほどの安全な場所に本体は隠されている、と。


 そのことを思い出して、再び、深い落胆を、アルフレッドは感じていた。


「本体は……どこなんですか。ええ、もちろん、教授はきっとそれをしゃべることができないことは分かっています。でも、どうしても私たちはそれを知る必要があるんです。友達を助けるために。どうか、お願いします。どんな引き換え条件でも聞きます。――だから」


 アユムは深々と頭を下げる。

 一瞬のことで見えなかったが、彼女の瞳に涙が光ったように、アルフレッドには思えた。


「――さて、そこまでしゃべっていいものやら。あれは、たとえこの国が爆撃されて焼野原となっても安全な場所に置いてある。我々の虎の子なのだよ」


 瞬間、ひらめきを感じるアルフレッド。


「宇宙!」


 その言葉に、エンダー教授は、また低く笑った。


「そう、もちろんそうなのだよ。もちろん最初はそうしたかった。だが、軌道より上はマカウが支配していて、地上のいかなる勢力も飛行体を使うことはできないのだよ。もしその枷さえなければ、君は今、正しくエクスニューロの置き場所を言い当てていただろうな」


「もっ、もったいぶらないで、お、教えてください!」


 今度はセシリアが、怒りのためか、顔を真っ赤にして教授に怒鳴りつける。


「くっく、悪かった、冗談が過ぎたよ。そうだな、一つ条件を出そう。どうだね、今晩一晩だけでも、この私に付き合わんかね。――ああ、もちろん、性的な意味でではなく。ここしばらく若者と会話をしていなかった。こんなに楽しいものだったか、と、思っていたところなのだよ」


「そんなことだったらいくらでも」


 アルフレッドは即答する。

 それから、そう言えば、とあわてて三人の顔を見渡すが、同じく快諾の表情のアユム、まだむすっとしているが反対しようという気はなさそうなセシリア、しょうがないね、とでも言いたそうなエッツォと目が合い、ともかく、承諾したことは間違いではなさそうだった、と胸をなでおろす。


「よかろう。面白い話をしよう。実はな、二年前、新マリアナ同盟は、戦場で面白いものを拾った。それは、ミネルヴァとかいう学者崩れの武装集団が敗走時に拠点ごと捨てて行ったものだ。一抱えほどの立方体の箱が百数十。いくつかのコンソールコネクタ。彼らはそれを調べた。そして、最終的に結論を出した。それは、戦況予測による戦術支援システムだったのだよ」


 すっかりシガレットの先が灰になってしまっているのに気づき、エンダー教授は再びもう一本のシガレットに火をつける。


「それは一台でも役に立つものだったが、複数台を連結すればさらに強力な演算能力を見せた。長く、情報技術から隔離されてきた彼らにとっては、まさに宝だよ。それは、大切に新マリアナ同盟の首都、戦術計算機センターの奥深くに安置され、最前線の戦術支援を行った。結果、戦果は明確に好転し、その威力に舌を巻くとともに、対ミネルヴァ戦の切り札となった。その後の彼らのことはご存じのとおり。ミネルヴァに新たに現れた『ウィザード部隊』に苦戦するようになり、戦術コンピュータの支援にも関わらず個々の兵士の能力の問題で負けを積み重ねていったわけだ」


「……まさか、その戦術支援システムが」


「その通り。実はエクスニューロの本体なのさ。理屈は単純。戦術支援システムの出力は、エクスニューロのほんの隅に取り付けられた通信機の出力。その接続先は、ミネルヴァの作戦本部だよ。だから、その戦術支援システムが、ミネルヴァ軍の行動を完全に予測し、目覚ましい効果を上げさせることなどたやすいことだったのだ。ミネルヴァの切り札であるエクスニューロをどのように守るか、簡単なことだよ、敵に守らせればよかったのだ」


「なんてことだ」


 エッツォが感嘆のため息を漏らす。


「だが、だとしたら、ミネルヴァの当局は、意図的に敵に情報を流してミネルヴァ軍を負けさせていたのですか」


 一方、アルフレッドはこの事実の方が衝撃的だった。

 それがどれだけ重要な切り札とはいえ、自軍に損害を与えてまで相手をだますなんて。

 彼の正義感はそれを許さなかった。


「くっく、君は若いな。だが、それがいい。今晩の君との対話は面白くなりそうだ。ま、上層部の背信行為に関しては、君が憤るのも無理はないが、今晩はもっと面白い話を聞かせてやろう」


 エンダー教授はさらに笑った。


「でも教授、ともかく、エクスニューロは、新連盟の懐にあるんですね」


「その通り」


「では、そこに行けば、ロッティは助かるんですね」


「もちろん、その通り」


「だけど、私たちが……そんなところに行くなんて」


「問題なかろう、君たちは、相手がウィザードでもなければ決して負けない兵だ。隠密行動で敵の心臓を握るくらいわけもなかろう」


「教授は、兵站と後方支援を軽視しすぎています」


 アユムの代わりにアルフレッドが指摘した。


「ふむ、確かに私は戦術のことなどからっきしだ。君たちにならできるだろうと言ったが、君たちが踏み出すかどうかは君たちに任せよう。だが、いずれフェリペは、シャーロット君……あるいは、彼女のエクスニューロを奪いに行くだろう。彼は、魔人エレナだけで満足するつもりは無さそうでな」


「……彼は、フェリペは、一体何をたくらんでいるんです」


 誰もが訊こうと思っていたその質問を口にしたのは、結局エッツォだった。


「さて、今晩はそんな話も盛り上がるだろう。どうだね、まずは武器を置いて、くつろぎたまえ。それから、シャーロット君に水と食事を。こちらから与えなければ明確な欲求表示をしない状態になっているはずだ。腹を減らしているだろう。無理にでも食べさせたまえ」


 言われてみれば、彼女は食べていない。

 時々水を要求するから与え、彼らの食事の時にスプーンを差し出すと少し口に含むのだが、その食べた量はあまりに少ない。

 その忠告をもらえただけで、エンダー教授を訪ねた甲斐があった、と感じながら、教授の厚意に甘えてシャーロットの食事を分けてもらうことになった。



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