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マリアナの女神と補給兵  作者: 月立淳水
第二部 マリアナの魔人
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第二章 量子の魔人(2)


 かけたまえ、と言うエンダー教授の言葉に、わずかな逡巡こそあったが、結局、アユムの判断で全員がリビングのソファに腰を下ろすことになった。

 脱力しているシャーロットは、リビングの続きの書斎から運んできた安楽椅子の背を倒して横たえる。


「……教授は、どうやら、ロッティに何が起こっているのか知っているようですね」


「もちろんだとも。あれは、私が作ったのだから」


 ――やはり、そうか。


 彼の言動は、すでにそれを示していた。

 意識を失わぬまでも廃人のように脱力した人間を前にして、何の驚きの表情も見せずにいられるわけが無い。

 もしいるとしたら、その状態を何らかの事情であらかじめ知っていた人間だけだ。


 ――つまり、その設計者。


「なぜあのようなことになってるんです」


 アルフレッドが乗り出す。


「私にも分からんよ。実のところ――あれは、失敗作なのだ」


「シャーロットさんが失敗作? でも私たちの中で一番強くて……」


「強い弱いではない。設計どおりに動作しなかった。それは、科学者の私としては、完全な失敗なのだ」


「何を言いたいのか分からないが……ともかく、僕らはそれを治す方法を聞きに来たんだ」


「ふん、性急なやつだ。楽しい会話を楽しむ余裕も無いのかね」


「なんだと――」


 いきり立って腰を浮かせかけたアルフレッドを、アユムが制する。


「ごめんなさい教授。アル、とりあえず、ちゃんと教授の話を聞きましょう。……少なくとも、私は、興味があるわ」


「あ、ああ、すまない」


 アルフレッドも突然の感情に駆られたことを恥じて頭を下げた。


「まあ聞きたまえ。大丈夫、君たちがここにいることは誰にも言いやせん。ともかく、もうディエゴ・デル・ソル大学はおしまいだからな、これが私の最後の講義になろう」


 その言葉を聞いて、アルフレッドは別の感情が去来するのを感じた。


 研究者であると同時に教育者としてあの大学にいたエンダー教授。


 大学を守るという建前をかざして戦乱を振りまくミネルヴァ、学問の純粋さを守るというスローガンを掲げてさらにそれに反抗し始めた学粋派。

 彼らがどのような看板を上げていようとも、もはや、あの大学は、研究、教育の場ではなくなってしまったのだ。

 それも、たったこの数ヶ月のうちに。


 教育者としてのエンダー教授の心中はいかばかりだっただろう。


 そう思うと、先ほどから彼が時々漏らす低い笑いさえ、自嘲の色を含んでいるとしか思えなくなってしまった。


「君たちも気付いたろう、君たちの使っているそのエクスニューロは、この私が設計した。失敗もずいぶんやったが――ともかく、成功した。それは、原理的には、人間の中枢神経を拡張する。ただ拡張するのではなく、イオン移動速度に制限されていたその応答速度を、電子移動速度の域にまで高めることができる」


「高める? 補助、では無いのですか?」


 エッツォが質問を挟む。


「正確にはバイパスだな。本来脳が持つニューロンの幾何学パターンのうち必要なものをエクスニューロ内にそのまま再現し、中枢神経応答を先回りして模擬し、結果だけを生体の脳に返す、そのようなものだ」


「では、エクスニューロ内には僕のコピーが?」


 エッツォがそれに手で触れる。


「完全なコピーではない、何しろ幾何学的な配置が全く違うからな、完全なコピーは絶対に作れない」


 そしてエンダー教授は胸ポケットから取り出したシガレットに火をつける。煙草を吸う人間を初めて見たアルフレッドは、思わず彼の吹き出した煙を見てのけぞる。


「もちろん、これは、エクスニューロの機能の一つだ。エクスニューロは、そのバイパス回路にもう一つ、重要な情報を付与する。それは――」


「――たとえば、銃口を見て弾道が分かるような、そんなものなんですね」


 セシリアの言葉に、エンダー教授は深くうなずく。

 案外セシリアは賢いんだな、などと見当違いの思いにふけるアルフレッド。


「その通り。だが、それは単なる幾何学的な予測機能ではない。それは、量子論的な推測機能だ。人間の感覚が捉えたあらゆる情報を統合して、量子論的な『実在』を推測する機能だ。分かるかね、人間の感覚というものの異常さが。何百億という神経細胞とその軸索の先端に繋がった感覚器。そのどれもが、個性を持っている。発生の妙で偶然に生まれた個性だとしても、その揺らぎこそが重要なのだよ。量子論的に実在を算出するためには、とてつもなく多くの互いに相関の少ない観測値が必要なのだ。人間の感覚器というのは、この特徴を完全に備えた、量子論的センサーの理想型なのだよ」


 徐々に難解になる彼の言葉に黙り込んだ四人を見ながら、エンダー教授はシガレットの灰を灰皿に落として、一息つく。


「量子論ではね、観測の『強さ』を弱くすればするほど正確な実在値に近づくことができる。しかし、弱い観測は十分な強さの信号を一度に得られない。だが、人間の感覚器は、何百億という観測を一度に行い、そのすべての結果を同時に中枢神経に入力する。一つ一つは弱くてもその統合としての量子状態を得るのには十分なのだ。ある物事を見た瞬間にその本質を見抜くという量子推測のためには、まさにもっともすぐれた観測装置なのだよ」


 彼がそこまで言ったとき、再びセシリアが口を開く。


「あの……よくわからないんですが、それはもしかして、『直感』のように、働くんでしょうか」


「ふむ、言い得て妙だな。そう、まさに直感だ」


 エンダー教授の言葉に、得心した、と言うようにアユムがうなずいた。


「私たちの、この直感としか言いようのない新しい感覚は、まさしく直感だったというわけですね」


「呑み込みが早いね。それさえも、おそらく君たちが身に着けているエクスニューロの支援があるからだろうがね」


 そしてアルフレッドは一安心する。

 エクスニューロを着けていない自分が話に半分ほどしかついていけていないことは、おかしなことではないし、自分が飛び切りの馬鹿だということでもない、と。


「では教授、教えてください。ロッティには――シャーロット・リリーには、一体何が、起こっているんです」


 すぐに言葉を継いだアユムに対して、エンダー教授は、もう一度深くシガレットの煙を吸い込み、吐き出した。そして、その火を灰皿に押し付けてもみ消す。


「予想しなかった効果なのだよ」


「何がです」


 もったいぶった教授に対し、アルフレッドは待ちきれないとでも言うように促す。


「フェリペは、君たちにおかしなことを言わなかったかね。――そう、彼女が魔人だと」



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