第四章 殺人鬼(2)
床の一部がアルフレッドの血で汚れているのに気付いたアユムが、備え付けの洗面シンクで汚れたタオルを濡らし、床を拭き始めた。
無言で、無表情で、彼女は床を何度もこすって綺麗にすると、タオルをシンクで洗った。
真っ赤な水が音を立てて下水口に吸い込まれていった。
それを見送って、彼女は大またで部屋を縦断し、ベッドの一つに腰掛けた。
そしてまだ涙を流しているセシリアの肩を抱き、優しく頭をなでる。
「馬鹿なことをしたわ」
吐き出すような口調で、彼女は口を開いた。
「なんで分からなかったんだろう、私」
誰に同意を求めているわけでもなかった。
「エクスニューロには感覚遮断機能がある。思考でオーダーすればすぐに、体のどこでも感覚を遮断できる。小さな怪我で戦闘力が落ちないようにね」
そう言う彼女は、エクスニューロを外そうともしない。
「ロッティは。無意識のうちに、恐怖とか悲しみとか良心とか……そういう感情を遮断するオーダーを出してたのよ、きっと」
アユムの視線は床の一点から動かない。
「どうして今日までそのことに気付かなかったのか。私は本当に馬鹿だわ」
「彼女が妙に強いのも、そのせいなのか」
エクスニューロが彼女らの頭の中でどのように感じられるものなのか、全く想像のつかないアルフレッドが訊く。
「そうかもしれない。でも私が同じことをしようとしてもできないから、やっぱり、彼女は相性が良いのよ」
「相性が良すぎるから……」
「……没頭できてしまうのよ、エクスニューロの無感覚に」
シャーロットがそれを着けたとき、しゃべり方までがらりと変わってしまう、これこそがその理由なのだろう、とアルフレッドは推定する。
「シャーロットさんはとても死ぬのを怖がってたから……いつも怖がって、怖くて耐えられなくなったらエクスニューロに手を伸ばしてたから……着けたら怖さも感じなくなるからそうしたたんだ……きっとそう」
すすりあげながら、セシリアは小さな声を絞り出した。
「私が気づいてあげられれば良かったのに……私だって怖いもの……これをつけてれば安心って気持ち、少し分かるもの……」
そう言って再び涙を落とす彼女を、アユムはもう一度抱きしめた。
「ずっと逃げ場を探してたのね、ロッティは」
こんな時に、どんな言葉を仲間にかければいいのか、アルフレッドには分からなかった。
彼女たちの苦悩を分かち合うだけの時間を過ごしていない彼は、何も言うことができなかった。
ただうつむいて、今頃になって右手がひどく痛むのを感じているしかなかった。
「僕らの有用性には、きっと疑問符がつくね」
エッツォが無表情で言う。
「彼女が精神的に崩壊した。少なくとも彼らにはそう見えるはずだ。そして、エクスニューロ自体に、そんな危険性が含まれているかもしれない、と」
彼らがこの場にいることができるのは、彼らが、兵器として有用だと考えられたからに他ならない。
それに疑問符がついてしまったら?
「もう、いられないかもしれないわね」
アルフレッドの思考を先回りして、アユムがつぶやく。
しかしそうだとしても。
彼らがおおっぴらにしてしまったエクスニューロの秘密を知りたがるものが、正統政府の中に現れるかもしれない。
もちろん、欲しがるなら、くれてやればいい。
けれどもそれは、脳手術を伴う秘術だ。
その接続先である脳も、興味深い『リバースエンジニアリング』対象となってしまうだろう。
無用となった改造兵士、それを破壊することをためらう気持ちは、もはや失せているかもしれない。
また、逃げ出すしかないのだろうか。
ある意味で、ミネルヴァの学粋派たちの言うことは正しかったな、と、アルフレッドは思う。
そもそも戦うことに何の意味もない。
お互いに傷つくだけだ。
ただ、学問の砦を守るだけなら、武器をとる必要なんてなかったはずなのに。
最初の人は、山賊まがいの武装勢力による略奪から身を守るためだった、と言うだろう。
けれども今は、新連盟と立派に戦争をしている。
そこまでエスカレートして、ようやく、本来の目的を思い出した学粋派たちこそが、実は正しかったのだろう。
あのように恐怖に震える少女までもが戦わなければならないなんて、間違っている。
この世界に戦わずに済む場所などあるのだろうか。
たとえ逃げ出したとしても。
結局この日、シャーロットは自身の部屋に帰ってくることはなく、部屋で待ち続けたアユムもセシリアも眠れぬ夜を過ごすこととなった。
***
翌日、シャーロットが軍病院に収容されているという知らせとともに、彼女の私物を持ってくるようにとの指示があり、アユムが荷物をまとめて届けた。
戻ってきたアユムの話では、面会はできなかったが、容態は落ち着いているとの説明を受けたそうだった。
ただ、退院がいつになるかは分からないと言う。
自傷事件ともなれば精神疾患を疑われるのが当然で、長期間をかけて精神の安定性を確認しなければならないらしい。
そもそも上官の命令に不備があったのではないかと指摘したものの、軍医にそれを調査する権限は無いと一蹴された。
その日も、四人は日常の訓練に参加した。
セシリアは嫌がったが、結局、エクスニューロをつけなければ一般人同然の三人は、それを使って訓練に参加することを余儀なくされた。
午後に、事件についての聞き取り調査が行われた。
他の三人がどのように証言したかは分からなかったが、アルフレッドは、憶測を交えずにありのままに話した。
掃討戦に参加したこと。
村で非戦闘員を殺害したこと。
帰還後にシャーロットが罪悪感に錯乱したこと。
エクスニューロとの関係については何度も質問されたが、アルフレッド自身が語れることは何も無かった。
錯乱がエクスニューロ取り外し直後に起こったことは事実だが、死に対する強い恐れはむしろシャーロットがもともと備えていた性向だ、と語った。
取調官がそれを信じたかどうかは分からない。
だが、エクスニューロの危険性という結論を彼らが導き出してしまったとき、シャーロットだけでなく、アユムたちも何らかの形で拘束されてしまうかもしれないと考えた末の回答だった。
アユムたちも無事に宿舎に戻り、ともかく彼らが拘禁されるという事態はひとまず起こらなかったことが分かった。
しかし、それよりももっと悪い事件が起こったのは、その深夜だった。
***
心配とも焦燥ともつかぬ心のざわめきに邪魔されたものの、疲れからようやくうとうとしかけていたアルフレッドの耳に、突然の喧騒が響いてきた。
明らかに分かるのは男の大声、それから、何度かの硬いものがぶつかる音。そして、たくさんの足音。
何事かと起き上がって、音のするほうを見やる。
その音は、兵舎の廊下で起こっているようだ。
最後に二つ大きな音がしてその足音も消える。
まもなく、真っ暗な中で、アルフレッドたちの部屋の扉が静かに開いたのが感じられた。
足元照明だけで薄明るく照らされた廊下の壁を背に、人が立っているのが分かる。
逆光で顔は見えない。
だが、アルフレッドには、その人影が、何者なのか、すぐに分かった。
その細い整った影は、シャーロットだった。
その左耳の上には、エクスニューロの特徴的な形の影さえ見える。
その瞬間に思い出した。
シャーロットの私物として届けた彼女の鞄の中には、確かに彼女のエクスニューロが入れてあったのだ。
それを彼女自身が着けたのか? 誰かがそれを強要したのか?
「ロッティ……君は一体、何を?」
アルフレッドは、そう尋ねるしかなかった。
「逃げ出してきた。私たちは戦力と言うよりむしろ解剖学的興味の対象となる」
それは、アルフレッドが漠然と感じていた恐怖の一つを言葉にしたものだった。
「だからと言って、君はそれを……エクスニューロを」
「それは私の問題。あなたは私が別人だと思っている。しかしあの私とこの私は同一。今も同一の恐怖を心で感じている」
そう言う言葉の抑揚は明らかに少ない。
それでも、彼女は彼女自身なのだと言う。
その言葉をどのように理解すべきか、アルフレッドには術がなかった。
ただともかく、彼女が指摘した一つの問題は、まず片付けなければならない。
「……君たちがその、解剖学的な興味の対象となるというのは、君の直感か?」
「肯定。アユムとセシリアも同様。私が救出する」
「……それで、僕もその対象ってわけか。君が直感で危険と言うのなら、間違いが無いのだろうね。アルフレッド、どちらにしろ、もうこれ以上ここにとどまることは無理らしい。アユムたちも連れて、逃げ出そう」
いつの間にか起き上がっていたエッツォが横から言葉を挟んだ。
「これだけの騒ぎを起こしてしまっては、そうだろうな。すぐに支度をしよう。ロッティ、アユムたちに事情を説明してくれ」
「了解した」
返事をすると、彼女の影はすぐに入り口から消えていた。
アルフレッドは、いくつか散らかしたままだった私物を自分の鞄に押し込む。
上手くまとまっていたはずなのになかなか綺麗に収まらない荷物をぐいぐいと押しながら考える。
どうして彼女は自ら再びエクスニューロに手を出したのか。
アユムの言っていた通り、エクスニューロは感情を抑える効果があるのか。
あまりに深い恐怖と悲しみに押しつぶされ、耐えかねてエクスニューロへ逃げ込んだのではないか。
そうだとすれば、彼女をあのままにしておくわけにはいかない。
どこかでその心に安らぎをもたらし、永遠にエクスニューロと決別させねばならない。
臆病だけれど優しいシャーロットを取り戻さなければならない。
――でも、戦いは向こうからやってくる。
振り払わねば、死が待っているだけだ。
この惑星が戦いに満ちている限り、エクスニューロによる戦闘力を抜きに生活を考えることはできない。
彼女一人のために、ウィザード三人に戦ってくれ、と言えるだろうか?
きっと彼らは、そうするだろう、と思う。
けれど、それが、今度はウィザード三人に心に深い傷を負わせてしまうのではないだろうか、という別の恐怖が沸き起こる。
他の三人が、シャーロットと同じようにならない保証は無いのだから。
ようやく鞄のジッパーが閉まったとき、シャーロットがアユムとセシリアを説得して連れてきたところだった。
「ともかくロッティが決断したなら、行くしかないわ。準備はいいわね」
廊下からアルフレッドたちに向けて呼びかける。
「問題ない、行くなら急ごう」
応えて、荷物を抱えて踏み出す。
シャーロットが倒して気絶させた警備員がそこかしこに倒れている中、彼らは悠々と兵舎を後にした。