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大いなる白痴

作者: 土暮次郎

大いなる白痴

土ノ本 華



 男は大いなる白痴と名乗った。彼と初めて出会ったのはどこだったかしら、カフェだったか、定食屋だったろうか、ともかく、偶然座席が隣だったのである。

 当時、彼は時代錯誤甚だしい、袴姿に、上は色褪せの激しい黒のチョッキを着ていたのを覚えている。いかにも文士然とした格好であった。

 辛くも文字を本にすることで口に糊する日々を送っているものだから、ちょっとした興味から、声を掛けた。

 話した内容はよく覚えていない。が、話す内に彼への興味が強くなり、招かれるままに彼の宅へお邪魔した。

 都市部から鈍行電車で三十分ほど、集合墓地の裏手に彼の宅はあった。神社の前と墓地の裏の家は繁栄する、と言うんだがね、小さく零したのを覚えている。

 平屋、というものを久しく見た気がする。止まらぬ人口増加に伴って上へ上へと住処を追われ、都市改造計画という題目に沿って、都市郊外の住居は軒並み五十階以上の高層マンションになったと聞いていたが、探せば、なんでもあるものである。

 祖父母の家を懐かしみながら引き戸を開けると、しかし存外に小奇麗で、ところどころ洋装にリフォームされていた。さもありなん。文献で見るような古臭いものは、やはりどこにも残っていないらしい。

「さすがにね、不便だから」

 好きなところへお座りよ。勧められた座布団に腰を下ろすと、彼も僕と向かい合うように座った。内装こそ近代的であるものの、家具や調度品は、嗅げばかび臭さに身を震わすようなものも多い。

「家内の趣味でね、ああちょうど来たみたいだ」

 割烹着の奥さんは、男の年齢にしては随分若く見える。二十ほど離れているのではないかしら。細君、というよりも、家政婦やメイドの類といったほうがうなずける。

「妻の美智子です。テントウさんが、男性の方を連れてくるなんて、今日はごちそうかしら」

 お茶をお持ちしますね、言って、美智子さんは台所の方へすっこんでいってしまった。

「そう不思議そうな顔をするもんじゃないよ。天道さん、というのは僕のことさ。ほら、これ」取り出したるは、手のひらに収まる程度の大きさの箱。「煙草さ、煙草。今じゃもうどこにも売っていないだろう? どうだい、一本」

 僕は思わず目を白黒させた。煙草なんていうものが、未だこの日本に残っていたなんて! 

「ああ、そう、口にくわえて。火を点けながら吸うんだ」

 興味本位で煙を吸い込んでみたが、とても吸えたものではない。よくもまぁ、昔の日本ではこんなものが流行っていたものだ。否、こんなものであるから、もうこの島国から駆逐されてしまったのか。

「これはね、セブンスターっていう銘柄なんだがね。本当は、バットがよかったんだけど、さすがになかったよ。……セブンスター、七星、ナナホシテントウ。我が妻ながら、ナイスなネーミングだよ」

 彼は、セブンスターの煙を胸いっぱいに吸い込み、天井へ向かって吹き付けた。

「そういえば名乗るのが遅れたね。大いなる白痴、みんなにはそう言うようにしているんだ。けれど、ま、テントウさん、ナナホシさん、好きに呼んでくれたまえ」


 2


 再び彼の家を訪れた時には、やはり彼は同じように作家風の格好で、セブンスターをくわえていた。

「今日はどうしたんです?」

「いやなに、話し相手がほしくってね。気楽にしてくれたまえ。じきに家内が茶を運んでくる」

 寝そべってテレビを見ている。四十インチの壁掛けのモニターからは競馬の中継が延々と流れている。

 前回来た時は、彼が一方的に話すばかりで部屋の中を見る時間がなかったが、よくよく眺めてみると、珍しいものばかりが並んでいる訳じゃない。

「あ、高畑先生の小説じゃないですか。ファンなんですか?」

 尋ねると、テントウさんはくすくす笑いだした。「君は好きかね、高畑先生」

「ええ、ええ。弱冠十八歳にして文壇に上り、次々と作品を発表。ありがちな少女小説かと思えば、鋭利なナイフのような一突きで世間を批判し、一方で、甘い蜂蜜のような恋愛も――」

 高畑礼子といえば、今や知らぬ者はいないというほどの作家である。二○八九年四月にデビュー作「叫べ! 少女よ」を発表してから現在に至るまで、四年で五十ほどの作品を書き上げている。確か先週、新しいものが出たところのはずだ。

 テントウさんは僕が熱弁する横で、やはりくすくす笑っている。さしもの僕も少し嫌な気分になって、眉根を寄せて、ねめつけて見せると、おどけたように肩をすくませた。

「そうか、君は高畑先生の作品がそんなに好きかい。僕も、一応全部目を通しているんだぜ。水銀の林檎は良かった、抜群に良かった。けれど、おはぎはあまり面白くないね。だってそうだろう? あまりにも突飛なお話だったじゃないか」

 本棚から「水銀の林檎」と「おはぎ」の文庫本を取り出して、ここがいい、ここが駄目だ、といちいち細かく指摘していく。

 或いは、彼もまた高畑先生の熱烈なファンなのかもしれない。あの小笑いは、彼なりの好意の表れだったに違いない。そう思うと、趣味嗜好を同じくする仲間を疑ったのが恥ずかしい。

「それじゃ君、緑眼の天人という作品を知っているかね」

 聞いたことのないタイトルであった。誰か他の人の作品ですかと訊くと、いいや高畑先生のものだと答える。しかし、デビュー作から最新作まで、僕は確かに網羅している。そんな名前、聞いた覚えはない。出鱈目を言っているのだろうか。

「おぅい、茶のついでに原稿を持っておいで」

 そう言ってしばらく、ふすまを開けて美智子さんがお茶を運んできた。お盆の上には湯のみが二つと分厚い原稿用紙の束。まさか。

「うふふ、僕にあんな殊勝なものが書けるかよ。もしそうなら、僕はとっくに億万長者さ。こんな家、すぐにでもうっぱらって、新宿の一等地のマンションの最上階に移り住んでいる」

 美智子さんの方へ目を向けると、彼女は顔を赤くしてうつむいてしまっている。

 僕も途端に恥ずかしくなった。作者本人を目の前にして、よくもまあ滔々お喋りしてしまったものだ。顔から火が出るようだった。

「テントウさんもお人が悪いです。カガリさんがあんまりにもお褒め下さるものですから、私も出るに出られなくなってしまいました」

 髪を揺らしてはにかむ姿は、十五そこそこの少女のようにも見える。作風は人を映すとはまさしく真理である。

「僕は家内がペンを握る横で野次を飛ばす係だ。あれをしろこれをしろ、とまではいかないがね。やれこれは政治的によくないぜ、やれあれは時代的にどうだったかしら。なんて具合」

「けれど三木さんも仰ってました、テントウさんもお書きになればいいのに。って。おはぎの最蔵の政治批判の台詞は、みんなこの人がお考えになったんです」

 高畑礼子先生の作品には、ある特徴がある。高畑七不思議とネットではもてはやされているが、例えば、不意に表れるシニカルさや、読者をひやりとさせるクルーエルさなどがあるが、なるほど、そのからくりはこういう訳だったのか。

「馬鹿を言うんじゃない。中身を考えたのはお前じゃないか。僕は、文章にあんまり迫力がないものだから、お前が寝ている間にちょっと書き換えたまでさ」

 最蔵のあの台詞は「らしくない」と批判が集まる一方(しかし、その「らしくない」も「高畑らしさ」ではあるのだが)で、確かに秀逸ではあると思う。

「ところでね、近頃困ったことがあるんだ」

 美智子さんが逃げるように退席してから、ゆっくりと煙草に火を点けて、テントウさんは切り出した。

「最近、面白い小説がないね。なんて呟いたんだ。そうしたら家内、『ないのなら、ご自分でお書きになってはいかがです?』だってさ。さすがに僕もむっとしてね。だってそうだろう? よしんば、僕に物書きの才覚が備わっていたとして、だからといって、僕が面白い小説を書けるかとなれば、全く別問題だ」

 煙をふかす横顔が逆光で騙し絵みたいに見える。ちょっと考え込むようにしてから、テントウさんは煙草を灰皿に置いて、実に大儀そうに戸棚の奥を探り始めた。探りながらも、

「君、物書きに……クリエイターに必要なものが何か分かるかい。クリエイターというのは、物書きの上級概念だが、今は互いにシノニムとしよう」

 取り出したのはちょっとした厚みのある原稿用紙。

「物書き、空想家。この二つを分け隔てせしめるのは、一体何だと思う。これは、ちょいと考えれば誰でも思い至る。お話にね、すぅっと筋のようなものが通っているか、否か」

 照れくさそうに原稿用紙を開く。冠されたタイトルは、「月泥棒の懊悩」。随分、小洒落た題である。

「とはいえ、世では空想家に服を着せたようなものが、大手を振って作家面して表を歩いている。僕もまあそれを、悪く言うつもりはないし、彼らにはこれらからもぜひとも悪びれずいてほしいと考えている」

 空想家と物書きはそう遠いものじゃない、とも付け足した。

 僕は、この月泥棒の懊悩と称された物語が、一体どのようなものなのか気になってしようがなかった。彼の言を聞いていない訳ではなかったが、目を離せないのもまた本当である。

「けれどね、物書き、空想家とは全く異質なものであるくせに、物書き気取りでいることがある。これは、君たちにはそう答えられまい。僕もつい最近気付いたことだからね。そいつらは、いわゆる、嘘吐きというやつさ。彼らはさもクリエイターのような顔をして、大法螺を吹きやがる。夢想家ですら、ああこんなことが現実で起こればよいのにな、もしあんなことが本当になればと願い念じているというのに、連中とくれば、『むかしの築城の大家は城の設計にあたって、その城の廃墟になったときの姿を最も顧慮して図を引いた。廃墟になってから、ぐんと姿がよくなるように設計して置くのである』などと、その場の思いつきを、ちょっと見栄を張る為に、ちょっと格好を付ける為に、なんの恥じらいもなく、もっともらしく口にしやがる」

 そう言って、テントウさんは煙草の火をにじり消し、原稿用紙を差し出した。

「初めの内、書き出しの一ページなんかは、読者のことをきちんと考えて、彼らが躓かぬように、軽やかな筆致で以って、ちょうど、習字の時間に、半紙の上に大筆ででかでかと地球という文字を書いて、その後に小筆でちょいちょいと軽快に自分の名前を載せるように、そんな具合に文字を連ねていくんだが、次第に熱がこもって、ややもすると、もう読者なんてものは忘れて、気安い筆致もどこへやら、塗りつぶすように原稿用紙にボールペンを走らせている。ああ、もう言い訳もよそう。今日は、君にこれを見てもらいたくて、わざわざ呼んだんだ。大衆小説評論家のカガリ君」

 なんだ、知っていたのか。テントウさんは素知らぬ顔をして、こちらの素性を見抜いていた。尋常でない人とは思っていたが、存外に抜け目ない。が、わざわざそう言ってくれるのなら、僕ももう少し身構えず、気を楽にできるというものだ。



 先客がいた。美智子さんと同じくらいの、若い女性である。軽く会釈して、緑の座布団に正座する。テントウさんの顔を覗き見る。

「こちら、愛川姫子さん。……家内の教え子と思ってくれて差し付かえないかな」

 くりんとした睫毛と大きな瞳に吸い込まれそうになるさながら座敷童子のようだ。

「美智子さんの教え子、というと小説家志望、ということですか」

 覗き込むと、肯きながら、恥ずかしそうに首を縮めた。

「家内のものをハンバーグとたとえるなら、パンケーキみたいなものだから、或いは、君はお気に召さぬかもしれないが、せひ専門家としての意見を聞きたくってね。随分嫌がったんだが、君の肩書きをそれとなく知らしてやったら、しぶしぶ承諾してくれたよ」

 なるほど、そういう訳だから、彼女、えらく小さくかしこまっているのか。存外に強かな娘なのかも知れぬ。とはいえ、テントウさんもひどい人だ。僕のステイタスが名ばかりであることも知っているだろうに。

「ところで、文学を料理にたとえてみせるなんて、僕にしてはかなり殊勝ではないかしら。『エキゾチック・マイルーム』だなんて、いかにも女子供の好みそうなタイトルじゃないか。や、なに残酷なことを言っているつもりはないよ。パンケーキ、結構なことじゃないか。生クリームには夢と希望が詰まっている。僕も喫茶店に行った時にはよく注文するさ。例えば、山西トモエなんかは、ドーナツみたいなものじゃないかい。お話の核心が、一切虚ろなように見えて、ミリオンセラーをたたき出すくらいの人気じゃないか。君のものにはそれと同等の資質、いや、中身のしっかりしている分、それ以上のものがあるよ、と私は言っているのだ。けれど、ま」

 おうい、と声を上げると、すぐに美智子さんがやってきて、お盆の上には皿とコーヒーカップ、そして、ドーナツ!

「山西トモエのドーナツの人気には、当然、相応の訳がある」

 やはりテントウさんはひどい人だ。愛川さんも唇を噛みしめ、すっかり意気消沈としている。何がしか意見を言うのも、慰めどころか反対の結果さえ生みそうだから、声を掛けることすら憚られたし、なにより、彼の言葉はいちいち正しい。

 エキゾチック・マイルームと題振られた物語は、テントウさんにならうと、味が雑で香りも立っていない。口当たりのパサパサで、であるというのに、シロップの一つもかけられていない。更に言うならば、盛り付けられた皿の選び方をとっても、眉根をひそめてしまいそうになる。

「まあ…テントウさんの言いたいことは概ね了解しました。が、ひとつ、どうしても気になる点が」

「なんだい」

「パンケーキ、というよりも、シュークリームでは?」

 テントウさんは、笑いを堪えきれぬ、という風にして、吸い込んだ煙を吐き出した。



「ところで、テントウさん自身と愛川さんはどういったご関係なんですか」

 今日ここの敷居をまたいだ際、入れ違いで愛川さんが出て行った。互いに会釈一つしてすれ違っただけだったが、彼女の馴れた様子を見るに、どうやら普段から気兼ねなく出入りしているようであったから、気になったことを、気になったままに、質問した。

「気になるかい。家内の弟子、という間接的関係だけじゃ不十分かい」

 気になるのならしょうがない。いいながらも、テントウさんは秘密を打ち明けたくて仕方ない子供のような口ぶりであった。

「ありきたりに言うと、彼女は、僕の愛人さ」

 愛人。愛人という言葉を久しく聞いた気がする。清潔さを至上とする今の世に、そんな関係が未だ許容されているなんて、我が耳を疑うほどだ。されどテントウさんがそう言う以上、それは紛れもなく事実なのだろう。

「おやどうしたね、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして。愛人、という関係がそんなに不潔で気に食わないかい」

「いえ、それもそうですが、それ以上に……」

「どうして美智子がその関係に不満を持たない、か」

 当たった、と、テントウさんはやはり子供みたいに無邪気に笑った。

「実はね、僕は彼女の弱みを握っているんだ。弱み、というよりも、もっと致命的かもしれないね」

 きゅっと彼の表情が引き締まる。つられて、僕も唇を噛みしめて居住まいを正す。

「これは10年以上前、まだ美智子が親元を離れていなかった頃だ。その両親が、また運の悪いやつらでね、せっかく興した会社を、震災でなくしちゃったんだ。食うにも困り、ついに手を出したのは闇金…今じゃ、とんと見ないがね、当時はまだひそかにあったんだよ。そうして金を借りるが返せず増えるものは増えていく。取立て、今じゃ汚らわしさのあまり身震いする子もいるだろうね、そいつらがやってきて、美智子を借金のカタに泡風呂に沈めようとしていた。そこへ、まあ僕が通りかかった訳だ。美智子の両親とは旧い仲だったからね、美智子だけでも助けてやってくれ、なんて頼まれてしまったら、僕だって人肌脱ぐのはやぶさかではない。借金を肩代わりしてあげた、という訳さ」

 煙草の煙を吐き散らすと、にやりと笑ってみせる。

「これでめでたしめでたし、なんて、昔話ならそうでもよかったんだがね。現実はお噺のようにはいかないね。肩代わりしたからと言って、僕にお金があった訳じゃないから、僕の少ない稼ぎから、少しずつ少しずつ、返していたんだが、やっぱり額が莫大でね、未だに返しきれていないんだ」

 どこかでそんな話を聞いたことがある。似たような話……否、寸分違わず同じ話を、どこかで、確かに見聞きした覚えがある。

「そう、だから、借金は未だに残っている――と美智子には伝えてある。どうだね」

 思い出した。これは高橋礼子二作目の「金襴のプルトップ」そのものだ。確か、あの話の終わりは……。

「さすが熱烈な高橋ファンだけあるね。まあ、あの話はずいぶん文壇を騒がしたらしいから、ちょっと興味があればすぐに分かるかね」

 借金を返しきれず、夫婦心中するという結末だったはずだ。

「事実は小説よりも奇なり、とはいかないね。そんなドラマチックに『終わり』が来るのなら、良いんだけどね。事実は小説よりも酷なり。僕はこの言葉を捧げよう」

 さすがにぞっとしなかった。高橋礼子――美智子さんほどの売れっ子作家ならば、こんな家引き払って、彼の言ったように一等地の最上階に住むことなどたやすいだろう。だのに、平屋住みというのは、なにかしら思い入れや事情があるのだろうと推測していたが、これは全く見当違いの憶測であった。

「信じるか信じないかは君次第だがね。僕も敬虔な高橋信者だからね、彼女の書いた物語を大見栄切るために口走っただけなのかもしれない」

 けれどま。煙草の煙を天井に吐きつけて、

「彼女の両親に闇金を紹介した、なんて言えば、君は信じるだろうね」

 彼は子供のように無邪気に笑ったが、僕はその瞳の奥にたとえようもない、邪悪な老獪めいた男の姿を見たような気がした。



 今日は食事をご馳走してくれるらしく、新宿での待ち合わせであった。一昨年できたばかりの超高層ビル、SC新宿三十二階にある串カツ屋である。

「普段は美智子にぶら下がっている僕でもね、年に数度はこうやって仰々しい格好で、知ったかぶりのポーズを取らなければいけない時がくる。なるたけ、面倒は避けようとしているんだが、あんまりいやいやを言っても、僕を世間や社会ととりなしてくれている美智子や友人にも迷惑がかかるからね」

 ワイシャツとスーツという姿があまりにも新鮮で、ともすれば、不似合いに過ぎるという出で立ちであったから、ついつい笑ってしまうと、テントウさんはむっと唇を尖らせて見せた。

「きみ、人の格好を馬鹿にするもんじゃないぜ。僕だって進んで煩わしい服に袖を通している訳じゃないんだ。仕方がない、仕様がないから、無理をおしているんだ。そこは、笑うにしても、憫笑や、もちろん嘲笑でもなく、大声で笑って、僕の頼もしさを、讃称、歎美するべきじゃないか」

 テントウさん、自分のスーツ姿を相当嫌っているのか、言い尽くした後に、一息ついて卑屈そうに笑った。

「さ、もうこんなつまらない話はよそう。今日は、飲もう、飲もう」

 店内はかなりの賑わいであったが、前もって連絡を入れてくれていたため、うってかわって静かな個室へ通された。人の目がなくなった途端、テントウさんは皺になるのも気にしない様子で上着を放り投げ、ネクタイもだらしなく緩め、崩れこむように椅子に座った。

「ビール二つ。それから――」

 馴れた声色で注文を通し、向き直り、

「いやあ、実に白熱した議論だったよ。馬鹿らしくて薄笑いを浮かべる以上は、もうこりごりだ」

 タバコに火を点ける所作をするが、ここが外であることを思い出して、苦虫を噛み潰したような顔をして、代わりにやってきたビールを一気に飲み下す。

「やつらは、議論というものを全く勘違いしている、思い違いをしている、認識不足だ。だから、あんな茶番劇めいた、痴話喧嘩のような口論が関の山なんだ。だのに連中、それを高尚なものだと、信じてらっしゃる」

 ひどく荒い語気であった。が、不機嫌という感はしない、むしろ、……。

「議論とはそもそも相手の意見を殺すこと。我が意を以って言語を投擲し、相手の心の臓に突き刺す。それで相手がぐらりときたのであればしめたものだ。そうなったら、後は烈火のごとくまくしたて、己の主張の正当性を、相手の墓標のように打ち立てればよい。議論とは、目と目を合わし、拳を交えぬだけの殴り合いに外ならない。お前が気に入らぬ、気に食わぬ、なんだお前は、と自身の腕力でねじ伏せるのだ。議論を、高邁なものだなんて思ってはいけないよ。議論こそ、最も野蛮な戦いの一つだ。実に原始的だ。なぜなら、言葉は人間の唯一持ちたる武器なのだから。自分の使える武器で以って、相手を叩き伏せるのだ、蛮行外ならない。それをちょっとお上品ぶって誤魔化しているだけなのさ」

 口数の多い分、上機嫌なようにも見える。ビールを二杯目も乾かして、しかしなおも終わらない。

「これを考えると、なるほど、ソクラテスの用いた産婆術とは、ずいぶん残酷なものだね。ソクラテスの側は堅固な盾で身を護るだけであって、相手は鋼を殴った反作用で身を滅ぼす訳だから」

 串カツを嚥下し、一息ついたようで、背もたれに体重を預け、薄目を開いて僕を見つめている。

「えらく極端な意見ですね。同意はできますが、酷く骨董品みたいな異見だ」

 古くは、彼のような意見が流行したのかもしれない。若輩の僕には到底想像もつかぬが、テントウさんの言葉に心酔する人間も多かったのかもしれない。さながら馬酔木の葉。

 ただ一度の反論で瓦解してしまいそうな、脆い主張を、今の日本は誰も好まない。いかに美しかろうと、触れれば壊れるようなヒビの入った壷を、誰も欲しがらないのである。

「それにしても、テントウさん、あなたは――」

 甘い甘いシロップのたっぷりかかった、パンケーキみたいな人だ。

 テントウさんは、破顔した。


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