ベッドのなかでおままごと
彼女の背中には大きなクモがいた。熟れたトマトのように赤く、長い手脚がつぶれたようにひしゃげた……見るもおぞましい……そんなクモが。いびつなかたちのそれを僕は指でゆっくりとなぞる。
「いたい、いたい……」
蚊の鳴くような声、けれどどこか嬉しげな、淫靡な、カレンの声はまるで白砂糖を含んだように、直接的な甘さをもっている。砂糖は実は麻薬なみの常習性があり、食べすぎると毒であるーーその話を耳にしたとき、僕は妙に納得したものだ。僕は甘い声で泣く彼女に首ったけだ、中毒だ……認めたくはないが。
僕がクモに唇を寄せると、くすぐったそうに彼女は身をよじり、牝犬のように鼻から息を漏らす。
「だれにやられた」
「言わなきゃだめ?」
僕はカレンのその言葉に、クモを……クモのようなかたちの痣を這う指の力を強めることで、答えた。
「や、あ、ぐりぐりしないでぇっ!」
彼女は嬌声をあげ、僕の肩に頭をもたせかける。彼女のそんなスキンシップ過多であるところは、きらいではない。女はこんなふうに媚を売っているときが、いちばんかわいらしい。そして女はカレンのように、自分よりすこし馬鹿なくらいが望ましい……フェミニストでない僕は常々そう思っている。もちろん口にはしないが。
「あなたのね、お兄さんにやられたのよ」
ヒューか。僕の頭の中には何十もの選択肢があり、カレンの答えによっては彼女を抱きしめようか殴ろうか、考えなくてはならなかったのだが……僕はそのどちらも選ばなかった。僕はただ、頭が変になったようにけたたましく笑った。ヒューは僕の腹違いの兄だ。温和な性格で、僕ともそれなりに仲が良い。
「きみはほんとうに誰とでも寝るんだな」
「お客様だもの」
カレンは高級娼婦だ。身分は下手な貴族よりもずっと高い。だからほんとうは、吹けば飛ぶような貧乏男爵家の次男坊、しかも妾腹である僕なんかが相手にされるわけがないのだ。しかし僕の家とカレンの実家は領地が隣り合っていて家の爵位も同じようなものであったり、それゆえカレンの一族と僕の一族は家族ぐるみの付き合いがもはや伝統であったり、その他諸々の事情が重なって、僕はカレンにぞんざいな口がきける。
つまるところ僕らは「幼馴染」なのだ。洗礼も同じ日に受けた、風呂にも一緒に入った、たわいない秘密を共有し、まさしく兄妹のように育った。その皮肉なほど微笑ましい繋がりだけで、僕らはこの関係を保っている。今はずいぶん変わってしまったのだ、カレンもそして僕も。幼馴染として過ごした平和で退屈なあの時代の懐かしさよ、そこまで考えて僕は首を振った。糞食らえ。
貧乏な男爵の末娘にすぎなかったカレンはやがて、目の覚めるような美少女に成長した。
地方でいちばんの美貌、との評判を得て、少女から女性へと羽化しつつあった彼女を、たまたま田舎に視察に来ていた国の実権を握る大貴族が見初めた。ぜひとも愛人となるよう乞われ、彼女は都へ立った。
その大貴族が内乱で失脚するまで、カレンは蝶よ花よと大事にされたらしい。最終的には大貴族の政敵によって、高級娼館に売られたが、そこでまた頭角を現した。美人なうえに声がきれいで、唄がうまく明るい彼女は相変わらず社交界の花だ。
その激動の十年間、僕は何をしていたか。僕は数奇な運命を背負った幼馴染を、ただそばで見ていただけだ。指を咥えて。
たまにカレンの気まぐれに付き合って恋愛ごっこをすることもあったが、僕自身がカレンと釣り合うとはこれっぽっちも考えていなかった。カレンのことはたしかに好きだが、彼女と恋するのはそれこそ吟遊詩人に歌われるようなやんごとなき家柄の、容姿も頭脳も完璧なヒーローでなくてはならないと思っている。
ただ、カレンが非常に男好きであり、貞操観念は皆無といってもいいという事実は問題かもしれない。しかし彼女の魅力はその欠点を補って余りある。これはほんとうなのだ、カレンは実はその派手な男関係からは想像ができないほど初心な面があり、どんな男にも染まってしまいそうな危うさをもっている。
僕は思うのだ、カレンは聖女ではないかと。誰でも受け入れるというのはつまり誰をも許しているということだ。それは責められるべきことだろうか。
こんな馬鹿なことを本気で考えてしまうほど、僕はカレンを愛している。高級娼婦のカレンが英雄と結ばれるいうのはいささか無理のある話であるし、カレンは聖女というにはあまりに俗っぽい、男好きのする容貌である。その燃えるように赤い髪、ぽてっとした厚すぎる唇、零れ落ちるのではないかと思われるほど大きな瞳。毒婦役はできても、ヒロインの典型である清楚な、弱々しい、柳腰の令嬢役はとてもできないだろう。
僕は熱気のこもったベッドから抜け出た。濃いコーヒーが飲みたかったのだ。
「ヒューはこんなことをするとは思えないけど」
「ふふ。男の妬みはみっともなくてよ。ヒューはこれを綺麗だと言ってくれたわ。ねえエド、あたしにもコーヒーをちょうだい。戸棚にあるブランデーをすこし混ぜてね」
「わかった」
カレンが他の男と寝る、僕が嫉妬する、ここまでが僕らの茶番のひとつなのだ。僕はそこまでヒューを恨んでいない、なぜならカレンは僕のものではない、カレンの男にひとりひとり嫉妬なんてしていたらそれこそ発狂してしまう。カレンは僕のこの、自己中心的なサディストというキャラクターを楽しんでいる。そしてカレンはそんな男を翻弄しているつもりのバカな女を演じている。すべてがお芝居なのだ、僕らは俳優で観客だ、この遊びは子ども頃から続くふたりの秘密のひとつであった。
他の男の前でカレンはどんな女であるのか、どんな態度をとるのか僕は知らない、もしかしたら鞭で男を叩いたり、足で踏みつけたりしているサディストなのかもしれない。もしくは少女のような可憐さで男を喜ばせているのかもしれない。娼館に売られた悲劇の美少女として同情を買い、しおらしくしているのかもしれない。いずれのカレンも僕は想像できる。どちらにしろカレンは好きにじぶんを演じているのだろう。
カレンという女の真価は、その豊かな想像力にこそある。
「ねえほんとうのきみは、実は馬鹿なんじゃないか」
ブランデー入りのコーヒーを渡しながら僕はふと呟いた。
「ばかよ。でも、あたしに夢中なあなたはもっとばかね」
彼女はコーヒーをうけとり、ひとくち含んでのびをして、音もなく今夜のパーティー用のドレスを着た。背中が大きくあいた、マーメイドラインのドレスだ。僕は気づいた。痣だと思っていたクモは刺青の痕だった。この赤みが引いて、瘡蓋となり、やがて彼女のすべすべしたミルク色の肌に、深く青い墨が刻まれるのだろう。
「ヒューにいわれたわ、エドをもう解放してやれと。さもなければここで店に出れないようにしてやると。刺青師を連れて来たの……。あたしはこれでもうまともなお客をとれない」
彼女は夢遊病者のような目で僕に語りかける。さああなたのセリフよ。
「ヒューの目論見は失敗だな。僕がそれくらいできみを離すわけがない。嫉妬深くて最低なサディストの僕が」
僕は吐き捨て、カレンは満足げに笑みを浮かべた。
おわり。