第4章 決断
星が零れるほどの夜空。
けれど、メイの瞳には、その美しさすら映らない。
バルコニーに置かれた長椅子に腰を下ろし、膝に両肘をついて、独り、物思いに耽る。
美しいルーヴェラント。この国を護りたいという思いは、誰よりも強いと自負している。けれど、そのために、過去、多くの国王達がそうしてきたように、この国の平和を王族の女達の涙であがなうことだけは嫌だった。国の平和と王族の平和。それらを一緒に叶えたい。
「力さえあれば……」
苦い思いが、呟きとなり、唇から零れる。
唇を強く噛む。
その時、背後に人の気付を感じた。頭だけで振り返ると、そこには黒髪の少年が佇んでいた。夜の闇の中なのに、僅かな月の光を反射した瞳がキラキラと輝いているのが解る。
「どうした。お前も眠れないのか?」
少年が頷くのを確認し、メイは片手で椅子に座るよう促した。
「眠れないなら、私の愚痴に付き合ってくれないか?」
なぜ、こんな事を言ってしまえるのだろう。不思議になる。姉妹達にさえ、愚痴など聞かせたことはないのに。
眼の端で窺うと、少年は長椅子にちょこんと座り、脚をぶらぶらさせながら、頭の後ろで腕を組み、夜空を眺めている。
流浪者の子供のくせに、大した度胸だ。そう思うと、自然、笑みが零れる。
同じように夜空を見上げ、独り言のように呟く。
「お前は、……どう思う?」
少年が聞いていようがいまいが、どうでも良かった。ただ、この胸の中の蟠りを言葉にすることで、吐き出してしまいたかった。
「ルーヴェラントは、良い国だ。この三百年余の間、戦火に見舞われることもなく、平和に暮らしてきた。しかし、その平和の裏に、王家の女達の悲しい歴史があることなど、誰も知ろうとすらしない。王族の姫は、他国との友好のために、次々と嫁いでいった。ルーヴェラントの女性は美しいと評判だ。どの国でも喜んで娶りたがる。女達は、人並みに恋をする事すら許されなかった。平和の道具となるためにな」
深い溜息が、メイの肩を上下させる。
「この国には、金のルーヴェの伝説というものがあるんだ。三百年前、強大な力を有しながらも、それを決して遣わず、この国を永世和平国家に導いた賢者として崇められている国王だ。しかし、……私は、彼を賢者だとは思わない。力を否定する事が平和だとは思わない。力を持ってこそ、平和が約束されるのだ。神の力が失われし今、我々が手にできる力とは何か。……武力だ。武力さえあれば、タタイのような野蛮な奴等に、好いように侮辱されることもないのに。私は、……私は、金のルーヴェが憎い」
前屈みで、己の両膝を拳で強く叩く。金のルーヴェが憎い。その思いは、同時に、力無い己に対する非難にも繋がっていた。
そのまま、膝を抱える。
心地よい微風に乗り、咲き誇る草花の甘やかな香りが心を癒す。
メイは、深く長い溜息を落とした。
「……すまない。こんなことを話しても、お前に解るはずもないというのにな……」形の良い唇に、自嘲を込めた笑みが浮かぶ。「なぜ、私はお前を相手に、こんな話をしてしまうのかな。……子供とはいえ、お前は男だ。女の私は、それに縋りたいのだろうか……? バカな話だな……」
「あんたが望む平和って、いったい、なんなんだよ」
椅子を立とうと腰を浮かし掛けていたメイの動作が止まる。その両眼は、驚きに見開かれたまま、傍らに腰掛ける黒髪の少年を凝視した。少年特有の甲高い、しかし、妙に温かみのある声……。
「お前……、口が利けるのか?」
素直なメイの問いに、少年の口許に悪戯な笑みが浮かぶ。
メイは、膝から崩れるように椅子に身を沈め、前髪を掻き上げた。
「すっかり、騙された」
彼女は小さく笑ったが、その笑みは一瞬で、すぐに、顰めた眉間に掻き消された。
少年は確かに問うてきた。年に似合わぬ、挑戦的な口調で、メイに、彼女が望む平和とは何かと。
その問いが、彼女の胸の奥に燻っていた疑問と焦燥に火を付けた。
こんな子供を相手に、と、頭の片隅では思いつつも、メイは言わずにはいられなかった。
「ならば、問う。力に裏打ちされぬ平和など、所詮は夢物語。真の平和とは言えぬ。……違うか?」
少年は静かに椅子を降りた。真っ直ぐ正面からメイと対峙するためだ。その動作は、まさに子供のもの。けれど、その唇が紡ぐ言葉は、この国で、未だかつて誰からも聞くことの出来なかった論理。
「力を持てば、どうなる? 他国を凌駕する力を得るため、更なる力を望む。そして、最後に訪れるのは戦か? それで多くの罪なき民の血が流される。それを、あんたは平和という名で飾るのか?」
カッとする。しかし、それが、今まで感じたことのない興奮であることも、良く解っていた。
「なら、どうすればいいと言うのだ! 子供のお前に、いったい何が解る! 知ったような口を利くな!」
「力を背景にした平和を唱えたところで、誰がそれを真に受けとめる? 本当の力ってのは、武力じゃないはずだ。親を愛し、家族を愛し、仲間を愛する心こそが、一番強い力になるんじゃないのか? 国なんて壁を創るから争うんだ。一人ひとりが、一対一、同じ人間として向き合えば、何を争う必要がある? あんた、何を恐れてるんだ。この国は永久に平和を宣言した。それは、周辺国にさえ認められているんだ。その国を襲う事は、道義にもとる行為」
少年の、淡々とした静かな語り口。
確かに正論だ。しかし……。
「綺麗事を並べ立てるだけなら、誰にだって出来る! だが、現実は違う。力の無いこの国が声高に平和を唱ったところで、力に押さえつけられてしまえば、それまで。そんな小国を、誰が護ってくれるというのだ? 今回のことだって、そうだ。結局、力がなければ、ルーヴェラントはタタイの申し出を跳ね除けることなんかできはしない。自分を護る力を持っていればこそ、望む平和が手に入るのだ」
無意識に長椅子の肘当てを拳で強く叩く。そんな己に恥じ入るように、メイは俯いた。影となった唇が、微かに言葉を紡ぐ。
「力さえあれば……、私だって普通の女として、普通の恋をして、人並みの人生を歩む事ができたはず……」
しかし、それは明確な言葉の態を成さなかった。
メイの姿をどう思ったのか、少年の静かで辛辣な言葉は続く。
「王は、国民のためにこそ存在する。国を平和に維持するために他国に諂うことの何処がいけない。いや、平和を望むのに、そんなに卑屈になる必要などないんだ。声高に平和を謳いあげればいい」
諂い、卑屈……。
それらの言葉が、メイのかんに障る。顔を上げた瞬間に口にした言葉は、自分でも驚くほどに荒ぶっていた。
「謳うだけで平和が手に入るというなら、声が枯れるまで謳うとも! しかし、力で押さえつけられた時、望む平和のために、今のルーヴェラントに何がができる? それこそ、王として最低ではないか!」
「力を望む者が、望む力を得たら、次はいったい何を望む? 権力への欲望か? そして、多くの罪無き人々の血が流されるのか? お前に、血を流す覚悟があるのか?」
悔しい。こんな子供にいいようにあしらわれて! 感情が高ぶる。それすらも悔しい。
「なら、王族の者は、いくら泣いてもいいと言うのか? 国のために犠牲になれと? 冗談じゃない!」悔し涙が目尻に滲む。それすら気付かぬ程に、メイの感情は高ぶっていた。「そんなの、力があるから言えるのだ。力を持たない者の気持ちなんか、お前に解るものか。金のルーヴェは、大バカ者だ!」
次の瞬間、頬に鋭い痛みが走る。
我に返ったメイの眼前に、両脚を肩幅に開き、仁王立ちする少年の姿があった。彼は上目遣いでメイを睨んでいた。
「バカ野郎! お前こそ、レノワの苦しみなんか何も知らないくせに……。お前にレノワを非難する権利があるとでも思ってんのか?」漆黒の瞳の奥に揺らめく深い哀しみ。それが、メイの心を揺さぶる。「ルーヴェラントは堂々と平和を唱えていけばいいんだ。国を護り、導く立場のあんたが心を乱されてどうすんだよ!」
頬にそっと指先を滑らせる。まだ痛い。しかし、なぜか怒りは沸いてこなかった。逆に、気持ちが落ち着き、後悔ばかりが胸を塞ぐ。
「……子供のくせに、生意気なことをいう奴だ」
がっくりと肩の力が抜ける。
長椅子の背にもたれ掛かれば、眼の前には降るような星空が広がっている。
ふと思う。自分は何時から星に願うことをやめたのだろう。母が身罷り、父が病に伏した時、それでも、平和という名の甘い夢に縋ろうとする姉妹達に不安を覚えた。現実を見る眼は、自分しか持っていないんだ。王子が産まれない以上、自分がその代わりを務めなければ……。そんな諦めにも似た思いで、長かった髪をばっさりと切った。服装も、言葉遣いも男を真似た。世の中を、真っ直ぐに見るのはやめた。そして、知らぬ間に、そんな風にしか全てを見られなくなっていた。
「……そうだな。お前みたいに真っ直ぐに考えられたら、本当に良いな。……だが、今、世の中は、そう簡単には出来ていないんだ。国と国との利害の前では、人間の命など虫けら同然。哀しいけれど、それが現実なんだ」
言い置いて、小さく笑う。なぜかとても気分が良かった。心地よい夜風のせいだろうか……?
「お前、変な奴だ。全然子供らしくない。でも、……ありがとう。お陰ですっきりした。こんな事、城の誰にも言えなかったから」
暫し視線を巡らした後、少年へと落とす。今の今まで見上げていたのと同じキラキラと輝く夜空が、そこにあった。
「お前、名は?」
答えないかと思った。けれど、予想に反して帰ってきた素直な答え。
「……サリオ」
「サリオか。……良い名だな」
再び、吸い寄せられるように視線は星空へ。その直後、大空を光りの尾が横切った
(平和を……。)
咄嗟に祈っていた自分に気付く。でも、今だけは、どんな夢でも叶うような気がした。
そっと眼を閉じ、心の奥で繰り返す。
(この国の平和が、何時までも続きますように……。)
その時、彼女の横顔をじっと見つめるサリオの視線に、メイが気付くことはなかった。
☆ ☆ ☆
その日から三日三晩、メイは自室に隠り、悩み続けた。その間、誰に相談することもしなかった。病床の父はもちろん、姉妹達にすら。
相談すれば、答えは解っている。皆、自分が行くと……、犠牲になると言うだろう。
それは、決して悲惨なことではない。ルーヴェラントの王家に産まれた女としては、長い歴史の中で繰り返されてきたこと。たまたま、行く先がタタイになっただけ。そう思えばいいのだから、と……。
しかし、メイは納得できなかった。誰も犠牲にはしたくなかった。そう……、自分以外には。
散々に悩んだ挙句、メイは再び、自らタタイへ赴くことを決めた。姉妹達はもちろん、家臣達も止めた。けれど、メイは聞き入れなかった。自分が下した結論には、自分で責任を取らなければ。それが、自分に出来る唯一のこと。
供の数も、持参する荷も最小限にとどめた。それは、とても一国の皇女の旅行列には見えない質素さだった。まるで、帰ることを考えぬ旅支度。そう噂する者さえいた。
屈強な家臣達の中、ただ一人だけ異質な人物が紛れていることに気付く者は数少なかった。それは、黒のチェスパに身を包んだ黒髪の少年。……サリオだった。メイが是非にと望んだのだ。
「サリオ。お前も一緒に来てくれないか?」
旅の前夜、サリオに与えた部屋を自ら訪ね、メイは躊躇いがちにそう言った。
ベッドに寝転がり、面倒くさそうに片眼を開けるサリオ。
「なぜ……? 俺は、所詮、ただの子供だぜ」
つっけんどんな言葉の裏で、その口許に愉快そうな笑みが零れていることをメイは見逃さなかった。
「ただの子供は、そんなことは言わないと思うが……」ベッドの隅に腰を下ろし、真上から黒の瞳を覗き込む。「正直、不安なのだ。……ダメか?」
サリオは小さく息を吐くと、勢いよく躰を起こし、胡座を掻いた。
「……行ってやるよ。昔から、女の頼みは断れない性格でね」
からかうような口調。
メイの顔にも、自然と笑みが浮かぶ。
「生意気な奴」
「あんたこそ、な」
くすくすと、小さく笑い合う。
今、この一時は忘れよう。押し寄せる運命も、辛い明日も。
サリオの笑顔に、メイはそう思った。