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【証拠はいらない】ただそこに、いてくれれば

作者: Wataru
掲載日:2026/01/26

相談者は、七十代の女性だった。


背筋は伸びている。

声も落ち着いている。

けれど、椅子に座ってから、一度も視線が定まらなかった。


「犬を、亡くしました」


「ああ」


それだけ返す。


「もう、二年になります」


「長いな」


「はい」


少し笑う。


「でも」

「昨日のことみたいでもあります」


沈黙。


「今日は、何を?」


彼女は、はっきり言った。


「もう、飼わないと決めたのに」

「それで、いいのか」

「分からなくなって」


「誰かに言われたか」


「いいえ」


即答。


「誰にも」

「何も言われていません」


「じゃあ」


少し間を置く。


「自分で、自分を責めてる」


彼女は、視線を落とした。


「犬がいない家が」

「空っぽで」

「息ができない感じがするんです」


「一人か」


「はい」


「ご主人は」


「先に、亡くなりました」


それで、話は終わった。


「犬と、二人でした」


静かだった。


「新しい犬は?」


「考えました」


「でも」


彼女は、首を振る。


「また失うと思うと」

「怖くて」


「年齢?」


「それもあります」


「世話が、できなくなるかもしれない」


「だから」


彼女は、少し迷ってから言った。


「ぬいぐるみを、作りました」


「ぬいぐるみ」


「そっくりに」

「毛並みも」

「大きさも」


「高かった?」


「二十万くらい」


「置き場所は」


彼女は、少しだけ目を上げた。


「ソファの上です」


「いつも、そこにいたから」


「話しかける?」


「いいえ」


「抱く?」


「いいえ」


「じゃあ」


俺は、ゆっくり言った。


「何のためだ」


彼女は、しばらく考えてから答えた。


「……そこに、いてくれればいいんです」


「それだけ?」


「それだけです」


沈黙。


「消したくなかったんですね」


「……はい」


「いた、という事実を」


彼女は、静かに頷いた。


「犬はな」


「家族だとか」

「癒しだとか」

「そういう言葉じゃ足りない」


彼女は、黙って聞いている。


「一緒に生きてた」

「ただ、それだけだ」


彼女の目が、少し潤む。


「飼わない選択も」

「飼う選択も」

「どっちが正しいかなんて、ない」


「……でも」


「苦しいだろ」


即答だった。


「はい」


「飼わないほうが」

「時間は、余る」


「考える時間も」


彼女は、ゆっくり頷いた。


「新しい犬がいれば」

「忙しくて」

「悲しむ暇も、減る」


「だから、楽になる」


「……そう思います」


「でも」


俺は、続ける。


「それを選ばなかったのは」

「逃げじゃない」


「……え?」


「ちゃんと」

「その悲しみを」

「引き受けてる」


彼女の肩が、少し震えた。


「会いたいです」


小さな声だった。


「今でも」


「だろうな」


「だから、ぬいぐるみを」


「それでいい」


彼女が、顔を上げる。


「いいんですか」


「ああ」


「生き物の代わりじゃない」

「場所を、残しただけだ」


「そこに」

「いてくれればいい」


彼女は、長く息を吐いた。


「……証拠、いりませんでしたね」


「ああ」


「正解も?」


「ない」


「ただ」


少し間を置く。


「愛してた」

「それだけだ」


彼女は、深く頭を下げた。


「もう」

「無理に、前に進まなくていい」


「このままで?」


「このままで」


ドアが閉まる。


相棒が、ぽつりと言った。


「亡くなっても、今もそこにいるよね」


「ああ」


静けさ。


失ったから、苦しいんじゃない。

大切だったから、苦しい。


それが分かっているなら――

証拠はいらない。


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