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第9話『口約束は、腹より軽い』

いちの熱は、三日遅れてブリキ坂に届いた。


噂というのは、火と同じだ。いちばん燃えやすい場所から燃え上がり、風に乗って、乾いたところへ移る。市で見た“冷える箱”の話は、魚屋の口から始まり、食堂の鍋の上を渡り、宿屋の枕元まで滑り込んで――最後に、職人街の入口で爆ぜた。


レンの工房の戸を叩く音が、朝から止まらない。


「坊や! あれ、うちにも一つ!」 「魚もいけるって? なら安くしてくれよ」 「今日中に欲しい。明日、祝いがあるんだ」 「口約束でいいだろ? うちとは昔からだ!」


“昔から”なんて、レンにはない。十歳の彼にあるのは、三日前の実演と、昨日作った検査票だけだ。


ミアが戸の内側で舌打ちした。


「増えすぎ。……こんなに一気に来たら、削る前に折れる」


「折れないようにするのが商会だろう?」


マルコが淡々と言い、扉を少しだけ開けた。隙間から雪のように声が入り込む。


「順番に。まず名前。次に用途。最後に手付金。――手付金がないなら、順番は後ろだ」


途端に、外がざわついた。


「手付金? あれ、肉屋が払っただけだろ」 「薬屋も払ったって聞いたぞ」 「子ども相手に金を先に出せってのか」 「冗談じゃねえ。口で約束したんだ、作れ!」


レンの胸が、きゅっと縮む。市では、成功した。冷えた。針が動いた。匂いも漏れなかった。だから――皆、欲しいと言う。


だが、欲しいと言うのと、払うのは違う。


マルコが、目だけでレンに合図した。余計なことを言うな、と。レンは頷いて、机の上の紙束を抱えた。検査票と、簡易契約書の雛形。ここから先は、紙の戦いだ。


最初に入ってきたのは、魚屋の男だった。頬が赤く、指が荒れている。口は達者で、目は忙しない。


「おう坊や! 市で見たぞ。あれ、魚でもいけるだろ? うちのアジ、すぐ臭うんだ。冷えるなら買う」


「ありがとうございます。用途は魚の保管ですね。魔石はC級以上を推奨で――」


「難しいことはいい。とにかく冷えりゃいいんだ。で、いくらだ?」


レンが口を開く前に、マルコが割って入った。


「値段は契約書に書く。先に手付金だ。手付金は――日雇い三日分」


魚屋が眉を吊り上げた。


「高ぇよ。子どもの箱に、先に三日分? 冗談じゃねえ。納品のときに払う。口約束でいいだろ」


ミアの拳が、机を叩きそうになるのをレンが袖で止めた。代わりにレンが言う。


「手付金は、材料を買うためです。木材と革と金具と、封印蝋……」


「材料? そんなもん、今あるだろ。木箱なんて」


魚屋が笑う。外の連中も笑う。笑いは、刃だ。レンは唇を噛んだ。ここで怒ったら、負ける。ここで泣いたら、食われる。


マルコが、紙束を机に置いた。指で一枚を叩く。


「これが検査票だ。番号と刻印が一致している。封印蝋が割れていない。――そういう“守り”を入れてるから、冷える。守りを入れてるから、手間がかかる。手間がかかるから、材料も食う」


魚屋が鼻で笑う。


「紙で魚が冷えるかよ」


その瞬間、レンの頭に、肉屋ガルドの声がよぎった。


――条件は“本気”の証拠だ。


レンは魚屋に、まっすぐ言った。


「口約束だけなら、あなたはいつでも逃げられます。僕らは逃げられません。だから、手付金が必要です」


魚屋の目が一瞬、冷たくなる。


「……ガキが偉そうに」


立ち上がり、椅子を乱暴に引いた。


「いい。じゃあ要らねえ。別の奴に頼む」


魚屋が出ていくと、外のざわめきがさらに増した。「手付金だってよ」「調子乗ってる」「市で当てただけの箱だ」


レンの喉が痛い。成功が、すぐに反転する。噂は火だ。燃えるほど、煙も出る。


次に入ってきたのは、宿屋の女将だった。身なりは良いが、目が鋭い。


「冷える箱、欲しい。お客の肉も、薬も守れるならね。でもね――納期は一週間。値段は半分。これでどう?」


レンが息を呑む。納期一週間。半分。どちらも、こちらの首を切る条件だ。


ミアが言いかけた。


「無理だ、それは――」


マルコが手で制した。


「条件は聞く。だが、決めるのは紙だ。半分はない。納期も、工房の能力がある。無理をしたら事故が起きる。事故が起きたら、あなたの宿が燃える可能性がある」


女将の目が細くなる。


「脅し?」


「現実だ」


マルコの声は低いが、感情がない。だから怖い。女将は舌打ちして、腕組みをした。


「じゃあ、口約束で一台。出来たら払う。出来なきゃ無し。あなたたちも損しないでしょう?」


レンの胸が、さらに縮む。損する。出来たら払う、は“出来るまで払わない”と同じだ。材料も手間も全部こちら持ちで、相手は出来た瞬間に値切れる。


マルコが言った。


「それが、いちばん損だ。だから契約だ」


女将が鼻を鳴らした。


「子ども相手に契約?」


その言葉が、レンを刺した。十歳。信用がない。契約弱者。だからこそマルコがいるはずなのに――現実は、年齢で踏み潰しに来る。


外の騒ぎが大きくなった。誰かが戸を蹴った。怒号が飛ぶ。「いつ作るんだ!」「市で見たぞ!」「こっちは客が待ってる!」


レンは耳を塞ぎたくなる。だが塞いだら、全部が嘘になる。


そのとき、工房の入口の人混みが割れた。


「道を開けろ」


低い声。怒鳴っていないのに、人が避ける声。夜警のオルグが入ってきた。


大柄で、顔に古い傷がある。腰には棒。目は眠そうなのに、こちらの呼吸を数えるみたいに鋭い。彼は一度、工房の中を見回した。


「……噂で客が雪崩れ込んだか」


ミアが唇を噛む。


「夜警が何の用だよ。うちは揉めてない」


「揉めてるように見える」


オルグが外を顎で示す。工房の前は、半分喧嘩だった。怒号、押し合い、値切りの声。金が動く匂いに、人が集まりすぎている。


「こいつら、口約束で“順番”を奪おうとしてる。先に金を出す奴が馬鹿を見る。そうなると――夜になる」


夜になる。つまり、盗難や暴力が起きる。レンは背筋が冷えた。


オルグが、机の紙束を見た。


「仲裁屋は?」


マルコが顎を上げた。


「呼んでる。だが、来るまで持たないかもしれない」


オルグがうっすら笑った。


「持たせてやるよ。夜警は、夜だけじゃなく“夜になる前”にも働く」


オルグが外へ出ると、怒号が少しだけ引いた。棒を持った男が立つだけで、人の口が少し軽くなる。だが、それでも、欲と焦りは止まらない。


そして、遅れて現れたのが――仲裁屋ラザールだった。


背筋の伸びた男。白髪混じり。着ている外套は派手じゃないのに、どこか“裁定”の匂いがする。彼が工房に入った瞬間、空気が変わった。


「揉め事の匂いがする」


ラザールは、最初にそう言った。匂い、だ。肉屋が鼻で嘘を嗅ぐなら、仲裁屋は匂いで嘘を裂く。


マルコが一礼する。


「口約束で受注が雪崩れ込んだ。未払い、値切り、納期圧だ。――裁いてくれ」


ラザールは頷き、机の上の雛形契約書を手に取った。紙を一枚めくるだけで、外の喧噪より重い音がした。


「この世界の法は弱い。だから、仲裁屋がいる。だから、印がいる」


ラザールは外へ出ると、工房前の人混みに向けて声を張った。


「聞け。クラフト商会(仮)の製品は、口約束では受けない。――契約書、手付金、納期。これが揃わない者は、順番に入れない」


ざわめきが跳ね返る。「横暴だ」「商売ってのはそうじゃねえ」「子どものくせに」


ラザールは、笑わなかった。ただ、続けた。


「口約束は、腹より軽い。軽い約束は、軽い責任しか生まない。責任が軽いなら、事故が起きる。事故が起きたら、誰が払う?」


人が黙る。事故、という言葉は強い。冬の火は怖い。冷える箱が燃えたら、笑い話では済まない。


ラザールは指を一本立てた。


「第一。手付金を払う者。これは材料を動かす。払わぬ者は、作れぬ。作れぬなら、口約束は嘘になる」


指を二本。


「第二。値切りをする者。値切るなら、削る場所を指定しろ。――安全部品を外す値切りは、裁く。お前らの命を守るためだ」


指を三本。


「第三。納期圧をかける者。工房には限界がある。限界を超えたら、誰かが怪我をする。それは罪だ」


ラザールの言葉は、凍った水みたいに冷たい。冷たいほど、透明で、嘘が混ざらない。観衆の目が、徐々に“金”から“紙”へ移っていく。


オルグが前に出て、棒を地面に打ち付けた。


「聞こえたな。契約が嫌なら帰れ。暴れるなら――夜警が相手だ」


それでも残る者はいる。だが、残り方が変わった。怒鳴って前へ出る者ではなく、渋い顔で財布を探す者が増える。欲は消えない。形が変わるだけだ。


レンは、その光景を見て、胸の奥が少しだけ楽になった。怖さが消えたわけじゃない。怖さに形がついた。形がつけば、対処できる。


工房の中へ戻ると、ミアが低い声で言った。


「……紙で殴るって、こういうことか」


マルコが頷く。


「殴らないと、殴られる。商売はそういう場所だ」


レンは、机の上の契約書を見つめた。紙に、線を引く。線は、刃だ。刃は、守りにもなる。


そこへ、扉の隙間からガルドが顔を出した。いつもの荒い笑いはない。鼻を鳴らし、低く言った。


「坊主。……変な匂いがする」


レンの心臓が跳ねる。


「変な匂い?」


「市でな。“冷える箱”が、もう一個あったって話だ。刻印はない。封印蝋も雑。……でも、冷えたって言う奴がいる」


ミアが顔色を変える。


「そんな――」


マルコが一歩前に出た。


「誰が言った」


「魚屋の連中が言ってた。安く手に入ったって。……俺は鼻で分かる。あれは“本物の匂い”じゃねえ。でも、客は匂いじゃなく――値段で動く」


レンの背中が、ぞっと冷えた。


市で聞いた声が蘇る。


『赤でも動くよ、坊や』


赤。安い。闇。事故の温床。


ラザールが静かに言った。


「似た箱が出回れば、真っ先に傷つくのは“本物”だ。事故が起きたとき、区別できない者は、本物を責める」


オルグが棒を肩に担ぎ、ため息をついた。


「夜になるな……」


レンは、拳を握った。十歳の小さな拳だ。けれど、守ると決めた。刻印と封印蝋と検査票を作ったのは、今日みたいな口約束の雪崩から守るためじゃない。


もっと汚い雪――闇から守るためだったのかもしれない。


外ではまだ、客の声がする。欲しい、安く、早く。工房の中では、紙の音がする。契約の線が引かれる音。守りの音。


そして、鼻の良い肉屋の言葉が、最後に残った。


「……似た箱が出回ってる」


(つづく)

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