第8話『市(いち)で実演、噂で試合』
市の朝は、湯気で始まる。
煮込みの鍋がぐつぐつ鳴り、焼き串の脂がぱちぱち跳ね、干し魚の匂いが風に乗る。石畳は昨日の雪を踏み固めて冷たいのに、人の吐く息と声だけはやけに熱い。ブリキ坂の職人たちが出す屋台の列と、王都から流れてきた商人の布の天幕が混ざり、境目が曖昧になっている――この場所は、噂が生まれて増えるための器だった。
レン・クラフトは、その器の真ん中に立っていた。
足が、勝手に震える。十歳の体は正直だ。寒さじゃない。見られる怖さだ。失敗したら笑われる。笑われたら終わる。第7話で手付金を取ったのは、材料のためじゃない。今日のこの瞬間のためだ。
「ほら、背筋。小さく見せるな」
ミアがレンの背中を拳で軽く押した。軽く、だが鋭い。鍛冶屋の娘の拳は、言葉より真っ直ぐだ。
「……大きく見せたら、嘘になる」
「嘘じゃない。やってきたろ。箱、作ったろ。汗、かいたろ」
ミアの言葉に、レンの喉が一度だけ鳴った。そうだ。汗は嘘をつかない。作ったものも嘘をつかない。嘘をつくのは――人の口だけだ。
その“口”を整えるように、マルコが屋台の前に木箱を置いた。木箱の中身は、今日の主役――商会版の保冷庫。扉の角に金具、縁に革のパッキン、内壁は二重、隙間に木屑。封印蝋の痕が薄く光る。
「いいか、レン。今日は売らない」
マルコが低い声で言った。
「え?」
「売るのは、次だ。今日は“買わせる”日だ。買う気を作る日。値段の話は、聞かれたら答える。自分から言うな」
レンは頷いた。売るのは金の話だ。買う気は、怖さの話だ。怖さを越えさせるのが実演だ。
そこへ、肉屋のガルドが乱暴に割って入ってきた。太い腕に、赤い肉の塊をぶら下げている。鼻を鳴らし、周囲の匂いを一息で嗅ぎ分けた。
「おい! 約束は覚えてるな、坊主!」
声が市に響いて、何人かが振り向いた。振り向きが連鎖して、円ができる。円は、舞台だ。
「ガルドさん……」
「俺の肉でやるんだろ。ほら。今朝切った。これが昼に臭ったら――俺が笑うどころじゃねえぞ」
ガルドが肉を木台に叩きつけた。血の匂いが一気に広がる。観衆がざわめく。
「肉を冷やす? 氷なしで?」「魔導具じゃねえのか」「子どもがやるのかよ」
レンは一瞬、耳が遠くなった。声が波みたいに重なる。怖い。けれど――ここで目を逸らしたら、全部が嘘になる。
レンは深く息を吸い、声を出した。
「――見てください。これは“魔法で冷やす箱”じゃありません。“仕組みで冷やす箱”です」
少し笑いが起きる。だが、その笑いは悪意だけじゃない。面白がりの笑いだ。市の笑いは鋭いが、正直でもある。面白くなければ集まらない。
レンは保冷庫の扉を開け、内部を見せた。箱の中には、何も入っていない。最初に見せるのは、手品じゃないことだ。
「氷は入れません。魔石は――ここです」
レンは内側の一角を指で叩いた。小さな蓋。そこに封印蝋が塗られている。押し型の痕が残る。
「封印蝋が割れていたら、勝手に触ったって分かります。刻印と検査票が合わなければ、正規品じゃありません」
マルコが検査票を掲げた。紙が風に揺れて、文字が光る。番号が大きく書かれている。刻印の番号と一致している。
観衆の目が紙に吸い寄せられた。“紙”は市で強い。口よりも、印よりも、紙は“後に残る”からだ。
そこへセラが前に出た。測定具の袋を肩にかけ、淡い灰色の外套のまま、観衆の中へ踏み込む。彼女の歩き方は、学徒のそれだ。だが、目は職人の目をしていた。
「測ります」
短い言葉。会場のざわめきが一瞬だけ薄くなる。数字が出る、と人が直感で知る。
セラは細い棒状の測定具を取り出し、保冷庫の中へ差し込んだ。小さな針が震え、やがて落ち着く。
「箱の外、いま――」
セラは空気に測定具をかざし、針を見た。
「……この辺り。箱の中――」
次に箱へ。針が、少しずつ、しかし確実に下がった。
観衆がざわっとする。たったそれだけの動きで、人は信じ始める。信じたいのだ。冬の寒さに勝てる仕組みを。
「下がってる」「ほんとに?」「針が動いたぞ」
レンは言葉を重ねない。セラが数字で“見える嘘のつけなさ”を作るのを待つ。説明を短く、会話と実演に混ぜる――それがこの世界のルールだ。 Source
ガルドが腕を組んだ。
「で、肉は?」
レンは頷き、肉を箱へ入れた。赤い塊が、木箱の中で妙に目立つ。扉を閉めると、革のパッキンがきゅっと鳴り、空気が切り替わる音がした。
その音だけで、観衆の顔が変わる。人は“音”で信じる。閉まる音、密閉の音。匂いが閉じ込められる音。
「時間は?」
「市が一回回るまででいい」
ガルドが顎で示した。人の流れは波だ。波が一回戻ってくるまで――それが市の時間だ。
レンは頷き、観衆に向き直った。
「待っている間に、もう一つ見せます。――匂いです」
レンは空の布袋を取り出し、観衆の前で口を開けた。中は空だ。
「肉の匂い、分かりますよね。今、ここで嗅いでください」
ガルドがわざと肉の脂のついた指で鼻を擦り、観衆が笑った。笑いが場を緩める。緩んだ瞬間に、人はもっと前へ詰める。
レンは保冷庫の外側に顔を近づけ、鼻で吸った。革と木と樹脂の匂いはする。だが、肉の匂いは薄い。
「……漏れていません」
「おいおい、鼻で言われてもな」
誰かが笑う。レンは頷いた。
「だから――ガルドさんにも嗅いでもらいます。肉屋の鼻なら、嘘を嗅ぎます」
どっと笑いが起きた。ガルドが「言うじゃねえか」と鼻を鳴らし、保冷庫に顔を近づけた。数呼吸。眉が動く。
「……確かに、薄い」
ガルドの声が低くなる。観衆の熱が、さらに上がる。市の真ん中で、肉屋が真面目になる瞬間は強い。
「おい、これ――使えんじゃねえのか?」
その一言が、火種だった。
噂は、火より速い。
「冷える箱だ」「肉屋が言った」「針が下がった」「匂いが漏れない」「刻印がある」「検査票って何だ」
言葉が言葉を呼び、円が膨らむ。屋台の向こうの人まで振り向く。別の商人が近づき、別の職人が腕を組む。ドロテアが食堂の鍋をかき混ぜながら、わざと大声で言った。
「聞いたかい! ブリキ坂の坊やが、肉を冬より冷たくするってさ!」
ドロテアの声は、市の鐘より遠くまで届く。噂の増幅器――サブキャラ事典の通り、彼女は“場を回す”女だ。 Source
人が増えるほど、レンの足はさらに震える。だが、震えは今や恐怖だけじゃない。高揚でもある。
市が一回回る頃、レンは合図を送った。セラが測定具を取り出し、観衆の前で針を見せる。
「箱の外と、箱の中――差が出ています。冷却が起きている」
短く、断定しすぎず、しかし揺らさない声。セラは数字で嘘を殺す人間だ。 Source
レンは扉に手をかけた。ここで開けると、匂いが流れ出る。もし腐っていたら、今までの全部が崩れる。
喉が鳴る。手が冷たい。
ミアが、レンの手首を軽く掴んだ。
「開けろ。逃げるな」
「……うん」
レンは扉を開けた。
冷たい空気が、白くは見えないのに、確かに“肌で分かる”形で流れ出た。観衆の何人かが「あ」と声を漏らす。匂いも、違った。血と脂の匂いはあるが、鼻に刺さるほどではない。生臭さが尖っていない。
ガルドが肉を掴み、鼻へ近づけた。数呼吸。目が細くなる。
「……まだ生きてる匂いだ」
その言い方が、肉屋の最大級の褒め言葉だった。
観衆がどっと沸く。手を叩く者、叫ぶ者、笑う者。市は、勝ちを祝うのが好きだ。勝ちが本物なら、なおさらだ。
「欲しい!」「いくらだ!」「うちの魚でもできるか!」「薬は!」「刻印ってなんだ!」
マルコが一歩前へ出て、手を上げた。
「順番だ。欲しい者は名前を残せ。検査票の番号で管理する。――手付金の話は、ここではしない。商会で話す」
人々の不満が一瞬浮くが、すぐに別の声に押し流される。管理されることで“本物”に見える。紙と番号は、信頼の形だ。 Source
その熱狂の端で、レンはふと、背中の冷たさを思い出した。
視線。
人混みの向こう。荷車の影。誰かが、こちらを見ている。
レンが目を凝らすと、そこにいたのは――白い指。
男は、人の肩と肩の隙間に溶けるように立ち、笑っていた。笑顔が薄い。目だけがやけに澄んでいる。周囲の熱と逆の温度を持つ顔。
“白い指”のルッカ。
レンは息を止めた。第7話の路地の暗がりが、一瞬だけ市の真ん中へ混ざる。
ルッカは何も買わない。何も言わない。ただ、刻印の場所、封印蝋の色、検査票の紙質、セラの測定具の動き――全てを目で盗んでいる。
レンが目を逸らせずにいると、ルッカが人波の隙間をすり抜け、いつの間にかすぐ近くまで来ていた。誰も気づかない。気づけない。市の熱狂は、近い危険を見えなくする。
ルッカは、レンの耳元へ顔を寄せた。
息が、甘い樹脂の匂いを運ぶ。
「……いい実演だったよ、坊や」
レンは声が出なかった。ミアが何か言おうとしたが、ルッカはもう人混みに戻りかけている。まるで最初からいなかったみたいに。
振り向きざま、ルッカがぽつりと言った。
「赤でも動くよ、坊や」
“赤”。
レンの背筋が凍った。E級――不良混じり、闇市で流通しやすい、事故の温床。触るな、とシステム文書が言っていた色。 Source
ルッカは笑い、消えた。
市の熱狂だけが残る。歓声と呼び声の裏で、冬より冷たい不穏が、確かに芽を出していた。
(つづく)




