第7話『肉屋の鼻は、嘘を嗅ぐ』
朝のブリキ坂は、湯気と鉄の匂いが混ざっている。石畳の隙間に昨夜の雪解け水が残り、足元だけが冷たい。鍛冶場の火が立ち上がる前から、人は動く。動かなければ、冬に負けるからだ。
レンは、胸の前で革袋を抱えたまま、肉屋の店先に立っていた。袋の中身は金じゃない。紙と、小さな金属片と、蝋だ。
「……ここで、いいんだよな」
隣でミアが腕組みをしている。朝の空気のせいか、いつもより眉間が険しい。彼女の背には、木で作った試作品の小さな箱――保冷庫の“商会版”を見せるための見本が、布でくるまれて括りつけられている。
「いい。ガルドは朝一が一番機嫌いい。肉が売れる前だから、まだ怒鳴る余裕がある」
「それ、機嫌いいって言うのか……」
ミアは鼻で笑った。
「怒鳴るのは、仕事してる証拠だろ。黙ってるのが一番怖い」
レンは喉を鳴らし、店の暖簾をくぐった。血と脂の匂いが、いきなり濃くなる。木の台の上に肉が並び、氷片が粗く散らしてある。職人の包丁が、骨に当たって鈍い音を立てた。
「おい。子どもが来る場所じゃねえぞ」
声だけで、誰か分かる。ガルド・ミートン――太い腕、鼻の利く肉屋。店の奥から出てきた男は、前掛けに血と脂を染み込ませ、眉間に深い皺を刻んでいた。
「レン・クラフトです。昨日――じゃなくて、先日、うちの保冷庫を見ていただいて」
「覚えてる。冷える箱のガキだろ。……で? 今日は何だ。値切りに来たか」
レンは一歩下がりそうになる足を、踏ん張って止めた。値切りじゃない。逆だ。こちらが“先にもらう”話だ。
店の中の暖かさが、余計に怖い。暖かい場所ほど、甘い言葉が出る。甘い言葉ほど、後で刺さる。
レンは革袋から、紙束を取り出した。マルコが昨日の夜、何度も書き直していた“検査票”だ。角が揃い、インクの濃淡が均一で、ブリキ坂の紙とは思えないほど“きっちり”している。
「値切りじゃありません。……手付金の相談です」
ガルドの包丁が止まった。店の音が、一瞬だけ薄くなる。
「は?」
次の瞬間、ガルドが笑った。喉の奥で鳴らす、肉屋の笑いだ。
「お前、逆だろ。普通は客が“払ってやる”んだ。何で俺が先に払う話になる」
「材料を――買う必要があるからです」
「なら借りろ。ツケにしろ。子どもが夢を語って、俺が財布を開ける理由にはならねえ」
レンの喉が乾く。ここだ。ここで引いたら終わる。マルコの言葉が背中を押す。
――“手付金は金じゃない。相手の腹の中を見せる道具だ。出すなら買う。出さないなら、口だけだ。”
レンは紙束を台に置き、その上に、硬貨じゃなく金属片を落とした。小さな四角い板。片面には、簡単な紋のような刻印が打ってある。
「これは……?」
ガルドの視線が、金属片に吸い付く。鼻の利く男は、匂いだけじゃなく“価値の匂い”も嗅ぐ。
「正規品証明の刻印です。うちの保冷庫には、全部この刻印が入ります。番号も振ります。検査票にも同じ番号が書かれます」
「番号? ……なんだその面倒臭えの」
「面倒臭いから、嘘をつけません」
ミアが一歩前に出て、布を外した。小さな保冷庫の見本が姿を現す。木箱の角には金属の補強。扉の縁には革のパッキン。内側は板が二重で、隙間に木屑が詰めてある。セラが昨日、温度が逃げる場所を“数で”潰していった仕様だ。
「見本はこれ。中に入れた冷却石も、検査票に等級を書く。勝手に低い石を入れたら――」
ミアが箱の扉を開け、内側を指で叩いた。
「漏魔が出る。最悪、暴走熱。だから、ちゃんと測ってる」
ガルドの目が細くなる。怖がっているわけじゃない。“嗅いでいる”。嘘か、本気か。
レンは最後の一つを出した。小さな蝋の塊と、押し型。蝋には薄い香りがついている。ノーラの店で分けてもらった樹脂に、セラが“封印用の術式”を混ぜていた。
「封印蝋です。扉の内側の魔石の蓋に、これで封をします。剥がしたら分かります。勝手に触れば、封印が割れて、印が変わる」
ガルドが鼻を鳴らした。
「へえ……。こいつぁ“やった”らバレるってやつか」
「はい。だから、あなたが先に金を出す理由になります」
レンは言い切った。胸が痛い。十歳の身体に、背伸びの言葉は重い。でも、重い言葉じゃないと、仕事にはならない。
「手付金を出してもらえれば、あなたの保冷庫を“優先で”作れます。納期も守ります。作れなければ、手付金は返します」
ガルドが口の端を上げた。
「返す? 口で言うだけなら誰でもできる」
レンは検査票の端を指で押さえた。そこには、仲裁屋ラザールの印――昨日マルコが用意した“紹介状”が貼り付いている。
「これは仲裁屋の印がついてます。支払いと納期の取り決めを、彼に預けます。僕らが逃げたら、ブリキ坂で商売できなくなる」
ガルドの視線が一瞬だけマルコの方を探すように動き、店の外に立つ影――マルコが暖簾の向こうで腕を組んでいるのが見えた。笑っていない。商人の顔だ。
「……やるじゃねえか」
ガルドが鼻を鳴らし、肉の台に肘をついた。
「で。いくらだ。手付金ってのは、どれくらいの“腹”を見せりゃいい」
レンの心臓が跳ねる。ここで欲張ったら、鼻で嗅がれて終わる。弱く見せても終わる。マルコが言っていた。生活基準で言え、と。
「……日雇い三日分」
ガルドが眉を上げる。
「少ねえな」
「少なく見えます。でも僕らにとっては、材料を買える額です。木材、革、金具、樹脂、……それと検査用の道具。これがないと、あなたに渡せる“同じ箱”が作れない」
ミアが短く頷いた。セラは黙っているが、胸の前で測定具の袋を握りしめている。彼女は数字で喋る人間だ。だからこそ、今は喋らない。
ガルドはしばらく黙り、肉を切る音がまた店に戻った。包丁が骨を断つたび、レンの胃が縮む。
「条件がある」
来た。レンは目を上げた。
「市で実演しろ。俺の肉でな。冷えなきゃ笑いものだ。冷えたら……俺が笑ってやる」
ガルドの笑いは、馬鹿にする笑いじゃない。賭けの笑いだ。
「市で、ですか……」
「怖いか?」
レンは首を振った。
「怖いです。でも、やります」
ガルドが大きな掌を差し出した。掌の上に、硬貨が三枚――日雇い三日分に相当する額が置かれた。金属が朝の光を反射し、レンの目に刺さった。
「受け取れ。逃げたら――鼻で探して、骨ごと砕く」
レンは硬貨を受け取り、深く頭を下げた。震えているのが分かる。けれど、震えは恥じゃない。今は、前に進んだ証拠だ。
店を出ると、冷たい空気が肺に刺さった。息が白い。
「……取れた」
レンが呟くと、マルコがようやく口角を上げた。
「取れたじゃない。取ったんだ。これで、材料が動く」
「市の実演、条件つけられたけど」
「条件はいい。条件は“相手が本気”の証拠だ。口だけの客は条件を出せない」
ミアが腕を振り回して血の匂いを払うようにした。
「肉屋は分かりやすい。次は薬屋だろ? あっちは鼻じゃなくて――目だな」
レンは頷いた。薬屋エナ・フィルネ。保存が“命”に直結する場所。ここで手付金が取れれば、“金”だけじゃなく“感情”が動く。
薬屋は肉屋より静かだ。棚に並ぶ瓶、乾かした葉、粉、蜜蝋、細い紙包み。匂いは複雑で、甘いのに苦い。レンは鼻が麻痺しそうになり、息を浅くした。
エナは帳場に立っていた。髪をきっちりまとめ、白い指で帳面を押さえる。目は優しいのに、芯がある。見れば分かる。適当に誤魔化せる相手じゃない。
「レンさん。今日は……商談ですか?」
「はい。……手付金のお願いに」
レンが切り出すと、エナは驚かなかった。ただ、帳面を閉じ、椅子を勧めた。子ども扱いしていない。対等の扱いだ。それが、逆に怖い。
「手付金。つまり、先に払う分。理由を聞かせてください」
レンは検査票を差し出した。エナは紙を受け取ると、まず“番号”を見た。次に、文字の癖。最後に、押された印。
「……きれいな字。これ、あなたが書いたんじゃないですね」
レンは頷いた。
「マルコが。商会の責任者として」
「責任者がいる。良いですね。では、これは“責任の取り方”が紙に載っている」
エナが視線を上げる。
「でも。手付金を出す理由は、紙だけでは足りません。あなたの箱が、私に何を守れるのか――そこです」
レンは息を吸い、言った。
「薬が、効くまま残る。……それが守れます」
エナの目が細くなる。怒りじゃない。触れた。過去の痛みを指で押されたみたいに。
「効くまま……」
エナは棚の奥を見た。瓶の列の向こうに、誰かの影があった気がした。レンは踏み込むのを一瞬躊躇したが、ここで踏み込まなければ、手付金は出ない。
「僕は、腐った薬で――助けられなかった人がいるのを知ってます」
エナの指が、帳面の端を強く押した。
「……私もです」
短い言葉だった。声が揺れないのが、揺れている証拠だった。
レンは封印蝋を机に置いた。淡い香りが広がる。
「だから、ここにも“嘘をつけない”仕組みを入れました。魔石の蓋に封をして、勝手に開けたら分かる。検査票の番号と刻印が一致しないと、正規品じゃない」
セラが一歩前に出た。静かな声で、しかし言葉は刃だ。
「温度も測れます。昨日、私が測りました。箱の中は、外より――確実に下がる。必要なら、あなたの店で測って見せる」
エナはセラを見て、頷いた。
「……測る人がいる。証拠がある。封がある。刻印がある」
そして、レンを見る。
「それでも、手付金を出すのは怖い。あなたは十歳です。逃げれば、追いかける力がない」
レンは背筋を伸ばした。
「逃げません。逃げたら、僕の箱は誰の命も守れない」
言い切った瞬間、レンは自分の言葉が怖くなった。自分で自分を縛った。けれど、縛らなければ仕事はできない。商会は、信用で動く。
エナは少しだけ笑った。微笑みではない。覚悟を見て、受け止めた表情だ。
「条件をつけます」
レンの喉が鳴る。
「薬屋らしい条件です。あなたの保冷庫で“保存した薬”が、効くと証明してください」
「……どうやって?」
「市の診療所に、古い薬がある。冬の湿気で、効きが落ちたと噂されている。あれをあなたの箱で守れたら、私は手付金を出します」
レンは息を飲んだ。薬の効きは、温度だけじゃない。湿気、光、時間。失敗すれば“命”が絡む。ガルドの肉より重い。
でも、逃げる選択肢はない。エナが出す条件は、嘘のない条件だ。彼女の腹の中を見せる条件だ。
「分かりました。やります」
エナは帳場の引き出しを開け、硬貨を取り出した。肉屋より少し小さな額――“薬代一回分”くらい。けれど、レンには同じ重さに見えた。いや、もっと重い。
「これが手付金。あなたが逃げないように――ではなく、あなたが“逃げなくて済むように”」
レンは硬貨を受け取り、指が冷たくなるのを感じた。金は温度を持たない。だからこそ、持つ者の体温を奪う。
「ありがとうございます」
頭を下げると、エナが言った。
「レンさん。これを使う人間が増えれば、偽物も増えます。あなたは、守れますか」
レンは顔を上げた。
「守ります。……守るために、刻印と封印蝋と、検査票を作りました」
エナは頷いた。
「なら、あなたの“守る”を、見せてください」
ブリキ坂へ戻る道すがら、レンは硬貨の重さを何度も確かめた。革袋の中で鳴る音が、未来の音に聞こえる。材料が買える。箱が作れる。市で実演ができる。薬屋の条件にも挑める。
しかし、背中に冷たい視線が刺さる。
振り向いても、誰もいない。路地の曲がり角に、濡れた雪が溜まっているだけだ。通りの端で、修理屋トビアスが片目鏡をいじりながら、こちらを見ているような、見ていないような。
「……気のせいか?」
レンが呟くと、マルコが低い声で言った。
「気のせいじゃない。金が動いたら、匂いを嗅ぐ奴がいる。特に、“箱”は分かりやすい」
ミアが唇を噛んだ。
「模倣屋……」
その夜、別の場所でも、同じ匂いが嗅がれていた。
ブリキ坂の外れ。灯りの届かない細い裏路地。湿った壁に背を預けた男が、白い指で硬貨を転がしていた。指先が、月明かりに不気味に光る。
「……冷える箱。刻印、封印……へえ。面倒臭いことをする」
“白い指”のルッカは、笑った。笑い声は小さく、しかし確信に満ちていた。
「面倒臭いのは、金になる。面倒臭いのは、真似しがいがある」
彼の足元には、粗雑な木箱が一つ。扉の縁には革らしきものが貼られているが、薄い。封印蝋の代わりに、ただの蝋が塗られていた。
ルッカは箱の蓋を指で弾き、鼻を鳴らした。
「肉屋と薬屋が動いた。次は、市だな」
白い指が、暗闇の中でゆっくりと握られる。
「嗅ぎつけたぞ、坊や。お前の“正規”を――俺の“闇”で塗り替えてやる」
夜の冷気が、路地の奥へ流れ込む。冬は、静かに争いの匂いを運んでいた。
(つづく)




