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第6話『紙で守る、正規の証』

「三日後」


監査官イングリッド・クロウの声が消えたあとも、その言葉だけが工房に残った。

火床の熱の中に、冷たい釘が一本刺さったみたいに。


ミアが扉に背を預けたまま、吐き捨てる。


「……クソが。好きに検査して好きに持ってく気だろ」


セラはイングリッドが置いていった確認項目の紙を広げ、目を走らせた。

指先が紙の端を押さえる。風でめくれないように。


「“好きに”じゃない。規格の顔をした条件で、合法的に奪う」


レンは箱――木屑断熱と受け皿を持つ改良機――に手を置いた。

触れると、まだ微かに冷たい。

自分たちが積み重ねた時間の冷たさだ。


「奪われたら……終わりです」


レンの声が小さくなる。


ミアが「終わりじゃねえ」と言いかけて、言葉を止めた。

終わりだ。少なくとも“今の工房”は。


その時、工房通りの外から陽気な声が飛び込んできた。


「終わり終わりって、縁起でもねえなあ」


扉の隙間から、男が覗き込む。

無精ひげ、旅慣れた目、肩から提げた革鞄。

笑っているのに、目の奥は笑っていない――商人の目。


「……マルコ」


ミアが低く言った。


マルコ・グレイヴが肩をすくめて、工房の中へ入ってくる。

足元の木屑を避けるでもなく踏み、火床の熱に顔をしかめるでもなく近づく。


「噂が早え。『監査局がブリキ坂に入った』ってな。……お前ら、何やらかした」


「やらかしてねえ!」


ミアが即座に噛みつく。


「やらかしたのは向こうだ。安全を盾に、箱を持ってく気だ」


マルコの目が、作業台の箱に向いた。

木屑の袋、継ぎ目の封止蝋、取り外しできる受け皿。

一瞬だけ眉が上がる。


「……これが噂の“冷える箱”か」


レンが恐る恐る言った。


「マルコさん、来てくれたんですか」


「坊主の工房が潰れたら、俺の飯も減るからな」


軽い言い方。

でもレンは、その軽さが本気の裏返しだと、なんとなく分かった。


セラが紙を持ち上げる。


「三日後に再検査。満たさなければ危険器具指定を“提案”。それまでに、こちらが安全を示さないといけない」


マルコは紙の内容を見るより先に、セラの測定具へ視線を落とした。


「測定具。……学院のか」


「借り物です。記録と測定はできます。でも――」


セラが言いかけた言葉を、マルコが引き取る。


「“紙”が足りねえ」


ミアが眉を寄せる。


「は?」


マルコは指を一本立てた。


「監査局が怖い理由は二つだ。ひとつは権力。もうひとつは――証拠の形を知ってること」


レンの胸がざわつく。


「証拠の形……」


「そう。お前らが『安全だ』って言っても、向こうは『危険だ』って書くだけで勝てる。なら逆だ。こっちが先に“安全”を書いて、紙にして、握る」


セラが静かに頷いた。


「検査票」


ミアが鼻で笑う。


「紙で殴るってわけか。ほんと商人は」


「殴るんじゃねえ。守るんだよ」


マルコは笑わずに言った。


「坊主が十歳で、工房が下町なら、守る盾が必要だ。盾は鉄じゃねえ。紙だ」


レンは唾を飲み込んだ。

紙が盾。

昨日までのレンは、紙が怖かった。監査官の紙が工房を奪うから。

でも今は、紙を握れば守れるかもしれない。


マルコが言う。


「まず作れ。“検査票”の雛形。今日中にな」


ミアが眉を吊り上げる。


「今日中? 三日猶予が――」


「三日後に再検査ってのは、向こうの都合だ。噂は今日死ぬ。噂は今日生きる。……そして模倣屋は今日動く」


セラの顔が少し硬くなる。


「……模倣品」


「そうだ。坊主の箱が売れる匂いを出した瞬間、外見だけ似せた箱が出回る。事故が起きたら監査局は大喜びだ」


レンの喉が乾いた。

事故。

模倣。

それは、自分が守りたいものを壊す最悪の形だ。


マルコは作業台の箱を指で軽く叩いた。


「だから“正規品証明”を作る。三点セットだ」


「三点?」


レンが聞くと、マルコは指を折って数えた。


「刻印。封印蝋。検査票。――これが揃って初めて、お前らの箱は“商品”になる」


ミアが腕を組む。


「刻印は分かる。工房印だろ。封印蝋もまあ分かる。……検査票ってのは、誰が書くんだ」


「セラが測る。坊主が設計を説明する。ミアが加工と封止の工程を保証する。俺が売る」


マルコは迷いなく言い切った。


セラが一瞬だけ目を細める。


「……“保証する”って言った?」


「言った。保証がない商売は死ぬ」


ミアが舌打ちした。


「保証なんてしたら、修理地獄だぞ」


「だから最初から“修理できる構造”にする。受け皿みたいにな」


マルコが受け皿を引き抜いて見せる。

水が溜まっている。結露の成果だ。


「これ、腐食したら替えりゃいい。……交換部品を売れる。修理を仕事にできる。商会だ」


レンの胸が熱くなる。

商会。

ただ作るだけじゃなく、売って、直して、続ける仕組み。


(この人は……怖い。でも頼れる)


セラが紙を取り出した。


「検査票の雛形、作る。形式は?」


マルコは即答する。


「難しくするな。下町で読める形にしろ。だけど、監査局が見ても『ちゃんとしてる』と思う形だ」


「矛盾してる」


セラが言うと、マルコが笑う。


「矛盾を握るのが商売だ」


ミアが鼻で笑い、レンは苦笑した。


マルコが続ける。


「項目は最低限でいい。漏魔、暴走熱、封止、魔石等級、稼働時間。あと刻印番号。これが無いと“同じ物”だと証明できねえ」


セラが紙に書き始める。

レンは覗き込み、言葉を足す。


「結露……受け皿の有無、交換方法も」


「いいな。安全と保守は一緒だ」


マルコが頷く。


ミアが刻印具を取り出した。

ボルツ工房の印――槌と金床の簡単な図柄。

それを薄板の端に当て、槌で叩く。


カン、と澄んだ音。


「刻印はこれでいい。……でも番号は?」


レンが問うと、マルコが言う。


「連番。今日一号、明日二号。売った相手、日付、内容。全部ノートに書け」


「……面倒」


ミアが言うと、マルコが肩をすくめる。


「面倒だから信用になる。面倒をやった奴だけが生き残る」


セラが紙を掲げた。


「検査票、仮の形。――これでいい?」


レンは目を走らせた。


――――――――

【検査票(仮)】

製品名:冷える箱(仮)

刻印番号:___

製造工房:ボルツ鍛冶工房(協力:クラフト)

検査日時:___

検査担当:___(測定:セラ・リンデ)


・魔石等級:___(推奨:C以上)

・漏魔測定:___(結果:___)

・封止状態:良/要修正

・結露処理:受け皿 有/無

・連続稼働試験:__刻(異臭/異音/発光:有/無)

・備考:___

――――――――


レンは頷いた。


「……これなら、後で同じ条件で再検査できます」


セラが小さく笑う。


「やっと“再現性”が紙になった」


ミアが腕を組んだまま言う。


「でもさ。これ、誰が信じるんだよ。下町は紙より噂だぞ」


マルコが即答する。


「だから“見せる”んだよ。市で。肉屋で。薬屋で。……紙は、見せるためにある」


レンの脳裏に、薬屋の女の声が蘇る。

守れるなら、街に必要。


(見せたい。守れるって)


マルコが工房の棚を開け、封印蝋の塊を取り出した。

固い蝋を火で炙り、柔らかくする。


「封印蝋は“保証”の鍵だ。ここが割れてたら、誰が何したか分かんねえ。分かんねえ物は直せねえ。だから保証外」


ミアが眉を寄せる。


「そんな冷てえこと、言えんのか」


マルコは迷わない。


「言う。言わなきゃ死ぬ。……守りたいなら、条件を作れ」


セラが静かに言う。


「安全は願いじゃない、条件」


レンは小さく頷いた。

三人の言葉が、同じ場所で繋がる。


ミアは蝋を見て、ため息をついた。


「……分かったよ。やる。封印蝋は“割れたら終わり”だ」


レンが言う。


「封印蝋の上に、刻印番号も押せますか?」


ミアが即答する。


「できる。細い刻印を作る。……面倒くせえ」


でも、その顔は少しだけ楽しそうだった。


セラが測定具を箱に当て、マルコが横で紙に記録する。

レンが条件を読み上げる。


「魔石はC寄り。封止二重。受け皿あり。木屑袋は交換式。……稼働一刻、異臭なし」


ミアが蓋の継ぎ目を指でなぞる。


「封止、良。……ただし冬は割れる。温度差でな」


セラが頷く。


「だから耐久試験が要る。開閉回数、温度差、湿度。三日でやる」


マルコが紙を一枚にまとめ、ふっと笑った。


「いい。これで“監査局の前で喋れる”」


レンは少しだけ肩の力が抜けた。

紙がある。数字がある。

少なくとも、叫ぶだけの子どもではなくなる。


だが、マルコはすぐに顔を上げた。


「で。三日後に見せる“再検査用”の箱、何台作る?」


ミアが即答する。


「一台だろ。これが一台しかねえ」


「一台じゃ足りねえ」


マルコが言う。


「一台は“偶然”だ。二台目が同じなら“再現性”。三台目が同じなら“商品”。監査局に勝つには、最低二台。できれば三台」


ミアが眉を吊り上げる。


「材料がねえよ。薄板も木も蝋も、全部金だ」


セラが口を開く。


「学院の予備で――」


「甘えんな」


マルコが即座に遮った。怒鳴らないのが逆に怖い。


「借り物で回したら、次に止まる。商会は止まったら死ぬ。……今ここで、金を回す方法を決める」


レンの胸が締まる。

金。

結局そこに戻る。


ミアが腕を組む。


「誰が買うんだよ。まだ売れる形じゃねえ」


マルコはレンを見る。


「坊主、肉屋と薬屋に顔はあるか」


レンは首を振りかけて、思い出す。

肉屋ガルド――まだ話しただけ。

薬屋の女――名前も聞いていない。


「……あります。たぶん。でも、信用は――」


「信用は作る」


マルコは短く言う。


「検査票と刻印と封印蝋でな」


そして、マルコは机を指で叩いた。


「手付金を取る」


ミアが噛みつく。


「いきなり?」


「いきなりだ。材料はタダじゃねえ。手付金が出ない客は、買わない」


セラが眉を寄せる。


「でも、子ども相手に手付金なんて――」


「子どもだからだ」


マルコの声が低くなる。


「坊主は守られてねえ。だから契約と金で守る。手付金なしで作ったら、未払いで終わり。三日後に材料が足りず、監査局に箱を持っていかれて終わり」


レンは唾を飲み込んだ。

手付金。

材料が買えない現実。


工房の外では、冬の風が鳴っている。

火床の赤が揺れた。


レンは拳を握った。


(守るために、金が要る。……作るために、金が要る)


マルコが言った。


「坊主。次の仕事は“作る”じゃねえ。“取る”だ。――手付金を」


レンの喉が乾く。

十歳の自分が、金を取りに行く。

それは怖い。けれど、逃げたら終わる。


ミアがぶっきらぼうに言った。


「……行くなら私も行く。ガキに値切りさせねえ」


セラが小さく息を吐いた。


「数字は用意した。あとは……人を説得するだけ」


工房の中で、三点セット――刻印・封印蝋・検査票が、机の上に並んだ。

紙はまだ薄い。蝋はまだ柔らかい。刻印はまだ一つ。


でも、確かに“盾”の形をしている。


そしてその盾を持つための金がない。


(つづく)



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