第5話『数字は嘘をつかない』
ノックは控えめだった。
控えめなのに、拒めない音だった。
ボルツ鍛冶工房の扉の向こうで、冬の空気が一度止まる。
そして入ってきたのは、黒い外套の女――イングリッド・クロウ。魔導ギルド監査局。
煤と油の匂いの中に、薄い薬品の匂いが混じる。
紙の匂いだ。書類鞄の革の匂いだ。
「ボルツ鍛冶工房ですね」
イングリッドの声は、温度がない。
怒ってもいない。焦ってもいない。ただ、“進む”声だった。
ミアが顎を上げる。
「そうだ。で?」
「確認に来ました」
イングリッドの視線が、工房内を滑る。
火床、金床、散らかった薄板、木箱の山。
そして――床に置かれた新しい箱。木屑断熱。受け皿。封止蝋。
レンの心臓が跳ねた。
(見られる。評価される。……裁かれる)
ミアが一歩前に出る。
「確認って何の。うちは鍛冶だ。ギルドの工房じゃねえ」
イングリッドは淡々と紙を一枚取り出した。
「昨日の未認可修繕行為、および本日までの装置製作。通報がありました」
セラが即座に割って入った。
「通報の内容は?」
「“冷える箱が人を倒す”。および、“子どもが危険な魔導具を改造している”」
レンは喉の奥がひゅっと鳴った。
自分の体を巡る噂が、紙になって戻ってきた。
ミアが歯を噛む。
「倒してねえ。……倒れかけただけだ。漏魔のせいで」
「漏魔」
イングリッドが初めて単語を繰り返した。
ただし興味ではなく、記録のための反芻。
「それはあなたの主張ですね」
セラが前へ出る。
測定具を、胸の高さに持ち上げた。
「主張ではなく、測定できます。ここに漏魔測定具があります。現物に当てれば、出ているかどうか、どれくらいか分かる」
ミアが眉を上げた。
「おい、それ貸し出し品だろ」
言いたいことは分かる。だが今は、それどころじゃない。
イングリッドの目が測定具に向く。
一瞬だけ、まつ毛が動いた。
「学院の器具ですか」
「はい。セラ・リンデ。魔導学院上級――」
セラは言いかけて、ほんの少しだけ言葉を濁した。
その“濁り”を、イングリッドは見逃さない。
「学院の上級生が、下町の工房に?」
「安全の確認です。危険なら止める。安全なら、止められる理由はない」
セラの言葉は強かった。
だがレンは、その強さの裏に薄い震えを感じた。
学院の名前を背負っている。だからこそ、踏み外せない。
イングリッドは「安全なら止めない」とは言わなかった。
代わりに、鞄から別の紙を出した。
「確認には手順があります。こちらが提示する条件で、こちらが検査します」
ミアが鼻で笑う。
「お前らの“条件”で? そりゃ好き放題だろ」
「好き放題ではありません。規格に基づきます」
「その規格ってのが、お前らの都合だって言ってんだよ!」
ミアの声が少し上がる。
工房の空気が熱くなる。火床が赤く揺れる。
レンはその揺れの中で、気づく。
ミアは怒っている。
でもそれは、自分のためだけじゃない。
工房を守る怒りだ。
自分の手で作ったものが、“紙一枚”で奪われる怒りだ。
レンが口を開く前に、セラが低い声で言った。
「ミア。怒鳴るのは後。今は――数字」
ミアの拳が止まる。
セラはレンを見て、短く言った。
「レン。箱、ここへ。継ぎ目を見せて」
レンは頷き、箱を作業台の上に乗せた。
木屑袋の口を締め直し、受け皿を差し込む。
封印蝋の割れがないか確認する。
(見せられる形にする。……実演と同じだ)
イングリッドが一歩近づく。
「それが通報対象の装置ですか」
「違う」
セラが即答した。
「倒れる原因になったのは旧箱。これは改良後。封止、乾燥、水の道、断熱を変えた。漏魔は減っている」
「減っているかどうかは、こちらが判断します」
イングリッドはそう言って、手袋の指を伸ばした。
レンの肩が強張る。
触られたくない。
触られたら壊される。
壊されなくても、奪われる。
その恐怖を、セラの声が断ち切った。
「触らないで。測定は私がやる。あなたは見て、記録して」
イングリッドの手が止まった。
止まったのは、譲ったからではない。
“学院の名”に引っかかったのだ。
「……よろしい」
イングリッドは鞄を開け、紙とペンを出した。
それだけで、工房が法廷みたいになる。
セラが測定具を箱の継ぎ目へ当てる。
針が動く。砂が揺れる。
レンは息を止めた。
(頼む。出るな。……いや、出てもいい。問題は、どれくらいだ)
針は揺れたが、跳ねなかった。
砂も濁らない。薄い霞が出る程度。
セラが数値を読み上げる。
「漏魔量、低。基準値――学院の実習基準だと、許容範囲内」
「学院基準は、王国の流通基準とは異なる場合があります」
イングリッドが淡々と言う。
「ですが“危険”とは言えません。少なくとも、通報の“倒れる箱”ではない」
セラの声が硬い。
その硬さが、レンには心強かった。
ミアが一歩前に出る。
「聞いたか。危険じゃねえ」
イングリッドは頷かない。
頷かない代わりに、視線を箱の底へ向けた。
「結露は?」
レンが思わず答えてしまう。
「出ます。……でも逃がします。受け皿に集めて、交換できます」
言ってから、レンはハッとした。
十歳の自分が、“交換できる”と口にした瞬間、商売の匂いが出た。
イングリッドの目が細くなる。
「交換……つまり消耗品ですか」
「はい。腐食するなら、腐食する場所を決める。箱が全部死ぬよりいい」
レンは言い切った。
言い切ってしまった。
子どものくせに。
イングリッドは何も言わず、受け皿を見た。
そして、ゆっくりと告げる。
「安全確認は漏魔だけではありません。暴走熱の可能性、魔石等級、封止の耐久性。使用者が勝手に魔石を交換した場合の挙動。……すべて確認が必要です」
セラが即答する。
「なら確認しましょう。測って記録する。条件を揃える」
「条件は監査局が定めます」
イングリッドは紙を一枚、セラの前に置いた。
「これは確認項目です。――今日この場では全部できません。あなた方の工房に、検査環境がない」
ミアが噛みつく。
「は? じゃあどこでやるんだ」
「監査局の設備で。装置を回収し、検査します」
レンの血の気が引いた。
回収。
それは“差し押さえ”と同じだ。
戻ってこないかもしれない。戻ってきても壊れているかもしれない。
ミアが一瞬で顔色を変える。
「ふざけんな。持ってったら終わりだろ!」
イングリッドは淡々と返す。
「危険器具指定の手続きを取るか、任意提出か。選んでください」
セラが、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
任意提出。
それは“従えば安全”という顔をした脅しだ。
レンは箱に手を置いた。
冷たい木。中に閉じ込めた冷気。
これが、今の自分の全財産みたいに思えた。
(奪われたら、終わりだ)
でも、叫んでも勝てない。
紙には紙で。
安全には安全で。
レンが震える声で言う。
「……ここで、できる検査をします」
ミアがレンを見る。
「チビ……」
「今、ここで。できる範囲で。……“危険じゃない”って示したい」
セラがレンの肩に手を置いた。
細い手。冷たい。けれど支える手。
「できる。……少なくとも、漏魔は数字で出せる。暴走熱も、兆候と遮断の有無は見せられる。結露は受け皿で示せる」
イングリッドが冷たい声で言う。
「遮断機構がありますか」
レンは息を詰めた。
遮断――“止まる”仕組み。
今の箱には、完全な遮断はない。氷箱の段階だからだ。
冷やす力を止める仕組みは作れても、まだ確実ではない。
(……ここで嘘はつけない)
レンは正直に言った。
「まだ、完全ではありません。……でも、封止と受け皿で安全側に寄せています。漏魔も減らしました」
イングリッドは頷かない。
ただ記録する。
「完全でない。記録」
その一言が、レンの胸を締めつけた。
“完全でない”は、危険の種になる。
監査官にとって、種は刈る理由だ。
ミアが言い返す。
「完全なもんなんて最初から作れるかよ!」
「だから検査します」
イングリッドは淡々と繰り返す。
セラが深く息を吸った。
そして、言葉を選び直す。
「監査官。回収して検査する必要があるのは理解します。ですが、回収=商売の死です。ここは下町です。ひとつの箱が、工房の一週間を食う」
イングリッドの目が、わずかに動いた。
数字の言葉だ。“一週間”。
生活の言葉だ。
だが、イングリッドは感情で揺れない。
「それはあなた方の事情です」
レンの拳が震える。
この人は、事情を切り捨てる。
切り捨てることが仕事なのだ。
ミアが一歩前に出た。その拳が机を叩く。
「だったら、どうすりゃいい!」
イングリッドは紙を一枚、ミアに差し出した。
「期限を設けます」
ミアの眉が寄る。
「期限?」
「三日」
イングリッドは淡々と言った。
「三日後、再検査に来ます。その時点で、漏魔量、封止の耐久、魔石等級の管理、使用説明。必要最低限の安全条件を満たしていなければ、危険器具指定を提案します」
セラが目を細める。
「提案……つまり上に上げる」
「はい」
ミアが唸る。
「三日で何をしろってんだよ!」
イングリッドは一切表情を変えず、レンを見る。
「あなたが昨日、未認可で修繕した子ですね」
レンは息を飲んだ。
「……はい」
「あなたの行為は、善意であっても危険です。危険は、願いでは止まりません。条件で止まります」
その言葉は冷たい。
でも、どこかで聞いた言葉だった。
――安全は願いじゃない。条件だ。
セラが、同じ言葉を言っていた。
同じ“言語”を使っているのに、意味が違う。
守るための条件と、潰すための条件。
イングリッドは踵を返し、扉へ向かう。
「三日後。準備しておいてください」
工房の外に、冷たい空気が流れ込む。
一瞬だけ、火床の火が揺れた。
扉が閉まる。
音が消えた後で、ミアがようやく吐き捨てた。
「……クソが」
セラが紙を拾い上げ、確認項目を読み込む。
その目は真剣で、怖いくらいだった。
「三日でやることを決める。漏魔の基準を固定。検査票の形を作る。魔石等級のルールを決める。……そして」
セラがレンを見る。
「君が倒れないように、ちゃんと測る」
レンは拳を握り、頷いた。
三日。
短すぎる。
でも、期限があるなら――やるしかない。
工房の火が、赤く燃え続けている。
(つづく)




