第3話『測って、切り分けて、守る』
セラ・リンデが工房の入口に立っただけで、空気が一段変わった。
煤と油の匂いの中に、紙と薬品の匂いが混じる。
それだけで「外から来た人」だと分かる。
彼女は迷わず、濡れた氷箱――いや、“冷えるつもりの箱”へ近づいた。
結露で湿った布。錆が浮き始めた薄板。底に置かれた小さな魔石。
「……見せて」
ミアが腕を組む。
「見せてって、何をだよ。勝手に来て、勝手に触る気か?」
セラはミアを見上げた。背筋がまっすぐで、目が真っ直ぐだ。
「触らない。測るだけ。――このままだと、その子が倒れる」
ミアの視線が、レンへ飛ぶ。
レンは壁に手をついて息を整えていた。さっきの気持ち悪さが、まだ胃の奥に残っている。
「……チビ、お前またか」
「大丈夫。……たぶん」
「“たぶん”って言うな」
ミアが舌打ちした。
セラは、革袋から小さな器具を取り出した。
透明な筒に銀色の砂。細い針。金属の輪。
「これ、何だ」
ミアが言うと、セラは簡単に答えた。
「漏魔測定具。学院の実習用。精密じゃないけど、目安にはなる」
レンは息を飲んだ。
“目安でも測れる”ことが、どれほどありがたいか分かってしまう。
セラは氷箱の継ぎ目に、測定具の輪を当てた。
針が震える。砂が、ゆっくり濁った。
「出てる。弱いけど、確実に」
レンが思わず問う。
「……どれくらい?」
セラは針の目盛りを見て、淡々と告げた。
「今のまま一刻続けたら、君はまた具合が悪くなる。二刻なら――倒れてもおかしくない」
ミアが低い声で言った。
「……ふざけんな。子どもが倒れる箱なんて、作ってどうすんだ」
レンは拳を握った。
作りたいのは、守る箱だ。
でも守れないなら、作る意味がない。
セラは測定具を外し、箱の内側を覗き込む。
結露の水滴が薄板に沿って流れ、木へ染みている。
「結露が術式部へ回ってる。封止が足りない。あと……この魔石、荒い」
レンが口を開くより早く、ミアが言った。
「荒いって何だよ」
セラは一瞬、言葉を選ぶ顔をした。
そして、ミアにも分かる言い方に変える。
「同じ“冷える石”でも、動きが安定してるのと、暴れるのがある。暴れる石は漏れる。漏れたら、人がやられる」
ミアの眉が寄った。
「……じゃあ、石が悪いんだろ。替えりゃいい」
「替えられるならね」
セラの声音が少しだけ硬くなる。
「良い石は高い。ブリキ坂の工房が気軽に買える等級じゃない」
レンが小さく頷く。
昨日トビアスから借りたのは、せいぜいCの端か、上質なDだ。
それでも借り物だ。壊したら返せない。
(石を替えるのは簡単。問題は“替えなくても安全にする”ことだ)
レンは箱を見た。
結露。腐食。冷え不足。漏魔。
全部が絡んでいる。
「セラさん」
レンが呼ぶと、セラは目だけで返事をした。
「切り分けたい。どれが原因か。……何からやればいい?」
セラは答える代わりに、工房の床を見渡した。
濡れた布。火床。金床。油差し。木屑。
それらを“実験室”として見ている目だった。
「順番がある」
セラは指を一本立てた。
「一、漏魔の原因が魔石か封止か湿気かを切り分ける。二、冷え不足が魔石の出力か断熱かを切り分ける。三、結露の水をどこへ逃がすか考える」
ミアが鼻で笑う。
「めんどくせえ」
「めんどくさいから事故が起きる」
セラが即答した。
ミアの口が開きかけたが、レンが割って入った。
「やる。……やらないと、作れない」
ミアはレンを見て、舌打ちした。
「分かったよ。……学者、やるなら早くしろ。うちの炉は暇じゃねえ」
「学者じゃない。セラ」
「セラさん」
レンが言い直すと、ミアが目を細める。
「……お前、丁寧だな。気持ち悪い」
レンは苦笑し、セラは小さく肩をすくめた。
「じゃあ最初。魔石を替える」
セラは言って、レンに視線を向ける。
「同じ箱、同じ封止で、魔石だけ替えたら漏魔が減るかを見る。減るなら主因は魔石。減らないなら封止と湿気」
ミアが腕を組んだ。
「替える石がねえだろ」
「ある」
セラが言った。
「学院の実習用の予備。持ってきた。……ただし、返して。壊したら弁償」
ミアが顔をしかめる。
「金ねえぞ」
「私もない」
セラの返しは淡々としていた。
レンはその言葉に、胸が詰まった。
この人も、余裕がない。
学院の上級生でも、金がない。
セラは革袋から、小さな魔石を二つ取り出した。
一つは碧に近い緑。もう一つは黄に近い。
「こっちはCの安定寄り。こっちはD。……比較用」
レンは頷き、箱の底の石を外した。
指先が冷たい。結露が冷たすぎる。
ミアが布を投げて寄越す。
「手が死ぬぞ。拭け」
レンは布で水を拭い、魔石の座を乾かしてから、新しい石を置いた。
蓋を閉める。待つ。
その間、セラは箱の継ぎ目に測定具を当てたまま目を閉じる。
針の震え、砂の濁りを、呼吸のように読む。
「……さっきより、少しだけいい」
レンが息を吐いた。
「じゃあ、魔石が原因……?」
「“一部”はね」
セラは言い切らない。
そこが、彼女の強さだ。
「でもまだ出てる。封止と湿気も原因。つまり――」
ミアが言う。
「全部だろ」
セラが頷いた。
「全部。だから順番に潰す」
ミアが箱の蓋を指で叩いた。
「封止って言っても、蝋塗ればいいんだろ?」
「蝋だけだと割れる。冬は特に。温度差で縮むから」
セラの言葉に、ミアが眉を上げる。
“温度差で縮む”。現場の感覚に近い説明だ。
「じゃあ、どうする」
レンが答える前に、ミアが工房の隅の棚を探り、古い革の端切れを引っ張り出した。
「皮革。これ、挟む。ノーラの端材だ」
レンが目を輝かせる。
「パッキン……!」
「何だそれ」
「隙間を埋めるやつ。……挟んで、押さえて、蝋で固める。二重にすれば、割れてもまだ止まる」
セラがレンを見る。
「その発想は正しい。二重封止。漏魔対策にもなる」
ミアが鼻で笑う。
「言葉だけは立派だな。やるぞ」
三人が箱を開け、継ぎ目を剥がす。
濡れ布、錆、木の匂い。
レンは指先で木を触り、湿り具合を確かめた。
(……腐り始めてる)
ここで腐ったら、終わりだ。箱が死ぬ。金が死ぬ。信頼が死ぬ。
「まず乾かす」
セラが言う。
「組む前に乾燥。湿気を残したら、封止しても中で水になる」
ミアが火床の方を顎で示す。
「炙る。やりすぎると木が割れるから、そこは私が見る」
レンが頷き、木箱の内側を火の近くであぶる。
熱が頬を刺す。手のひらがじんわり温まる。
その温かさが、冬の恐怖を少しだけ遠ざける。
セラはその間、測定具を机に置き、紙を取り出した。
真っ白な紙。鉛筆。
そして、レンが作った箱の図を簡単に描き始めた。
「……何してるんですか」
「記録」
セラは当たり前のように言う。
「何をどうしたか、残さないと再現できない。次に同じ失敗をする。……君、同じ失敗が好き?」
「嫌です」
「なら書く」
ミアが鼻で笑いながら、しかし何も言わない。
現場の人間も、同じ失敗が嫌いなのだ。
乾いた木箱の継ぎ目に、革を挟む。
その上から薄板を押さえ、リベットで留める。
最後に蝋を塗り込む。熱で柔らかくし、隙間へ押し込む。
レンは息を止め、指先で蝋を押し込んだ。
蝋は冷えると固くなる。固くなる前に、隙間を埋め尽くす。
(……止まるように)
レンの頭の中で、その言葉が回る。
組み直した箱に、C寄りの魔石を戻し、蓋を閉める。
待つ。
セラは測定具を継ぎ目へ当てた。
針が揺れる。砂が……さっきより、濁らない。
「……減った」
レンが声を出すと、ミアが腕を組んだまま言った。
「お。効いたか」
セラは頷いた。
「封止と乾燥で、漏魔は減る。魔石だけの問題じゃない。……君、さっき倒れかけてたよね。今は?」
レンは自分の体を確かめた。
胸のざわつきが薄い。視界の滲みもない。
「……大丈夫です」
ミアがふっと息を吐いた。
それは安堵だった。
「じゃあ次。冷え不足」
セラが紙を指で叩く。
「今の箱で、水瓶がどれくらい冷えるか。時間を計る。外気と比べる。外より冷えないなら意味がない」
レンが頷き、工房の隅に置いた小瓶を取り出した。
水は冷たいが、凍るほどではない。
この箱が“冷蔵庫”になるには、足りない。
(断熱が足りない? 魔石が弱い? 両方だとしても、どっちが先に効く?)
セラは箱の内側を覗き、布を指でつまんだ。
「断熱材はこれだけ?」
「羊毛混じりの布を挟んだ」
「布は濡れる。濡れたら断熱じゃなくなる。水は熱を運ぶ」
ミアが舌打ちする。
「じゃあどうすんだよ。魔法みたいな材料はねえぞ」
セラは少し考え、レンを見る。
「空気層を増やす」
レンが頷く。
「板を二重にして、空気の隙間を作る。……でも加工精度がいる」
「だから治具が必要になる。でも今はまだ早い」
セラは言った。
「今できることは、濡れにくい断熱。例えば――木屑」
ミアが顔をしかめる。
「木屑?」
「乾いた木屑を袋に詰めて、壁の間に入れる。濡れたら交換。消耗品だけど、布よりは管理できる」
レンは目を見開いた。
“交換できる断熱”。
それは、商会の発想に近い。
(交換できるなら、修理できる。売れる)
ミアが腕を組み直す。
「……木屑なら、ユルゲンんとこに腐るほどあるな」
セラは頷いた。
「そして結露。結露を“出さない”のは難しい。なら、逃がす。水の道を作る」
レンが箱の底を見た。
水滴が溜まっている。ここが腐食の起点になる。
「溝を切って、外へ落とす……?」
ミアが即座に言う。
「木に溝を切ったら弱くなる」
セラが言う。
「金属板に道を作る。水滴が集まる場所を決める。……腐食するなら、腐食してもいい部品にする。交換できるように」
レンの胸が熱くなる。
“壊れてもいい場所を作る”。
それは修理屋の発想だ。
「……トビアスが言いそうだ」
レンが思わず呟くと、ミアが鼻で笑う。
「修理屋の胡散臭いのか。まあ、役には立つ」
そのとき、工房の外がざわついた。
風の音ではない。人の声。
「おい、ボルツ! お前んとこの前で、変な箱の噂が回ってるぞ!」
食堂の女将――ドロテアの声だった。
声が通る。噂も通る。
ミアが舌打ちする。
「早えな」
レンの心臓が跳ねた。
まだ何もできていない。冷えない。結露する。
でも噂だけが先に走る。
(まずい。模倣屋が嗅ぎつける)
セラがレンを見る。目が細い。
「だから安全が先。噂が先に走ると、事故が先に起きる」
レンは唇を噛んだ。
昨日の監査官の「停止します」が頭をよぎる。
ミアがドロテアに向かって叫ぶ。
「今忙しい! 後にしろ!」
「忙しいじゃないよ! あんたのとこの居候が昨日、魔導具止めただろ! 監査局が嗅ぎ回ってるってさ!」
その言葉に、工房の空気が凍った。
監査局。
もう来るのか。早すぎる。
レンは拳を握る。
子どもであることが、足枷になる。
でも――
セラが静かに言った。
「焦って作ると事故が起きる。事故が起きたら終わり。……君、守りたいんでしょ」
レンは頷く。
「守りたい」
セラは測定具を持ち上げ、レンに差し出した。
「じゃあ、これを貸す。君が倒れないように。――そして、次は“記録”を取る。今日の改良で漏魔がどれだけ減ったか。冷えがどれだけ上がるか」
ミアが眉を上げる。
「貸す? お前、そんな余裕あんのか」
セラは一瞬だけ目を逸らし、すぐ戻す。
「余裕はない。でも、必要。……私は学院で“安全”を教わった。なら安全を作る場所にいるべき」
その言葉が、レンの胸に落ちた。
監査官の“安全”とは違う。
守るための安全。
レンは測定具を受け取った。
指先が震える。冷えではない。責任の重さだ。
「……ありがとうございます」
セラは頷き、工房の箱を見た。
「次。木屑を集める。水 Registerを作る。魔石等級を確認する。……そして、君の箱が“危険じゃない”ことを、数字で示す」
レンは頷いた。
もう“作る”だけじゃ足りない。
“示す”必要がある。
外のざわめきが、また一段大きくなる。
噂が街を走っている。
ミアが拳を鳴らした。
「……やるぞ。噂に負けたら、工房が死ぬ」
レンは箱を見つめる。
濡れた布。錆の跡。まだ弱い冷え。
でも、漏魔は減った。倒れそうだった自分が、立っている。
(止まるように、守るように――作る)
レンは小さく息を吸って言った。
「次は、冷えるように。……でも、危なくないように」
セラが小さく笑った。
「やっと、順番を覚えたね」
そして――工房の外から、冷たい声が聞こえた気がした。
「確認に来ました」
その声が本物なのか、レンの想像なのかは分からない。
ただ、背中が寒くなった。
噂は、敵を連れてくる。
(つづく)




