第20話『印の重さ』
扉が開いた瞬間、部屋の空気が「契約」から「政治」に変わった。
第二王子アルベルトは、護衛を連れて入ってきた。派手な装飾はない。だが、存在そのものが装飾だった。
商人連盟の窓口の男が立ち上がり、椅子が小さく鳴った。あの男が音を立てたことが、レンには恐ろしく感じた。
レンは息を止めそうになり、マルコの背中を見て堪えた。
背中が、盾だった。
「座ったままでいい」
アルベルトが柔らかく言った。命令ではなく、許可の形。
でも許可は、与える側が強い。
王子は机の端に手を置き、紙束の赤線を一瞥した。
目線の動きが速い。読むのではなく、判断している。
「――いいね。君たちは“守られる代償”を、ちゃんと数えた」
王子は言った。「数えられるなら、交渉ができる」
イングリッドが椅子から少しだけ前へ出た。
黒い外套が擦れる音がする。合法の刃が、鞘から半分抜けた音だ。
「殿下。条文を“柔らかく”しすぎれば、事故の責任が宙に浮きます」
「事故は、誰の責任にもなる」
王子は笑った。「だから、紙で責任を置く。――君の仕事だ、イングリッド」
監査官は頷いた。頷きは肯定ではない。
“条件を出す”という合図だ。
窓口の男が言った。
「では、最終条件を」
彼の声は、手数料の声だった。王子の名で動きながら、連盟の利益を忘れない声。
王子が手を上げ、話を止めた。
「先に言う。私は“守る”」
王子はレンを見る。
「守る代わりに、“管理”する。これは譲らない」
そして、マルコを見る。
「君は“守る契約”を作りたい。私はその形は嫌いじゃない」
マルコが一礼した。
「殿下。守るための条件がなければ、次の人を守れません」
それは商会経営の台詞テンプレにもある“刺さる言い回し”だ。 Source
王子は、頷いてから言った。
「では最終条件だ。――三つ、君たちが死守したいものがあるそうだね」
「直販枠、魔石供給義務、救済条項」
マルコが即答する。
レンは、その言葉が“自分たちの命”の順番に聞こえた。
「直販枠は認める」
王子が言った。
胸の奥が少しだけ軽くなる。ブリキ坂に売れる。ガルドにも、エナにも。街に実物が残る。
「ただし」
王子の“ただし”は、刃だ。
「直販は“名簿制”。刻印番号と検査票番号で紐づける。台数は上限を置く。枠を超えるなら、王家ルートに回す」
セラが小さく頷く。
管理されるなら、番号で管理する。それはBSSと同じ発想だ。 Source
ミアが短く言った。
「枠があるなら、現場は回る」
その一言に、王子はほんの少し笑った。
「次。魔石」
王子の指が紙の「推奨」を叩いた。
「“義務”にする。ただし、例外を作る」
マルコの目が鋭くなる。
例外は穴だ。穴は毒の入り口だ。
「例外は“試験運用”としてのみ」
王子が先に言った。
「数量、期間、用途を限定。直販には回さない。保証外。検査票に等級と測定値を残す」
セラが息を吸う。
D級以下は危険、試験運用のみ・保証外――技術設定の筋と合う。 Source
イングリッドが口を挟む。
「試験運用にするなら、監査局の立会いが必要です」
来た。常駐の代替。
レンは背中が冷える。
「常駐は認めない」
ミアが先に言った。短い、強い。
王子は否定しない。否定しないのが怖い。
イングリッドが淡々と条件を並べ始める。
「では立入検査。頻度は――月に一度。加えて事故の兆候がある場合は臨時。範囲は、保冷庫の組立区画、保管庫、検査票台帳。封止部・放熱部・安全部の目視点検、漏魔測定、遮断作動確認」
部位名が並ぶ。監査官の言葉は、部位で刺す。 Source
セラが言った。
「頻度は受けます。ただし、検査は“検査手順に従う”。担当者名と日時を検査票に残す。持ち出しはしない」
“記録”。
セラの芯だ。
イングリッドの目が細くなる。
「持ち出しは、必要な場合がある」
レンの喉が鳴る。差し押さえの匂い。危険器具指定の影。 Source
マルコが割って入った。
「持ち出しは条文化する。範囲と条件を固定する。『危険器具指定』相当の判断が出た場合に限り、対象は当該個体のみ、刻印番号と封印状態と検査票番号を記録し、仲裁へ通知」
紙で縛る。
紙でしか縛れない世界だから。
王子が頷いた。
「いい。――監査局は“刃”だ。抜くなら、抜いた記録を残せ」
その言葉が、イングリッドの眉を僅かに動かした。
監査官もまた、王子に管理されている。
「最後。救済条項」
マルコが言う。「停止が出た場合、改善期限と再検査手順を必ず付ける。遡及無効は禁止」
ここが死守点。ここがないと、いつでも殺される。
イングリッドが静かに言った。
「遡及無効を禁じれば、悪質な隠蔽が増える」
「隠蔽は封印で暴く」
ミアが言う。
「封印蝋が割れてたら、その時点で終わりだ。現場は嘘をつけない」
王子が手を上げた。
場を切る。
「救済条項は入れる」
王子は断言した。
レンの胸が少しだけ軽くなる。
「ただし、救済は“期限”だ。期限を過ぎたら止まる。――止めないと、街ごと燃える」
川べりの焦げ臭さが、脳裏に蘇る。
止めるべき時に止める。それが“安全”だ。
王子は机の中央に、紙を一枚置いた。
さっきまでの草案ではない。
赤線と追記が整理された、清書に近い束。
「これが、最終版だ」
王子は言った。「直販枠、魔石供給義務、救済条項は入れた。立入検査条件も書いた。仲裁条項も順番を正した」
窓口の男が唇を舐める。連盟の印が入れば、金が回る。
マルコは紙をめくる。
速い。だが、丁寧に止まるところは止まる。
契約は戦闘だ。止まるところを間違えたら死ぬ。
セラが身を乗り出し、検査票の様式番号の欄を確認する。
ミアは“常駐”の文字が消えているかを見る。
レンは――自分がブリキ坂に売れる条文を探す。
王子が、印章を手に取った。
印章が小さく光る。
この世界で、印は剣より強い時がある。
王子は笑って言った。
「押すよ。私は“守る”と決めた」
その声は優しい。
優しいから怖い。
「ただし」
また、ただし。
「レン君。最後に一つだけ、君の言葉が欲しい」
王子はレンを見る。
「君は――“売る”のか。“配る”のか。君の箱を、何のために使う?」
レンの喉が詰まる。
ここで言葉を間違えたら、条文が変わる。
でも、黙れば“選ばされた”ままになる。
マルコが小さく頷いた。
ミアの手が、レンの肩に触れる。
セラが、検査票を胸に抱く。
レンは、短く言った。
「守るために使います」
自分でも驚くほど、声が出た。
「ブリキ坂の――腐る肉と、腐る薬を減らすために。止まる箱で、人を守るために」
王子の目が、ほんの少し細くなる。
満足か、計算か、区別がつかない。
「いい答えだ」
王子は言った。
そして、印章を――最終版の上に、そっと持ち上げた。
押すのか。
押さないのか。
レンは息を止めた。
(つづく)




