第2話『氷箱、はじめての冬仕事』
ブリキ坂の朝は、冷たい。
工房の中だけが暖かい――そう思ったのは、火床の前に立った最初の一瞬だけだった。
火は熱いのに、床は冷たい。壁は冷たい。道具も冷たい。
手を伸ばすたびに、金属が指先の体温を奪っていく。
「ほら、そこ。邪魔」
ミア・ボルツが、レンの頭を軽く押しやった。力は強くない。だが迷いがない。
レンは言われたとおりに一歩ずれ、金床の影へ退く。
「見てろ。火に近づきすぎると危ねえし、離れすぎると何も見えねえ。……中間だ。中間」
「……はい」
言い返すほどの余裕はない。
昨夜の粥は温かかったが、腹に落ちたら終わりだった。今朝はまた空腹が戻っている。
ミアは工房の隅から、壊れた魔導ランプを持ち上げる。
第1話でレンの前に置かれたやつだ。刻線が乱れ、魔石の座がずれている。
「直すって言ったよな」
レンは頷き、ランプを受け取った。
掌の上で、冷たい金属が重い。
「……直せます。たぶん」
「“たぶん”は要らねえ。やるか、やらねえかだ」
ミアの言葉は厳しい。けれど、レンはそれが嫌いじゃなかった。
優しい言葉より、現場の言葉の方が、嘘が少ない。
レンはランプの継ぎ目を見た。
封止が甘い。蝋が割れている。そこから湿気が入り、刻線が滲んでいる。
(湿気……結露……)
昨夜から頭の中に残っている。あの黒い箱――壊れた魔導具から立った煙。
止められたのは、運が良かっただけだ。次は、止まらないかもしれない。
「ミア……」
「呼び捨てすんな。まだ早え」
「……ミアさん。ここ、封止が割れてます。湿気が入って、刻線が――」
「お。見えるじゃねえか」
ミアが少しだけ眉を上げる。褒めているのか、試しているのか分からない顔だ。
レンは続けた。
「蝋を塗り直せば、とりあえずは……でも、同じことがまた起きます。冬は湿気が――」
「冬は乾いてるだろ」
「外は。……でも工房は、暖かいところと冷たいところが混じってます。湯気が出て、冷たい壁で水になる。だから――」
ミアが黙った。
レンは言い過ぎたかと思い、言葉を止める。
しばらくして、ミアは鼻で笑った。
「……口だけは達者だな、チビ」
レンの頬が熱くなる。
でも、ミアは否定しなかった。
「言いたいことは分かった。で?」
ミアが顎で工房の奥――木箱の山を指す。
木工から回してもらった雑な箱。釘が浮いているやつ。ひびがあるやつ。どれも“安い”箱だ。
「お前、昨日言っただろ。止まる箱を作るって。……作るなら、まずは箱だ」
レンは箱を見つめた。
頭の中に、白い紙が広がる。そこに線を引きたくなる。
便利な家電――冷蔵庫。
前世では当たり前だった。冷蔵庫があるだけで、食べ物は腐りにくくなる。薬も守れる。
でも、この世界にそれはない。
(なら、まずは“冷える箱”……いや、“冷やせる箱”)
魔法がある世界だ。氷魔法や冷却魔導具はある。
ただ、それが一般の生活の中で“誰でも同じように使える形”になっていない。
(箱だ。箱を作って、冷やすものを入れる。……氷魔石?)
レンは息を吐いた。白い息は出ない。工房の中は少し暖かい。
「……やります」
「よし。今日の仕事はそれだ。ボルツ鍛冶工房の“居候”の初仕事」
ミアはそう言い切って、棚から古い薄板を一枚引きずり出した。
叩けば音が軽い。安い合金板――ブリキ坂らしい。
「木箱は向こう。板はこれ。釘と金具は私が作る。お前は――」
ミアがレンの胸を指で突いた。
「考えろ。どうやったら冷える。どうやったら腐らない。どうやったら――死なない」
最後の言葉が、妙に重く落ちた。
レンは木箱を抱えた。
軽い。軽すぎる。薄い。隙間だらけ。
これじゃ冷気は逃げるし、湿気は入るし、すぐ腐る。
(断熱材がいる)
前世なら、発泡スチロールがある。ウレタンがある。
でもこの世界にはない。あるのは――羊毛、布、藁、木屑、皮革、そして空気。
(空気は断熱材になる。層を作ればいい)
レンは箱の内側に薄板を貼り、間に布を挟み、さらに板を重ねる構造を考えた。
けれど加工精度が要る。板が歪めば隙間ができる。隙間ができれば意味がない。
「ミアさん、板を――」
「削る形にしろって言ったろ」
ミアはすぐ返す。
だが、レンの顔を見て、少しだけ口調を緩めた。
「板を何だ。言え」
「板を、箱の内側に貼りたい。二重に。間に布を挟む。空気の層を作る」
ミアが箱を覗き込み、舌打ちした。
「面倒くせえ構造だな。……でも、できなくはねえ」
ミアが薄板を叩き、箱の寸法に合わせて曲げていく。
金床に当たる槌音が、一定のリズムで響く。
レンはその手つきを見て、初めて気づく。
(この人は……同じ形を作れる。手が覚えてる)
彼女の手は速い。
だが、速いだけじゃない。迷わない。
レンは布を集めに工房を出た。
表通りに近い露店で、端切れを売っている婆さんに声をかける。
「すみません。厚い布、ありますか」
婆さんはレンを一瞥し、鼻で笑った。
「厚い布は厚い金だよ。坊や」
「……これだけしかない」
レンは小銭を出した。昨夜ミアが「飯代だ」と押し付けてきた分だ。
婆さんは少し考え、羊毛混じりの古い布を放り投げた。
「持ってけ。けどな、次は金持ってこい」
「ありがとうございます」
レンは布を抱え、工房に戻る。
途中で、薬屋の前を通った。
白い指の女が、瓶を並べている。薬草の匂いがする。
ふと、店先の桶の中に、黒く変色した葉が見えた。
腐っているのか、凍って傷んだのか。いずれにせよ、使い物にならない。
レンの足が止まる。
(……守れたはずのものが、守れない)
女がレンに気づき、目を細めた。
「あなた……昨日、工房通りで倒れかけていた子?」
レンは頭を下げた。
「……はい」
女は名を名乗らなかった。レンも聞けなかった。
ただ、女は壊れた薬草を桶から拾い上げ、静かに言った。
「冬はね。薬が腐るの。寒いのに、腐る。……笑えるでしょう」
レンは笑えなかった。
「……守れる箱を、作ります」
女は少しだけ目を見開き、それからふっと息を吐いた。
「できたら、見せて。……守れるなら、あなたは街に必要よ」
その言葉が、レンの胸の奥に刺さった。
街に必要。
十歳の自分が、そんな言葉をもらっていいのか分からない。
工房へ戻ると、ミアが木箱の外側に金具を付けていた。
レンが布を差し出すと、ミアは頷いた。
「いい。挟め」
レンは布を折り、内壁に敷き詰める。
薄板を重ねる。釘で留める。
不格好でもいい。隙間を減らす。空気の層を作る。
(……これで冷気は逃げにくい。問題は中だ)
冷やすもの。
氷魔石――だが、そんなものを買う金はない。
「ミアさん、魔石って……」
「高い」
即答だった。
ミアは釘を噛んで、片手で打つ。
「Cは高い。Dは危ない。赤は触るな。……って、うちの親父が言ってた」
赤――E級。闇市に流れるやつ。事故の温床。
レンは唇を噛む。
結局、魔石は必要だ。
でも高い。庶民に売るなら、消費を抑えなきゃいけない。
(まずは一つでいい。試作だ。氷箱の段階)
レンはトビアスの修理屋へ走った。
昨日の黒い箱を見た男だ。きっと魔石の屑くらいなら持っている。
修理屋の軒先に行くと、トビアスは油まみれの手で部品を選っていた。
「お。坊や。今日は燃やしに来たかい」
「燃やしません。……冷やしに来ました」
トビアスが笑った。
「言うねえ。で?」
レンは頭を下げた。
「氷魔石……じゃなくてもいい。冷えるやつ。小さいのでいい。試したい」
トビアスはしばらくレンを見て、棚の奥から小さな魔石を取り出した。緑がかった色。
C級の下の方か、上質なDか。どちらにせよ、昨日の黄よりは落ち着いて見える。
「貸しだ。壊したら、坊やの一生で払え」
「……直します。壊れたら」
「壊す前提かよ」
トビアスが肩をすくめた。
レンは魔石を受け取り、工房に戻る。
ミアがその石を見て眉をひそめた。
「借りたのか」
「……貸しです」
「同じだろ」
ミアはため息をついたが、返せとは言わなかった。
むしろ、真剣に箱の中を覗き込む。
「で。どうやって冷やす」
レンは魔石を箱の底に置き、薄板で囲って小さな“座”を作った。
座の周りに布を巻く。結露が魔石に触れないように。
(……冷えるはずだ。氷魔石じゃなくても、冷却の術式が入ってるなら)
レンは蓋を閉めた。
木の蓋。薄板の補強。粗いが、隙間は少ない。
「開けるぞ」
ミアが言い、レンは頷く。
二人で箱の前にしゃがみ、息を止める。
まるで、生き物の心臓の音を聞くみたいに。
レンは蓋の隙間に指を入れた。冷たい。
少し冷たい。……でも。
「……弱い」
ミアが先に言った。
レンも同じことを感じていた。
冷たいは冷たいが、“冷蔵庫”の冷たさではない。
この程度なら、冬の外気と大差ない。
「断熱が足りないのか。魔石が弱いのか」
レンが呟くと、ミアが即座に返す。
「両方だろ」
正論だった。
レンは箱の中に水の入った小瓶を置き、時間を計ることにした。
どれくらいで冷えるか。どれくらいで結露が出るか。
測る。記録する。再現する。――まだセラがいないのに、頭の中でその言葉が回り始める。
一刻ほど経って、レンが蓋を開けると。
「……うわ」
箱の内側に、白い水滴がびっしり付いていた。
布が湿っている。薄板の継ぎ目に水が溜まっている。
結露。
予想はしていた。だが、量が多い。
「やっぱり。暖かい空気が入ったんだ」
レンが言うと、ミアが舌打ちした。
「閉めたのに?」
「完全に密閉してない。隙間から湿った空気が入る。冷えて水になる。……それが木に染みると腐る」
レンが指で木の内側を触る。湿っている。
しかも薄板の端が、すでに茶色く変色していた。錆の始まり。
「腐食……」
レンの声が小さくなる。
ミアが箱を乱暴にひっくり返した。水がぽたぽた落ちる。
「言っただろ。面倒くせえって」
「でも、これを止めないと――」
レンが言いかけた瞬間、胸の奥がまたざわついた。
視界が滲む。
耳の奥で砂が転がる。
「……っ」
レンは咄嗟に壁に手をついた。
立っていられないほどではない。だが、確実に気持ち悪い。
ミアが眉をひそめる。
「おい。お前、顔色」
「大丈夫……」
そう言いながら、レンは箱の継ぎ目に目を向ける。
湿気が術式部――魔石の座の刻線へ入り込んでいる。
封止が足りない。
そして、魔石の質も良くない。波が荒い。
(漏魔……)
昨日より軽いが、確実にある。
「……ダメだ」
レンは呟いた。
冷えない。腐る。気持ち悪い。
この箱は、誰も幸せにしない。
ミアが腕を組んだ。
「で? やめるか」
レンは首を振った。
震えが止まらないのは寒さのせいか、悔しさのせいか分からない。
「やめない。……止めたい。結露を止める。腐食を止める。冷えを上げる」
ミアが小さく笑った。
「変なガキ」
でも、その笑いには少しだけ熱があった。
「いい。じゃあ次は、封止を強くする。蝋を厚くする。皮革も挟む。……ノーラんとこ行くぞ」
「ノーラさん?」
「皮革屋の姉御だ。隙間は人を殺すってうるせえ」
二人が工房を出ようとした、そのとき。
工房の入口に影が差した。
「……やっぱり、ここだった」
落ち着いた女の声。
昨日の監査官とは違う。温度がある。だが、冷静だ。
レンが振り向くと、そこに立っていたのは――十九歳くらいの女性だった。
髪は淡い金色をきっちりまとめ、古い外套の袖口が擦り切れている。
手には革袋。中からは筆記具と、小さな金属の器具が覗いていた。
“学院”の匂いがした。紙とインクと、乾いた薬品の匂い。
ミアが警戒するように言う。
「誰だ、お前」
女はミアではなく、レンを見た。
視線が真っ直ぐで、逃げ場がない。
「昨日、工房通りで倒れかけてた子。漏魔の症状が出てた」
レンの胸が詰まる。
見られていた。
いや、見て“分かった”のだ。感覚でなく、知識で。
女は続けた。
「……あなた、何を作ってるの?」
レンは言葉を飲み込む。
ミアが代わりに答えた。
「冷える箱だよ。見りゃ分かんだろ」
女の目が、箱の内側――結露と錆の跡へ向く。
一瞬で状況を読み取った顔になる。
「断熱不足。封止不足。湿気侵入。魔石の波形が荒い。……そのままだと、もっと強い漏魔が出る」
ミアが眉を吊り上げる。
「波形? 何言って――」
女は名乗った。
「セラ・リンデ。魔導学院の……まあ、上級生」
少しだけ言葉を濁したのは、何か訳があるからだろう。
レンは、昨日から頭の中にあった“測る人”の姿を、ようやく目の前に得た気がした。
セラは革袋から測定具を取り出す。
小さな針と、透明な筒。中に銀色の砂が入っている。
「測らせて。……それで、あなたが倒れる前に、止めよう」
その言い方が、レンには不思議に優しく聞こえた。
安全のために止める。
監査官の“停止します”とは違う種類の言葉だった。
ミアが渋い顔をする。
「お前、ギルドの回し者じゃねえだろうな」
セラは即答した。
「違う。……私は安全が欲しいだけ。あなたたちが作ってるのが便利でも、危険なら止める。でも――」
セラはレンを見る。
「危険を“止まるように作る”なら、私は協力する」
レンの胸が熱くなる。
今まで自分の中だけで回っていた言葉が、他人の口から出た。
(止まるように作る)
レンは小さく頷いた。
「……お願いします」
セラが測定具を箱の継ぎ目へ近づける。
砂が、ゆっくり濁る。針が、跳ねる。
そしてセラは、静かに言った。
「やっぱり。漏魔、出てる。――このまま続けたら、次は“倒れる”で済まないよ」
ミアが息を呑む。
レンは拳を握った。
氷箱は失敗した。
でも、ここからだ。
ブリキ坂の冬の中で、レンの“冷やす箱”は、初めて“チームの仕事”になろうとしていた。




