第16話『止まる箱は、街を守る』
鐘の音が、乾いた冬の空気を叩いた。
ブリキ坂の品評会――と呼ばれているが、実態はもっと生々しい。職人街の広場に板で組まれた簡易の壇。周囲をぐるりと囲む露店と、鼻を利かせる客たち。商人連盟の席には、紙束と印章が並び、魔導ギルドの者は無言で腕を組み、そして監査局の黒い外套だけが、やけに“場違い”に見えた。
この街の暮らしは、鍋の湯気と油の匂いで回っている。だが今日だけは、焦げ臭さの記憶が混ざっている。川べりで燃えた箱の話が、噂の底に沈んだまま、いつでも泡になって浮かび上がれる顔をしていた。
レンは壇の裏で、掌を擦った。十歳の手には、木屑が刺さった小さな傷がいくつもある。治具を削り、刻印を打ち、封印蝋を押した回数だけ、指先が痛む。
「緊張してる?」
ミアが覗き込んでくる。いつものように頬は赤い。寒さのせいだけじゃない。徹夜の赤だ。
「……してない。してるけど」
レンは正直に言った。嘘をつくと、もっと震える。
「いい。震えろ。今日、震えるのは当たり前だ」
ミアはレンの頭を、乱暴にひと撫でした。「震えたまま、手を動かせ。私たちの仕事はそれだけだ」
セラは壇の端で、測定具の針を指先で弾いた。細い音が、冬の空気に吸い込まれていく。
彼女の前には検査票の束。刻印番号、封印番号、測定値、署名。紙は軽いのに、今日のレンにはそれが盾にも鎧にも見えた。
マルコが来る。遅れて来るかと思っていたが、既に息は整っている。商人の息だ。走っても、顔色を崩さない。
「三台。――揃ってるな」
その声に、レンは頷く。
実演用の保冷庫は三つ。
一つは展示用に。見た目が整っている、街の目を惹くための顔。
一つは実演用に。開け閉めされ、覗かれ、触られても崩れない頑丈さ。
そして最後の一つは、“もしものため”。
もし壊れても。もし疑われても。もし、今日の空気が噂のほうへ傾いても。
その時にこそ見せるための一台。
レンは、あえて言葉にする。
「冷えるのは、もう見せた。市で」
市で、ガルドの肉で。観衆の噂が走った日。
あの日と今日の違いはひとつ――今日は“裁かれる”日だ。
「今日は――止まるのを見せる」
レンが言うと、セラが小さく頷いた。
「遮断。安全部の作動。再現性。記録」
セラは単語を並べるだけで、胸の奥を締める。
ミアが短く息を吐く。
「止まるってのはな、派手じゃない。派手じゃないから信用になる」
彼女は保冷庫の背面――放熱板と放熱フィンが露出した部分を軽く叩いた。金属の乾いた音が鳴る。
「ここを隠してる箱は、信用しない。熱は嘘をつかない。逃がさなきゃ、暴れる」
その言葉が、広場のざわめきに混ざった。壇の前に集まってきた人の列が、増えていく。
肉屋のガルドが先頭にいる。あの太い腕で、押し退けるように場所を確保し、周囲を睨んだ。
「坊や! 今日は“見せ物”じゃねえぞ」
ガルドが言う。「こっちは命と金がかかってる。噂で買ったんじゃねえ。捨てる肉を減らしたくて来てんだ」
「分かってる」
レンは答える。子ども扱いされるのは慣れている。でも、ガルドは“子どもだから安くしろ”とは言わない男だ。
次に、薬屋のエナが立つ。白い指を手袋のまま胸の前で組み、静かに周囲を見回した。
あの人は噂より証拠を重く見る。だから今日ここにいる。
「冷えることは、もう聞きました」
エナは言う。「でも――燃えた箱も聞きました。効かない薬は罪です。危ない箱も同じです」
ざわめきが、ひとつ低くなる。
そこへ、黒い外套が壇の前に進み出た。
監査官イングリッド・クロウ。
彼女が来るだけで、場の空気が“規則”の匂いになる。
「――始めなさい」
声は抑えているのに、広場全体に届いた。
レンは壇に上がった。足が板を軋ませる。
視線が刺さる。噂が刺さる。川べりの焦げが刺さる。
でも、ここまで来た。
治具を作り、工程を揃え、検査手順を固め、BSS案を紙にした。
今日の実演は、ただの自慢ではない。
“この街で生きるための条件”の提示だ。
「クラフト商会、レン・クラフトです」
声が思ったより通る。板の壇が、声を跳ね返してくれる。
「今日は、保冷庫の実演をします」
一拍、置く。
「冷えることは、売り文句です。――でも、冷えるだけなら、危ない」
ざわめきが走る。
レンは続けた。
「本物は、冷えるだけじゃない。止まる」
ミアが、壇の横で小さく口角を上げた。
セラの目が、わずかに細くなる。数字の戦いが始まる顔だ。
マルコは、背後で黙って頷いた。商人の“許可”だ。
「見てください。まず――表示です」
レンは展示用の一台の扉を開け、蝶番近く、内側の刻印を指で示した。
外から見えにくい位置。壊さずに隠せない位置。
刻印番号は連番。工房印と数字。
「刻印。これがない箱は、ただの箱です」
レンは言い切った。
次に、封印蝋。
魔石の蓋に、押し型で刻まれた模様と番号。割れ方が一定になるよう、押し型の深さも治具で揃えた。割れたら戻せない。
レンは客の目の前に、封印蝋を見せる。
「封印。割れたら、保証しません」
ざわめきが上がる。「保証ってなんだ」「保証外って怖いぞ」
レンは一度だけ頷く。
「怖くていい。怖いから守れる」
その一言で、空気が少し静まる。怖さを誤魔化さないのは、子どもには難しい。だからこそ、刺さる。
最後に、紙。検査票。
セラが一歩前に出た。
「検査票です」
セラは紙を掲げた。
「刻印番号、封印番号、魔石等級、漏魔測定、連続稼働、遮断確認。日付と署名」
言葉が早口になりそうなのを、彼女は噛み殺す。
「――噂ではなく、記録です」
観衆の前に、測定具が置かれる。セラは針を見せる。
「漏魔は、頭痛や眩暈を起こします。子どもや体力のない人ほど強い」
レンはその言葉で、ほんの少し息が詰まった。自分が最も弱い場所だ。
だからこそ、ここで逃げない。
「では、測ります」
セラは測定具を保冷庫の継ぎ目に近づける。針が僅かに動く。
観衆が息を呑む。針の動きは、噂より分かりやすい。
「基準値以下。合格」
セラは言い、検査票に数値を書き込む。
書く音が聞こえる。紙に、鉛が擦れる音。
その音が、場を支配する。
「次。暴走熱」
ミアが前に出る。彼女は放熱板に手をかざし、温度の上がり方を確かめる。
「熱が逃げてる。ここが外に出てるから分かる。隠してたら、分からない。分からない熱は、燃える」
川べりの焦げ臭さが、再び噂の底から浮き上がろうとする。
観衆の顔に“思い出し”が走る。
誰かが囁く。「燃えたって……これも燃えるんじゃ……」
その揺れを、レンは見逃さない。
ここだ。ここで“止まる”を見せる。
「じゃあ、わざと――限界まで回します」
レンが言うと、ざわめきが一段上がった。
「坊や!」
ガルドが声を荒げる。
「ふざけんな。燃やすなよ!」
「燃やさない」
レンは言う。「燃えないために、止まる」
レンは保冷庫の稼働を上げる。
術式部が淡く光り、機構部が静かに唸る。放熱板がじわりと暖かくなる。
観衆は距離を取る。怖がるのは正しい。怖さがあるから、守りが要る。
セラが測定具を構えたまま、針の動きを追う。
ミアは放熱板から目を離さない。
マルコは、観衆の表情を読む。商人は“空気の売買”をする。
そして――。
カチリ、と音がした。
派手じゃない。爆ぜない。光も眩しくない。
ただ、止まった。
術式部の光が落ち、唸りが消え、放熱板の温度が“上がり続けること”をやめた。
レンは、そこで一歩だけ前に出る。
「遮断が作動しました」
声が落ち着いている。
「危なくなる前に、止まる。止まったら、壊れない。壊れないなら、燃えない」
観衆のざわめきが、形を変える。
不安のざわめきから――理解のざわめきへ。
ミアが言う。
「止まった箱は、修理できる。燃えた箱は、修理できない」
彼女の言葉は、職人街の言葉だ。
その瞬間、職人たちの目が変わる。
“修理できる”は、この街で最も強い信用だ。
セラが検査票を掲げる。
「遮断作動、確認。連続稼働、問題なし。漏魔、基準値以下」
数字が並ぶ。人は数字を信じるというより、“同じことを繰り返せる仕組み”を信じる。
数字はその証拠だ。
レンは最後に、短い言葉で締めた。
「刻印を見て。封印を見て。紙(検査票)を見て」
言葉が、広場に落ちる。
今日の空気に、一本の柱が立つ。
――その柱を、誰がどう折りに来るか。
レンはそれも分かっている。だから、柱を一本だけにしない。
刻印、封印、検査票。三本で支える。
そして“止まる”という見えない四本目を、仕組みとして埋め込む。
監査官イングリッドが、前に出た。
黒い外套が揺れ、紙の束が鳴る。
「記録は確認した」
彼女は淡々と言う。
「遮断機構の作動も確認した。放熱部の露出も確認した。封止の構造も確認した」
視線がミアへ、セラへ、レンへ移る。
「――そして、提出されたBSS案(ブリキ坂簡易安全規格)の“最小構成”は、監査局の暫定判断として受理する」
広場が一瞬、凍る。
“受理”。
それは勝利でも敗北でもない。だが、少なくとも“停止したまま殺される”未来ではない。
イングリッドは続ける。
「ただし、これは“許可”ではない」
空気が再び硬くなる。
「今後の販売は、検査票と表示の運用が前提となる。逸脱があれば、即時停止。危険器具指定の判断も視野に入る」
監査官の言葉は、刃だ。
でも今日は、刃を避けるだけではなく――刃の柄を握った。
レンは、喉の奥が熱くなるのを感じた。
怖かった。
でも、止まった。
箱が。噂が。
そして――自分の足も、逃げなかった。
ざわめきが“買う”方向へ傾き始める。
ガルドが笑った。
「止まるなら、いい。止まるなら――肉が守れる」
エナが頷いた。
「薬も守れますね。条件があるのは、むしろ信用です」
その言葉で、観衆の空気が一段、現実の匂いに戻る。
“条件”は痛い。だが、条件があるから次が作れる。
その時だった。
貴族席のほう――商人連盟の上座のさらに奥、護衛の影の向こうから、若い男が立ち上がった。
噂の形が変わる。
“王族の噂”だ。匂いが違う。
第二王子アルベルト。
十八歳。派手な装飾は抑えられているのに、存在だけが飾りみたいに眩しい。
彼は壇のほうへ歩いてくる。護衛がつく。だが、彼自身の歩き方がもう“護衛”みたいに堂々としている。
レンは、背筋が冷えるのを感じた。
冷える箱を作ったのに、自分が冷える。
この冷えは危険だ。
凍って、動けなくなる冷えだ。
アルベルトは、レンの前で立ち止まり、柔らかく笑った。
その笑顔は、善意にも見える。
同時に、檻にも見える。
「いい実演だった」
王子は言った。声は優しい。
「君は街を守った。――守るというのは、強いことだ」
レンは返事を探した。
感謝を言うべきか。頭を下げるべきか。
でも、それをやると、次に何が来るか分からない。
王子は、レンの迷いを待ってくれない。
「守ってあげたい。条件は一つだけ」
甘い毒が、口に入らなくても喉に絡む。
広場の噂が、今度は別の方向へ走り出す。
“王子が拾う”噂だ。
“国が管理する”噂だ。
レンは笑えなかった。
止まる箱を作った。
でも、次は――自分が止められる番かもしれない。
冬の鐘が、もう一度鳴った。
(つづく)




