第13話『安全は願いじゃない、条件だ』
工房の火は、いつもより小さい。
止めろと言われたわけじゃない。――言われたのだが、火を完全に消したら、心まで冷える気がした。だからミアは炉に薪を一本だけ足し、鉄を赤くはせず、ただ温度だけを保った。
外は冬だ。ブリキ坂の冬は、呼吸が浅くなる。胸の奥まで冷える。
その冷えの中で、七日という数字だけが熱を持っていた。
「再検査まで、あと――」
マルコが指で机を叩く。机の上には紙が広がっている。検査票の束。刻印番号台帳。封印蝋の押し型控え。セラの測定メモ。そして、真っ白な紙が一枚。
真っ白な紙が、いちばん怖い。
「……数えるな」
ミアがぶっきらぼうに言った。怒りじゃない。焦りだ。怒りより厄介なやつ。
レンはその白紙を見つめた。
イングリッドの言葉が、まだ耳に残っている。
――“提示してみなさい。安全を定義できるなら、それは力になる”
力。
十歳のレンには、腕力も権力もない。だから、紙で戦うしかない。
「BSS……」
レンが呟くと、セラが顔を上げた。
「ブリキ坂簡易安全規格。仮称。けど、仮称のままでもいい。形があればいい」
マルコが頷く。
「監査官が欲しいのは“名前”じゃない。検査できる形だ。項目、合否、表示、禁止。これが揃っていれば、議論の土俵に立てる」
ミアが鼻で笑った。
「土俵? こっちは殴られてるんだが」
「殴られてるなら、殴り返すための拳を作れ」
マルコは紙を一枚ずつ並べ替え、白紙の上に線を引いた。文字じゃない。まず枠だ。枠があるだけで、紙は武器になる。
「最小構成でいく。増やすな。増やすと作れない。作れないと、期限に負ける」
レンは息を吸い、頷いた。
「……最小構成。保冷庫用。魔石搭載の複合具向け。目的は、漏魔と暴走熱を防ぐ」
「その二つ以外は後回しでいい」
セラが即答した。彼女は“削る”のが上手い。理論の世界の人間は、不要を切り捨てられる。現場の人間は、切り捨てたものが刺さるのを知っている。
ミアが言った。
「でも、切り捨てる前に“絶対に切るな”も決めろ。安全部を削ったら、ああなる」
川べりの焦げの匂いが、工房の中にも戻ってくる。誰も口にしないが、全員が同じものを思い出していた。
レンは白紙の上に、マルコが引いた枠の一番上へ書いた。
【BSS案(ブリキ坂簡易安全規格)/保冷庫(複合具)】
自分の字が震える。
字が震えるのは、怖いからだ。怖いのは、本気だからだ。
「まず、検査項目」
マルコが指で三つの丸を描いた。
「三つに絞れ。――漏魔、暴走熱、表示」
「表示?」
「刻印と封印と検査票。これがない箱を弾く。模倣品対策は“安全”の一部だ。事故が起きたら、本物も殺される」
レンは頷いた。第11話と第12話で、身にしみた。
セラが紙の端に細い字で書き込む。
「漏魔検査。測定具で継ぎ目をなぞる。針の振れが基準以下。……基準は“相対”でいい。基準箱を一つ用意して、それと同等以下」
「数値を固定しないのか?」
レンが聞くと、セラは首を振った。
「固定すると、監査官に“その数値の根拠は?”と言われる。今は時間がない。相対基準なら、再現できる」
マルコが頷いた。
「“誰がやっても同じになる”が大事だ。相対で統一できるなら、それが規格だ」
ミアが腕を組む。
「暴走熱は?」
「連続稼働試験」
セラが言いかけたが、ミアが遮った。
「時間がねえ。最小だろ。……なら、“止まる”を見せろ。危ないときに止まる。止まらなきゃ、弾く」
レンの胸が熱くなる。そこだ。自分が言い続けてきた場所だ。
「遮断」
レンは白紙に書き足す。
【暴走熱対策:異常兆候(匂い/音/発光)→遮断が作動すること】
ミアが頷く。
「匂いは焦げ油。音は薄板が鳴る。光は術式がチリチリする。――それが出たら止まる。それが“安全”だ」
セラが続ける。
「合否基準は“遮断作動の有無”。それと放熱部が外に出ていること。放熱を省いた箱が燃えた」
マルコが紙に線を引く。
「良い。次、魔石等級」
レンが口を開く。
「推奨はC級以上。D以下は……」
セラが即座に言う。
「保証外。試験運用のみ」
ミアが眉を寄せた。
「じゃあ、安い石を入れた客が事故ったらどうする」
マルコが答える。
「だから“禁止事項”に入れる。D以下の常用は不可。封印が割れてたら保証外。改造したら保証外。――紙に書く」
レンの手が止まった。
「保証外って……言い切っていいの?」
十歳の声は弱い。優しさが出る。誰かを守りたいからこそ、線を引くのが怖い。
マルコがレンを見た。
「線を引かないと、誰も守れない」
セラが言葉を足す。
「条件がないと、次の人を守れない」
ミアが短く言う。
「削るな。削ったら燃える」
三人の言葉が、レンの背中を押した。レンは息を吸い、白紙の四角の中へ箇条書きで書いた。文は短く。講義にしない。読む人がいる。監査官がいる。
【禁止事項(BSS)】
・刻印の改ざん/削り
・封印蝋の破損状態での使用(封印割れ=保証外)
・安全部(遮断・放熱)の取り外し/改造
・D級以下の魔石を常用(試験運用のみ/保証外)
ミアが鼻で笑った。
「よし。これなら、殴られても殴り返せる」
マルコは最後の枠へ指を置いた。
「表示。ここが“制度”の核だ。刻印、封印、検査票。これをBSSの必須にする」
レンが頷いた。
「刻印は扉内側、蝶番近く。削ったら分かる場所。封印は二段。割れ方が決まる。検査票は番号三つ――刻印番号、封印番号、測定者署名」
セラが言った。
「検査票に、漏魔測定の結果と、遮断作動の確認欄を入れる。日付と担当者も」
ミアが工具袋を開け、実物の刻印具を取り出す。金属が小さく鳴った。
「紙だけじゃ足りねえ。今日から打つ。封印も塗る。検査票も一枚ずつ出す。……止められてても、準備はできる」
マルコが頷く。
「“停止”は販売の停止だ。改善と検査準備まで止めろとは言われていない。そこが穴だ。穴があるなら通る」
レンは白紙の下に、決め台詞みたいに短い一文を書いた。自分のために書いた。
【刻印を見て。封印を見て。紙(検査票)を見て。】
それは、街に教えた言葉でもある。
でも今日は、自分たちに言い聞かせる言葉だ。
沈黙の中で、紙の上のBSS案が形になっていく。白紙が“規格”になる。規格が“盾”になる。
工房の戸が叩かれた。
トビアスが顔を出した。片目鏡の奥で、面白そうに笑っている。
「へえ。ほんとに紙で殴り返すつもりか」
ミアが言う。
「余計な口はいい。見ろ。BSS案だ」
トビアスが紙を覗き込み、指で“表示”の欄を叩いた。
「刻印位置、よし。封印割れ、よし。……禁止事項も、悪くない。『安全部を削るな』が文字になったのは強い」
セラが問う。
「足りないところは?」
トビアスは肩をすくめる。
「足りないのは、時間だ。――検査の再現性を見せろ。誰がやっても同じ。坊やの頭だけじゃなく、ミアの手だけじゃなく、セラの測定だけじゃなく。四人の分業で回ることを見せろ」
マルコが頷いた。
「だから最小構成だ。回る形にする」
レンは顔を上げた。
「これを……イングリッドに出す」
言った瞬間、胸が痛くなる。怖い。だが、怖さは刃を握る感覚でもある。
マルコが紙を揃え、封筒に入れた。封筒の口に封印蝋を垂らし、押し型を押した。赤い蝋が固まるまでの数秒が、やけに長い。
「提出用。“BSS案”」
マルコは言った。
「ここから先は、監査官の土俵だ。だが土俵に上がらないと、踏み潰される」
レンは頷き、そして机の隅の小さな札を見た。木片に、マルコが数字を書いて吊るしてある。
──再検査当日まで。
木片の数字は、容赦なく減っていく。
レンは声に出してしまった。
「……再検査当日まで、あと◯日」
数字を言うだけで、工房の空気が重くなる。
火が小さいぶん、締切の熱が大きくなる。
(つづく)




