第12話『監査官の足音』
川べりの焦げ臭さは、噂より遅く消える。
水をかけた泥はまだ黒く、炭になった木片は、踏めば粉になる。あの箱が正規品じゃない――刻印がない、封印がない、検査票がない。レンたちはそう示した。示したはずだった。
なのに、街の空気は軽くならない。
人は「燃えた」を覚えて、「刻印がない」は忘れる。
火は目で見える。制度は目で見えにくい。
その“目で見えるもの”を持って、彼女は来た。
川べりの輪が、ふっと割れる。夜警オルグですら、舌打ちを飲み込んだ。
黒い外套。汚れのない靴。背筋の通った歩き方。
冷たい眼差しだけが、泥を踏まない。
「魔導ギルド監査局。監査官、イングリッド・クロウ」
名乗りは短い。声は低い。なのに、周囲の呼吸が揃って止まる。
それが“合法の匂い”だった。
レンは、喉の奥が鳴るのを抑えた。契約のときとは違う。仲裁屋の紙は、逃げ道を残す。でも監査官の紙は、逃げ道を塞ぐ。
「……僕が、レン・クラフトです」
丁寧に言ったつもりだったのに、声がかすれた。十歳の体が、勝手に縮む。信用の薄さが、骨の形で出る。
ミアが半歩前に出る。
「監査局が来るほどの話じゃねえだろ。刻印も封印もない。正規品じゃない」
「“正規品ではない”」
イングリッドは繰り返した。確認するように、味わうように。
「あなたがそう言う根拠は?」
マルコが一歩、前へ。
「こちらで現場検証済みです。刻印なし。封印なし。検査票なし。さらに放熱の逃がしが省かれていた。安全部カットの疑いが濃い」
イングリッドは頷かない。肯定も否定もせず、ただ言った。
「根拠は“口”ですか。それとも“記録”ですか」
レンの胸が痛む。第9話で知った。口約束は腹より軽い。
今、その言葉が自分たちへ刃として返ってくる。
セラが測定具の袋を持ち上げた。
「測定しました。漏魔の反応が強かった。魔石の波が荒い。少なくとも推奨の等級ではない」
イングリッドの視線が、セラの手元に落ちる。
「その測定結果は?」
「……口だけではありません。数値は、書きました」
セラは革袋から紙を取り出した。走り書きの検証メモ。測定時刻、場所、針の振れ方、周辺の症状。第3話から積み上げてきた“測る”が、今ここで盾になる。
イングリッドが紙を受け取る。目が滑るように読み、次に手を止めた。
「あなたの署名は?」
セラが答える。
「セラ・リンデ。魔法学院の在籍証も持っています」
イングリッドは微かに眉を動かした。感情ではない。価値の計算だ。学院の名は、紙に重みを足す。
次にイングリッドは、燃えた箱にしゃがみ込んだ。汚れることを厭わず、焦げた縁に指を置く。手袋越しでも分かる熱の名残に、視線が細くなる。
「……暴走熱の痕跡。焦げの筋が内側から外へ走っている。放熱不足。術式部の焼け方も、荒い」
レンの胃が沈む。彼女が原因を言語化するほど、事件が“公”になる。公になれば、責任の矛先は必ず“最初に流行らせた者”に向く。
イングリッドは立ち上がり、周囲を見回した。
「ここで一つ、確認します。あなたの商会が作る保冷庫は、“魔石搭載の複合具”ですか」
レンは小さく頷く。
「はい。魔石を動力にして、冷却の現象を一定化しています」
「つまり、危険器具指定の対象になり得る」
ざわ、と空気が揺れた。
“指定”。第11話で噂になった言葉が、本人の口から出た瞬間、噂が事実の形を得る。
ミアが噛みつくように言う。
「指定の対象? うちの正規品は止まるように作ってる。危ないときに止まる。そこが売りだ!」
レンの頭に、自分の言葉が蘇る。
冷えるかどうかじゃない、止まるかどうかなんだ。
だが、その“止まる”は、まだ街の常識にはなっていない。
イングリッドはミアを見て、淡々と言った。
「あなたの“売り”は、監査局の基準ではありません。基準は、事故が起きたかどうか。起きたなら、止める権限がある」
ミアの拳が震える。
セラが一歩、ミアの前に出た。
「事故が起きたのは、刻印も封印も検査票もない箱です。正規品ではない」
イングリッドが首を傾げる。
「あなたたちはそう主張する。しかし街は、区別できない」
その言葉が、レンの胸を貫いた。まさに第10話で恐れていたことだ。事故が起きたとき、区別できない者は本物を責める。
マルコが静かに言った。
「だからこそ、刻印と封印と検査票を制度化した。昨日、街に周知した。今日も増やす」
イングリッドの視線がマルコに刺さる。
「制度? 誰が承認した制度ですか」
マルコは一瞬だけ黙り、次に言った。
「承認はない。だが、必要があった。偽物が出回ったから」
「承認のない制度は、ただの自己申告です」
合法の刃が、音もなく振り下ろされる。
レンの膝が笑いそうになるのを、ミアが後ろから支える気配がした。
セラは唇を結び、測定具を握り直した。
マルコは表情を変えず、しかし目の奥だけが冷えていく。
オルグが面倒そうに言った。
「監査官さんよ。こいつらの箱じゃねえのは、見りゃ分かるだろ。刻印も封印もない」
「夜警の感想は、証拠ではありません」
イングリッドは即答した。容赦がない。だがそれは、彼女が“悪”だからじゃない。役割がそうだからだ。合法的に殺しに来る天敵――その通りだった。
イングリッドは懐から紙を取り出した。白い紙。濃いインク。監査局の印。
「レン・クラフト。並びに関係者。あなたたちの保冷庫の製造と販売を――本日より一時停止とします」
空気が凍る。
レンの目の前が白くなる。
停止。それは、工房の火を消す命令だ。商会の喉を締める命令だ。生活を止める命令だ。
「待ってください!」
レンの声が、子どもの声のまま弾けた。
「それは……正規品のせいじゃない。偽物か、安全部を削った箱が――」
「“偽物”という言葉は便利です」
イングリッドはレンを見下ろした。視線だけで、子どもを黙らせる力がある。
「しかし監査局は、“便利”では動きません。“根拠”で動きます」
彼女は紙をもう一枚出した。
「停止は“仮”です。再検査を受け、基準を満たせば解除します」
レンの心臓が跳ねた。止められて終わりじゃない。道はある。だが、その道は狭い。
「再検査の期限は――」
イングリッドが淡々と言う。
「七日」
短い言葉が、首輪になる。
ミアが唸った。
「七日で何をしろってんだ!」
イングリッドは表情を変えない。
「基準を示せ。記録を示せ。安全を示せ。あなたたちが“制度”と言うなら、それを“検査可能な形”にして提出しろ」
セラの目が光った。
“検査可能”。それは、彼女の言語だ。測る、記録する、再現する。
レンの頭にも、一つの形が浮かびかけた。
制度を“自己申告”で終わらせない方法。
誰が見ても同じ結果になる形。
検査項目、合否基準、表示方法、点検周期、禁止事項――。
その芽が、あの言葉に繋がる。
ブリキ坂簡易安全規格――BSS。
まだ仮称で、紙の上の影。けれど今、影を輪郭にする必要がある。
マルコが口を開いた。
「監査官。確認したい。あなたの求める“基準”は、監査局のものか。それとも、私たちが提示してよいのか」
イングリッドはわずかに笑った。笑いというより、刃の反射だ。
「提示してみなさい。あなたたちが先に安全を定義できるなら――それは一つの力になる」
その言葉は、許しに聞こえて、罠にも聞こえた。
提示できなければ、停止は継続。提示できても、基準の奪い合いが始まる。
オルグがぼそりと言った。
「ほらな。面倒が増える」
レンは拳を握った。十歳の拳だ。だが、今ここで折れたら、二度と立てない。
「……記録ならあります」
レンは言った。声は震えている。それでも言った。
「検査票があります。刻印番号と封印番号の台帳があります。セラの測定記録もあります。ミアの組み立て工程も、書けます」
ミアが頷き、短く言った。
「書く。作るだけじゃ、守れねえって分かった」
セラが続ける。
「基準も作れる。測れる。合否を決められる形にする」
マルコが締めた。
「七日で、“安全を紙にする”。それが私たちの反撃です」
イングリッドは紙を差し出した。受領の署名欄がある。
合法の刃は、必ず署名を求める。署名した瞬間、逃げ道が消える。
レンは手を伸ばし、ペンを握った。指が冷たい。
でも、署名は敗北じゃない。これは戦いの開始だ。
レンは名前を書いた。
イングリッドが紙を受け取り、最後に言った。
「期限までに、再検査を申請しなさい。申請がなければ――停止は本停止になる」
風が吹いた。川の匂いに、焦げの匂いが混ざる。
そして、七日という数字が、胸の中で鳴り続けた。
(つづく)




