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第10話『刻印と封印蝋と検査票、正規品の証』

ブリキ坂の朝は、音が多い。


金槌が鉄を叩く音、木槌が枠を締める音、革を縫う針の擦れる音。湯気の立つ食堂の鍋と、乾いた薪の匂い。そこへ最近、もう一つ――紙が擦れる音が混ざるようになった。


レンの工房の机の上で、紙束が増えていく。


検査票。契約書。手付金の受領票。刻印番号の台帳。封印蝋の押し型の控え。

 作った箱の数より、紙の数の方が増える日が来るなんて、レンは想像していなかった。


「……これ、ほんとに必要なのかな」


レンが呟くと、セラが測定具を拭きながら顔も上げずに言った。


「必要。数字がないと、嘘が勝つ」


短い言葉。だが、重い。第9話の“口約束の雪崩”を思い出すだけで、レンの胃が縮む。


ミアは紙束を見ただけで眉間に皺を寄せ、言葉を噛み砕いた。


「紙が増えるほど、手は減るんだけどな」


「減らすな。増やすんだ」


マルコが言い切った。


「紙は手だ。紙がなければ、作った分だけ奪われる。――模倣に」


その“模倣”の噂が、まだ街の底で燻っている。

 似た箱が出回っている。刻印がない。封印が雑。それでも冷えると言う者がいる。安い。早い。口約束で手に入る。


安さは、正規品の喉元を狙う刃だ。


「だから、制度にする」


マルコは机の上に、三つの物を並べた。


金属の刻印板。封印蝋と押し型。検査票の束。


「刻印と封印蝋と検査票。これを“うちだけのやり方”で終わらせるな。ブリキ坂の常識にする。常識になれば、偽物は売りづらくなる」


「常識……?」


レンが首を傾げると、マルコは言った。


「見分け方を、街に教える。客に教える。修理屋に教える。夜警にも教える。――そのために、トビアスを呼ぶ」


昼前、修理屋トビアス・コイルがやって来た。


片目鏡、油で黒い指。背を低くして入ってくる姿は、まるで猫だ。目だけが笑っていない。


「へえ……噂の紙の山。坊や、商売人みたいになってきたじゃない」


ミアが睨む。


「からかいに来たなら帰れ」


「からかいじゃない。壊れ方は嘘をつかないからな」


トビアスは机の上の刻印板を指で弾いた。金属音が小さく鳴る。


「刻印の位置、決めたのか?」


レンが頷く。


「扉の内側、蝶番の近く。外から見えにくいところに」


「見えにくいのはいい。だが、見えなさすぎると、客は確認できない。――偽物が楽になる」


レンは息を呑む。確かに。隠すほど安全だと思っていたが、確認できなければ意味がない。


トビアスが、机の上に指で簡単な図を描いた。


「位置は二つだ。『客が見える場所』と『壊したら隠せない場所』。両方を満たすところに打て」


「……壊したら隠せない?」


「そう。例えば、蝶番の真裏。蝶番を外して付け替えたら、刻印が削れる。削れたら、見れば分かる」


ミアが唸った。


「現場の発想だな」


「現場で食ってるからな」


トビアスは次に、封印蝋を手に取った。指で軽く押す。


「で、封印蝋。これ、割れ方を決めてるか?」


「割れ方……?」


セラが言った。


「封印用の術式を混ぜてある。剥がせば印が変わる」


トビアスは片目鏡の奥で笑った。


「術式があっても、人は剥がす。剥がした痕跡を、誰でも分かる形にしろ。専門家だけが分かるのは弱い。客が見て分かるのが強い」


マルコが頷く。


「だから制度だ。『割れ方』も規格化する」


レンは封印蝋を持ち上げた。香りが淡い。押し型の紋が、まだ新しい。


「どうやって……?」


トビアスは肩をすくめた。


「簡単だ。押し型を二段にする。外側は模様、内側は番号。剥がすと、必ず模様が千切れて番号が欠けるように作る。欠けた番号は、検査票と照合できない」


レンの頭の中で、三つが繋がる。


刻印位置。封印の割れ方。検査票番号。


三つが噛み合えば、嘘がつけない。

 嘘がつけないなら、安さだけの偽物は弱くなる。


「……それなら、街の人でも見分けられる」


レンが言うと、トビアスが頷いた。


「そうだ。見分けるのは職人じゃない。最初に騙されるのは客だ。客が賢くなれば、闇は狭くなる」


その言葉は、冷たいのに優しかった。修理屋は“壊れた後”を知っているからこそ、壊れる前に止めたがる。


マルコが紙束を一枚取り出した。検査票だ。番号欄が大きく取られ、刻印番号と封印番号が並ぶように整えられている。


「検査票はこうする。番号は三つ。刻印番号、封印番号、検査官セラの署名欄。これが揃わない箱は、正規品じゃない」


セラが言った。


「検査の項目も簡単にする。『温度差』『漏魔の反応』『封印の状態』。増やしすぎると、誰も読まない」


レンは頷いた。説明は短く、行動に混ぜる。用語は増やしすぎない――用語集のルールが頭をよぎる。 Source


「じゃあ、これを街に浸透させるには……」


レンが言いかけたとき、工房の外から声が飛んだ。


「坊やの箱、買ったってやつがいるぞ! 安かったって!」


ざわめき。噂はもう、ここまで来ている。


マルコが扉を開け、外の人混みに向けて言った。


「だから今から、教える。――見分け方だ」


工房の前に、人が集まった。第8話の市ほどではないが、十分に多い。

 ドロテアが食堂の鍋をかき回しながら、わざと声を張る。


「ほらほら! 聞いときな! 騙されて泣くのは自分だよ!」


オルグが少し離れた場所で壁にもたれ、酒の匂いを漂わせながら見張っている。面倒くさそうな顔のまま、しかし人の流れは抑えている。彼は“夜になる前”に働く男だ。 Source


レンは、胸の前で小さく深呼吸した。十歳の声で、街に制度を教える。怖い。でも、やらなければ奪われる。


「……聞いてください。『冷える箱』には、正規品の証があります」


レンは三つを掲げた。


「刻印。封印蝋。検査票です」


誰かが笑う。


「また紙かよ!」


レンは笑わない。笑いに乗らない。代わりに、ミアが箱を前に出し、扉を開けて見せた。扉の内側、蝶番のすぐ近くに刻印がある。見えにくいが、覗けば見える位置。


「ここ。これが刻印。位置が違うやつは怪しい。削れてたら、もっと怪しい」


ミアの言い方は乱暴だが、分かりやすい。分かりやすいのが正しい。


トビアスが前に出て、片目鏡を上げた。


「それから封印だ。封印蝋は剥がすと割れる。――割れ方が決まってる。模様が千切れて番号が欠ける。欠けたら、検査票と合わねえ」


観衆が「へえ」と声を漏らす。修理屋の言葉は、現場の匂いがする。信じやすい。


セラが検査票を掲げた。


「最後にこれ。番号が一致しているか。刻印番号、封印番号、そして私の署名。――これがない箱は、冷えても“安全”とは言えません」


“安全”。その言葉に、観衆が一瞬だけ黙る。冬の火事は、誰もが知っている。便利は祝福にもなるが、刃にもなる――そんなことを言う司祭がいた気がして、レンは苦い息を吐いた。


マルコが締める。


「正規品を買った者は、検査票を失くすな。失くした者は、うちで台帳を照合する。番号で探す。番号が合わなければ――偽物だ」


人々の視線が、初めて“安さ”から“番号”へ移る。番号は面倒だ。だが面倒は、嘘を殺す。


「じゃあ、安い箱は全部ダメなのか?」


誰かが叫ぶ。レンは言った。


「安い箱が全部ダメじゃありません。でも――僕らの箱じゃないなら、僕らは責任を持てません」


責任。第9話でラザールが言った言葉が胸に残っている。紙が責任を作る。責任が安全を作る。安全が信用を作る。信用が商会を作る。 Source


トビアスがぼそりと言った。


「壊れたとき、泣くのは客だ。――泣きたくねえなら、見る目を持て」


その瞬間、どこかで「確かに」と誰かが呟いた。

 小さな同意は、制度の芽だ。


オルグが壁から離れて、面倒そうに言った。


「聞いたな。これで騒ぎが減るなら、俺は酒が飲める」


笑いが起きた。笑いが起きるのは、浸透の始まりだ。街が覚える合図だ。


レンは少しだけ、肩の力が抜けた。

 ――これで、偽物に勝てる。そう思いかけた、そのとき。


人混みの後ろから、小さな影が転がるように駆け込んできた。


痩せた体。目だけが大きい。孤児の小僧、ベニーだ。息が白いのに、顔が真っ青だった。


「レン! レン、やばい!」


レンの心臓が跳ねる。


「どうした、ベニー!」


ベニーは膝に手をつき、息を切らしながら叫んだ。


「川べりで、箱が燃えた!」


その言葉が、冬の空気を一瞬で凍らせた。


(つづく)

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