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第1話『ブリキ坂の冬、拾った少年』

坂の上から、鉄を叩く乾いた音が降ってくる。

まだ陽も低いのに、煤の匂いだけは一人前だった。


ブリキ坂――そう呼ばれる下町は、朝が早い。早いというより、遅れると生きていけない。

冬の空気は薄く、息が白い。指先の感覚が鈍って、握ったはずの銅貨が落ちる。


レン・クラフトは、その冷たさを掌の奥で覚えながら歩いていた。


体が軽い。軽すぎる。

足も短い。靴も大きい。袖は余って、紐で縛っただけの作業着が風をはらむ。


――十歳の体だ。


転生だとか、そういう説明を頭の中でしている余裕はない。

腹が減っている。喉が渇いている。熱いものがほしい。


視界の端を、桶を抱えた人の列が横切る。共同井戸へ向かう行列だ。

誰もレンを見ない。いや、見ても「見なかったこと」にする目つきだった。


「……」


レンは表通りを避け、中段――工房通りへと足を向けた。

ここには店の呼び込みより、ハンマーの音がある。

あの音は、まだ「やることがある」音だ。腹が減っても、寒くても、仕事があれば死ににくい。


通りには、鍛冶屋の火床が赤く揺れている。木工の店からは、鉋屑が雪みたいに舞っていた。油の匂い、金属の匂い、濡れた革の匂い。

生き物みたいな街の匂い。


その匂いの中に、異物があった。


焦げた布の匂い。

それと――甘ったるい、金属が焼けた匂い。


レンの足が止まる。


路地の角、修理屋の軒先に、黒い箱が転がっていた。

箱の側面には、紋章。魔導ギルドの印……に似ているが、角が粗い。偽物か、下請けか。


箱の下に、水が滲んでいる。結露ではない。……油だ。

そして箱の継ぎ目から、細い煙がふっと立ち上った。


「危ない!」


誰かが叫んだ。

次の瞬間、周囲の人間が蜘蛛の子を散らすように引く。

その中で、レンだけが前に出ていた。


理屈より先に体が動いた。


――止めないと。


レンは箱に近づき、掌をかざす。熱い。触れないほどではないが、嫌な熱だ。

熱だけじゃない。胸の奥が、妙にざわつく。


目の端が滲む。

影が、揺れる。

耳の奥で、砂が転がるみたいな音がした。


(……漏魔だ)


言葉が出る前に、膝が揺れた。


「ちょ、ちょっと坊主! 触るな!」


修理屋の男が、奥から顔を出した。油で黒い指、片眼鏡。猫背で、目だけがやけに鋭い。

トビアス・コイル――と、後にレンは知ることになる。


だがレンは、引かなかった。


「触らないと止められない。……止めないと、もっと危ない」


「何言って――」


トビアスの言葉が途切れた。

箱の術式部――刻線のような紋様が、チリチリと光り始めたからだ。


暴走熱の前兆。

レンの鼻が、焦げた油の匂いを拾う。


(遮断がない……? いや、ある。あるはずだ。ギルド印がついてるなら)


レンは継ぎ目を観察した。封止が甘い。蝋が雑だ。継ぎ目が浮いている。

魔力が漏れている。だから回路が乱れて、熱が出る。


(なら、乱れを止めればいい)


レンは前世の記憶を手繰る。回路。スイッチ。遮断。

魔法世界の装置でも、やっていることは似ているはずだ。


箱の側面――紋章の下に、小さな蓋がある。

レンは爪を差し込み、こじる。硬い。凍えた指が痛い。


「おい、本当にやめろって!」


「……壊さない。止めるだけ」


蓋が外れた。中に、小さな魔石が一つ。黄みがかった色。

荒い。D級に近い――それは、感覚でわかった。


その魔石の横に、薄い金属板が挟まっている。板に刻まれた短い刻線。

遮断のための“折れる”板。過熱すると曲がって接点を切るタイプだ。


(でも……熱が逃げてない。だから間に合わない)


レンは周囲を見る。水桶。井戸へ運ぶ途中の桶が放置されていた。

行列の誰かが、怖くて手を離したのだろう。


レンは桶を引き寄せ、布切れを探す。

通りの端に、濡れた雑巾が落ちていた。たぶん工房のもの。


それを掴み、水に浸し、絞らずに――魔導具の外装に当てた。


ジュッ、と音がした。

湯気が上がる。


「……冷やしてどうすんだ!」


トビアスが叫ぶ。


「冷やすんじゃない。時間を稼ぐ」


レンは低く言った。自分でも驚くほど、大人みたいな声だった。


外装温度が下がれば、内部の熱も落ちる。

落ちれば遮断板が間に合う。

間に合えば、回路が切れる。


そしてもう一つ。

レンは魔石の周囲、継ぎ目に蝋の欠片が残っているのを見つける。

指先でそれを掬い、濡れ布の熱で柔らかくして、継ぎ目へ押し込む。


封止。即席だが、漏れを止める。


視界の滲みが少し引いた。

耳鳴りが遠のく。


「……おい」


トビアスの声が、さっきより小さかった。


次の瞬間。

チリチリと光っていた刻線が、ふっと消えた。

箱が、静かになった。


――止まった。


レンは息を吐く。白い息が、黒い箱の上に落ちる。


「止まった……?」


誰かの声がした。

遠巻きにしていた人の輪が、じわりと戻ってくる。


トビアスが、レンの顔をまじまじと見た。片眼鏡の奥で、目が笑っていない。


「坊主。今の、どこで覚えた」


「……見て、考えた」


「嘘だな」


トビアスは即座に言い切った。

その断定に、レンは反射的にムッとする。だが、体力が足りない。反論するほどの熱が出ない。


「嘘じゃない。……壊れ方は、嘘をつかないから」


自分で言って、レンは少しだけ驚いた。

その言葉は、前世のどこかで聞いた気がする。修理屋の動画か、誰かの口癖か。


トビアスが鼻で笑った。


「壊れ方、ね。……気に入った」


そのとき、通りの空気が変わった。


人の輪が二つに割れる。

黒い外套の女が歩いてきた。紋章の付いた書類鞄。手袋。

視線の温度が、ない。


レンは直感する。

この人は“危ない”ではなく、“危険です”と言う人だ。


女は止まった魔導具を見下ろし、淡々と告げた。


「未認可の修繕行為です」


周囲がざわつく。


トビアスの顔が引きつった。

「監査局かよ……」


レンの背筋が冷えた。

魔導ギルド監査局。

この世界で“安全”を名目に何でも止められる組織。


女――監査官は、レンに視線を向ける。


「あなたが触りましたか」


「……止めただけです。壊してません」


「壊したかどうかは、こちらが判断します」


声が変わらない。

言葉が、刃物みたいに胸に刺さる。


レンは、子どもだ。

信用がない。

ここで下手に言い返したら終わる。


トビアスが、半歩前に出た。珍しく庇う動きだった。


「いや、こいつは――」


監査官は、トビアスを見もしない。


「この装置はギルド印がある。一般人が触れて良い物ではありません」


レンは言葉の隙間に、違和感を拾う。


(ギルド印……? でも角が粗かった。偽物か、下請けか。……それを“印がある”で押し切るつもりだ)


監査官が鞄から紙を取り出す。

紙の上に、細い線で書かれた文字。

それが、世界を動かす。


(マルコが言ってた。……紙は、武器だ)


まだ会ってもいないのに、レンの頭の中で誰かが喋った気がした。


そのとき、別の声が割って入った。


「おい。うちの前で何してんだ」


低くて、苛立った女の声。


工房通りの端――火床のある鍛冶工房の前に、腕を組んだ少女が立っていた。

背は少し高い。栗色の髪を後ろで束ね、前腕には細い傷が走っている。

目つきが強い。だが、現場の目だ。


ミア・ボルツ。

レンが、この街で最初に出会う“現実”そのもの。


「監査局? ここはブリキ坂だぞ。勝手に騒ぎ起こすな」


「騒ぎを起こしているのはあなた方です」


監査官は淡々と返す。


ミアは舌打ちした。


「……チッ。で、その箱は?」


「暴走熱の兆候がありました。安全のため、回収します」


監査官がそう言った瞬間、ミアの目が細くなった。

安全。

その言葉が、現場の人間を黙らせるのを、彼女は知っている。


「回収って、持ってく気か」


「はい」


「じゃあ、持ってけ。……でもな」


ミアの視線が、レンに落ちる。

小柄で、煤まみれで、震えている子ども。


「その子が止めなきゃ、今ごろ火が出てた。回収する前に、礼くらい言ったらどうだ」


監査官は、ほんの一瞬、沈黙した。

礼という概念を探すような間。


そして、言った。


「礼は不要です。危険な行為は繰り返さないでください」


それだけ。

ミアの口角が歪む。


「……気に入らねえ」


レンはその言葉に、小さく笑いそうになった。

この街で初めて、“味方になりそうな怒り”を見た気がしたからだ。


監査官は装置を鞄に入れる……のではなく、書類に何かを書き込み、トビアスに紙を突きつけた。


「この装置は調査対象です。修理屋コイル。あなたの工房にも確認が入ります」


「勘弁してくれ……」


監査官は踵を返す。

その背中が、冷たく遠ざかる。


人の輪が解ける。

通りに、またハンマーの音が戻ってくる。


レンは、ようやく力が抜けた。膝が笑う。

冷たい地面に座り込みそうになる。


ミアが近づいてくる。工具袋が揺れる。煤の匂いがする。

彼女はレンを見下ろし、ぶっきらぼうに言った。


「お前、どこの子だ」


「……どこでも、ないです」


答えながら、レンは自分の腹の音を聞いた。恥ずかしいほど鳴った。


ミアがため息をつく。


「腹、減ってんだろ。……うち来い」


「でも――」


「でもじゃねえ。寒いと死ぬ」


その言い方が、妙に優しかった。

優しいと言うより、現場の事実だった。


レンは立ち上がろうとして、ふらつく。

ミアが、ためらいなくレンの襟を掴んで引っ張った。


「軽すぎる。ちゃんと食え」


レンは抵抗しなかった。

抵抗するだけの体力が、もうない。


工房の中は、外よりも少しだけ暖かかった。火床の熱が頬に刺す。

金床に当たる槌の一撃が、胸の奥まで響く。


ミアは鍋を見つけ、残り物の粥を温め始めた。

その手際は乱暴だが、迷いがない。


レンは火の揺らぎを見ながら、さっきの魔導具を思い出していた。


止められた。

止まるようにできていなかったから、止めた。


(……この世界は、便利だけじゃだめだ。止まらない便利は、危ない)


そしてもう一つ。

監査官の紙。

あの紙が、全てを持っていく。


(作るだけじゃ、勝てない。守る仕組みがいる)


ミアが粥を差し出した。


「ほら。熱いから、ふーふーしろ」


レンは器を受け取り、指先の震えを隠しながら息を吹きかけた。

湯気が立つ。

鼻の奥がつんとする。


「……ありがとう、ございます」


ミアは目を逸らし、ぶっきらぼうに言った。


「礼はいい。……で」


彼女は顎で指した。工房の隅。壊れた魔導ランプが積まれている。

修理待ちの品だ。


「さっきの、見たぞ。あれ、どこで覚えた」


レンは一瞬だけ迷う。

転生だと言えば、信じない。信じるなら、危ない。監査局に嗅ぎつけられる。


だから、半分だけ本当を言う。


「……壊れたものを見るのが、好きなんです。直せたら……嬉しい」


ミアが鼻で笑った。


「変なガキ」


そう言いながらも、彼女は壊れたランプを一つ、レンの前に置いた。


「じゃあ、これ。直してみろ」


レンは器を置く。

ランプを手に取る。継ぎ目を見る。封止。刻線。魔石の座。


胸が、少しだけ熱くなる。


この街で、初めて。

「やってみろ」と言われた。


外では相変わらず、鉄を叩く音が降っている。

冬は冷たい。金はない。監査局は怖い。

でも――手の中には、壊れたものがある。


レンは、壊れたランプに目を落として、静かに言った。


「……止まるように、作ります」


ミアが眉をひそめた。


「は?」


レンは顔を上げる。

十歳の顔で、大人みたいに真面目な目をして。


「便利は、止まらないと危ないから」


ミアが、ふっと笑った。ほんの一瞬だけ。


「……面倒くせえ。けど、嫌いじゃねえ」


工房の火が、赤く揺れた。


その揺れの向こうで、レンはまだ知らない。

この小さな一歩が、ギルドと貴族と商人の利権を動かすことを。

そして――この街に、テレビも冷蔵庫もないことを。


でも今は、粥が温かい。

それだけで、十分だった。



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