13.侵食する黒
起床と共に爪先を見て驚く。
「……まずいな」
両手の爪が黒化しかけている。
黒化は、瘴気が溜まった合図だ。
多少の倦怠感はあったが、そういう事か。
瘴気の許容量は人それぞれだ。耐性があれば、それだけ溜め込める。
「耐性はあったが、さすがに無理をしてたか」
ソルード大陸に落ちてきてから、生活基盤や人脈の確保と忙しい日々を過ごした。それに、思っていたよりも、瘴気の蓄積が早い。
こちらに来て、まだ十日ほどしか経っていないんだが。
「朝食を食べたら、神殿に行かないとな」
今日の朝食は、昨日狩ったファングボアの肉を挟んだパンとスープだ。
アナベルがこの肉を好きだというから、ついついファングボアを狩ってしまう。たまには、違う肉の方が良いのだろうか。
パンに浅くかぶりつく。
適度に霜が乗る肉といくつかの野菜。手製のあっさりしたソースと抜群に相性がいい。
向かいのテーブルに座る二人組の冒険者も、至福の顔で朝食を食べている。
今日は彼らも休息日らしい。
アナベルが厨房から出てきて、各テーブルの水を足す。
「今日は神殿に行くから、肉は店で買ってくれ」
「浄化ですか?」
「ああ、爪の黒化が始まった」
ほら、と見せると、アナベルは思案顔で言う。
「井戸の浄化水では追いつかなかったんですね。ちゃんとお昼の水飲んでますか?」
「昼に汲んだ水を部屋には置いているが。まあ、吸ってる瘴気の方が多いんだろ」
「そうですが……。もし良ければ、ランとレイも一緒に神殿へ連れて行ってもらえませんか? 月水瓶が残り少なくて」
月水瓶は小範囲の浄化ができる、濃縮聖水だ。
皿を運んでいた双子が、テーブルに近づいてくる。呼ばれたと思ったようだ。
「それは構わないが、どれほど浄化に時間がかかるかわからんぞ」
「大丈夫です。黒化までしたらどれだけ面倒か、二人に見せてあげたいんです」
「……参ったな。俺は反面教師か」
「こうならないように、きちんとお昼のお水を飲むのよ」
双子にそう諭すようにアナベルは言った。
勉強の機会を逃さない母親だ。
「シガー、爪真っ黒ー! ソルさまのお使い!」
「シガー、お昼のお水飲んでないの? 魔物になる?」
双子の言葉に思案する。
――ソル
太陽神ソルの事だ。
創造と理性を司る神。魔素と瘴気を生む存在。
元いたミレナリアでは、魔力の源と資源を生む太陽神ソルは主神だった。
このソルードでは、月神セラフィの名はよく耳にしたが、ソルの名を聞くのはこれが初めてだ。
どうやら、主流の神は違うらしい。
朝食を食べ終え、双子と共に神殿へ向かう。
「ラン、レイ。ソルは悪い神か?」
「んんー、怖い! 魔物生むもん!」
「でも、ランも魔物食べてるよ?」
「えー、だってシガーの爪黒くなっちゃったし」
「それはセラフィさまのお水、飲まなかったからでしょ?」
「じゃあ、シガーが悪い!」
「そうかも」
双子の言い合いは、俺が悪者となって終わった。
どうやら、住人はソルには畏怖を。セラフィには親しみと敬愛を抱いているようだ。
そんな話をしながらしばらく歩くと、街の中心にある神殿に到着した。
白を基調とした、厳かで意匠の少ない神殿だ。街の神殿としては、些か大きく思う。
神殿に続く道には白砂が撒かれている。
白砂に一歩足を踏み込むと、僅かに沈み跡が残る。
歩みを進めると、双子の足跡は少しも残らない事に気づく。
体重の差ではない。
「なぜ、お前たちの足跡は残らないんだ?」
「シガーは魔物になるから!」
「シガーは瘴気が多いから」
二重の返事に、ようやく腑に落ちた。
この砂で瘴気を測るのか。
かなり仕様が異なる神殿に、勉強しているのはこちらだな、と苦笑いが浮かぶ。
神殿に入ると、侍祭が問診と触診を行う。
「神殿は初めてなんだ。お布施はどの程度いる?」
「進度三ですので、司祭が浄化を行います。皆様は、銀貨一枚ほどを納められます」
「お布施はわかった。で、その進度ってやつはなんだ?」
侍祭は一瞬きょとん、とした顔をしたがすぐに戻す。
「余程、セラフィ様のご加護を受けた地で過ごされたのでしょう。羨ましい限りです。進度とは予兆を五段階に分けたものです。一、二までは体調不良や悪夢など。三は角質、粘膜の黒化。四は衝動の激化、耳鳴り。五は意識混濁、他害です」
「ああ、よくわかった。ありがとな」
「お辛くはなかったのですか?普通でしたら神殿に駆け込むほどですよ」
「ただの疲れだと思ってたんだ」
実際に、初期症状は風邪と似ている。
お布施は多めに払う。こういうのは、先払いしておくと後に効く。
「これから浄化室にご案内しますが、お子様方はどうされますか?」
「この子たちは見学だ。いいか?」
「ええ、もちろん。いいお父様ですね」
侍祭は微笑ましいものでも見るように、後半は双子に向けて言った。
「シガーはお父さまじゃなーい」
「ボクたちにお父さんはいないって、お母さん言ってた」
「侍祭、そんな顔で見るな。ただ預かってるだけだ」
「え、ええ、すみません。ではご案内します」
案内された部屋は、飾り気一つない代わりに、床は白砂で埋まっている。
中には司祭が一人と補佐の神官が一人。
机の上には聖水と月水瓶が置いてある。
「だいぶ溜めているね。進度三と聞いたが本当かい?」
司祭が白砂に残った足跡を見て、案内した侍祭に尋ねた。
「はい、問診と触診からそう判断しました。感情の激化や、耳鳴りはないと言う事なので」
「……そうか、では始めよう」
聖水を使っての浄化は初めてだ。
聖水を全身に振りかけられると、僅かに身体を刺すような冷感を感じた。
聖水は肌に触れると、空気が抜けるような音を出して蒸発していく。
月水瓶も同じように使うが、冷感は先ほどよりもはっきりと感じ、爪の縁がきしむ。
「やはり、聖水だけでは浄化しきれないね」
司祭は手を組み、祝詞を捧げ始める。
途端に、部屋を清涼で柔らかな風が抜けた。
――月の名において、影は離れ、息は澄む
この身に絡む黒をほぐし
爪の先より髄の底まで澄ませたまえ
一息に影を離し、二息に水を受け、三息に光を宿す
息は巡り、理は輪となる
爪下の黒が薄墨、灰へと抜けていく。
肺の拍動に同期して、少しずつ指先の冷えと痺れがなくなる。呼吸もしやすくなってきた。
祝詞を終えると、疲れた顔をした司祭が椅子に腰掛ける。
「すまない、座らせてもらうよ。もう魔力が空っぽだ。……次に“進度三”で来たら、司教様に回すからね」
「肝に銘じとく」
むしろ、司祭で浄化しきれたのが驚いた。聖水で多少の瘴気は落とせたのだろう。
ミレナリアでは、定期的な浄化は司祭が。黒化まで進むと司教か、運が悪いと大司教に回されていた。当然、お布施はそれなりだ。
「……シガー、もう魔物にならない?」
「ああ、ならない。心配かけたな」
黒が抜けた両手を、二つの頭に乗せる。
二人とも、初めて見る黒化に不安だったのだろう。
司祭に礼を告げ、侍祭に月水瓶を頼む。
部屋を出ると外廊下の先に、服装が明らかに違う神官たちが歩いている。
白色の軍服にも見える服だ。黒い手袋がよく目立つ。
侍祭は俺の視線に気づいたのか、彼らについて話す。
「彼らは太陽神殿の信徒です。見ての通り、軍務や危険な魔導具の管理を担っています」
「なるほどな。月神殿の役割は浄化と運営ってとこか?」
「ご明察です。主に上水の管理などは月神殿で執り行っています。太陽神殿は迷宮の調査にも行きますので、いずれ関わり合いになるでしょう」
ランが言っていた、“ソルの使い”というのは太陽神殿の信徒だったって事か。
侍祭から月水瓶を受け取り、外に向かう。
「楽しかったか?」
「司祭さまがお願いしてる時、すごいきれいだった!」
「どうやって黒いのなくなったの?」
二人の性格が分かれる返答だ。
「あれは、セラフィに魔力をあげて、代わりに願いを叶えてもらうんだ。まあ、金と一緒だ」
レイに答えて気づく。
神官は浄化を使えた。
ではなぜ、外に作用する魔法が扱えないのか。
この地は魔導具で溢れている。
ミレナリアでは魔導具は造るものだ。だが、ここは違う。迷宮から“生まれる”。
この世界の魔導具は、まるで魔法を失った者の杖だ。
歩けないから杖をつく。
あるいは、杖が先にあって、歩き方を手放した。
いや、世界の道理など人が理解できる訳もないか。それに、歴史的に魔法が廃された可能性もある。
どうやら、神殿に来たからか、考えが感化されたようだ。
「なんか買って帰るか?」
「おやつー!」
「お肉がいい」
今は、この二人を家に届けるまでが俺の仕事だ。
「あれ、シガーの足跡残ってるよ」
「ん? まあ、そういう事もあるさ」




