蜃気楼
あっちい、あっちい、暑くていけねえ。
最近の夏といったら、暑すぎていけねえんだ。外なんて歩いてちゃいられねえ。さっさとどっか涼めるとこに入んねえと、茹だってたまらずおっ死んじまう。
こんな日に外に出てる奴らは全員莫迦だ。間抜けだ。そりゃ俺にも刺さるってんで口には出さねえが、普通こんな日は外に出ねえ。あいつも随分と頭がおかしいんだ。何が祭りだ、のぼせた奴らが莫迦やってるだけだろうが。
人間ってのはどうにも騒ぎが好きらしい。俺ぁ、まったくもって好まねえ、毎年この時期は特に騒がしくてたまらねえ。家の方まで聞こえてきやがる。一里も離れてやがんのに、まるで隣で騒いでるみてえだ。今日だってそうだ、この日も傾かねえうちから五月蠅くてたまったもんじゃねえ。
どうせ五月蠅えならってんであいつは誘ってきやがったが、どっちも五月蠅えなら家に居た方が幾分かましじゃねえか。あの野郎、俺が外に出ねえからって舐め腐った誘い文句だしやがって。
外の何がいけねえって、休む場所がねえ。どこも埋まっちまってる。座れる場所なんてありゃしねえ。こんなことならあいつの申し出なんて断って、家で麦酒でも飲んでりゃ良かった。
汗まみれだ。体中から噴き出してやがる。祭りなんて行くような日じゃねえ。
やってられるか、あいつには悪いが……って、おいおい。茶店が空いてんじゃねえか。たまらねえ、ちょっとばかし寄らせてもらおう。
ふー、ああ、涼しいもんだ。随分と風が通ってやがる。気持ちの好いこった。まさかこの時世に空いてる店があるなんてなあ。
にしたって埋まってなさすぎやしねえか。入口の時点で驚いちまった。爺の店主は気づいちゃいなかったが、俺も随分な顔をしてただろう。
だがまあ、幸いなのはそうだろう。おかげか随分と涼しいからな。本も置いてやがる。一冊とって読んでみるか、ああいや、注文が先だな。あんまし飲んだこたぁねえが、珈琲を一杯貰うか。
ああ、随分美味い。
俺みたいな貧乏人からすりゃ、茶店の珈琲なんてのは高すぎる。味だけじゃなく値段まで適当なのかと怒鳴り散らしたくなるもんだが、この店は違え。
こんだけ美味けりゃ六〇〇円くらい出してやってもいいだろうよ。
それにしても、一杯飲んで落ち着いたが、どうにも違和感がする。
俺以外の客が居ねえ。俺ぁ、茶店なんぞ滅多に入んねえが、一席も埋まってねえなんてことあんのか。不気味だ、ああいけねえ、少し寒気もしてきやがった。
一度不気味に見えたらどんなもんもおっかねえ。本棚へと立ち寄ったが、置いてある本だってなんだか題が不気味なもんばかりでぇ。あんどろがなんだ、電気の羊だ、知ったこっちゃねえが、知らねえからか、その分不気味に感じちまう。
何が一番って、爺の近くに置いてある楽器だ。ありゃなんだ、小汚ねえ。随分とぼろぼろじゃねえか。俺ぁ、楽器なんざ嗜まねえが見りゃわかる。ありゃ古い。古いってのはそれだけで不気味だ。
涼しいはずだったんだがな、急に寒くなっちまった。夕になったからか?
違え、違え。不気味だからだ。それなのに外の暑さはぶっ飛んでやがるから、なんだか眩暈までしてきちまう。あいつも今日はもう来ねえんじゃねえか?
帰っちまうか。あいつには悪いけどな。
「おい」
なんだ、声が聞こえらあ。この寂れた空席だらけの店ん中で声をかけてくるってえのは、大体店主しか居ねえが、声の届くとこには居やしねえ。
「こっちを向け、こっちだ」
随分と荒っぽい声だ。手前、誰に向かって口聞いてんだ、姿見せてから威張りやがれ。
「こっちだってんだ、阿呆が」
こっちだこっちって言うが、って、手前なんだその姿は!
「やっと向きやがった、この阿呆助が」
誰が阿呆だ、馬鹿にしやがって。そんなちっこい背格好で台の上に乗ってる手前の方が、よっぽど阿呆らしいだろうが。
それより答えやがれ。その姿、気色悪いったらありゃしねえ。そこらの羽虫か、それとも怪物なのか?
「おれはアノマロカリスってんだ。聞いたことぐらいあんだろ」
ああ、聞いたことぐらいある。だが、見たこちゃねえ。
そんなに異様な見た目をしてんのか。ほとんど虫じゃねえか、その口、その翅みてえな横っ腹の付属品、おまけに身体の節から尾っぽまでうねうねしてやがる。世には妖怪ってもんがいると聞くが、手前がそうなのか。
「だれが妖怪だ。おれはただの古生物だってんだ。莫迦にしやがって」
いや、莫迦にはしちゃいねえよ。ただこの不気味さん中に、台の上で手前みてえな妙ちくりんが居たんじゃ、妖怪だなんだって思っちまうのもしょうがねえ。それで手前、此処で何してんだい。
「何してるって、手前がおれを見てんだろうが。でなきゃおれは此処に居ねえ」
見てるってなんだ、俺が手前を見てるから手前が出てきたってのか?
だったらなんで声をかけてきた。手前、俺に声なんぞかけなきゃよかったじゃねえか。
「手前が帰ろうとしたからだろうが。分かってんだろうよ、祭りに行かなきゃならねえ」
ああ、だから今から向かうところだ。窓の外見てみろ、莫迦どもが挙って海の方に向かってやがる。学校帰りの学生に、暇そうな恋仲、珍しいもんで言やぁ、浴衣の外国人まで。先刻まで店ん中で暑さをしのいでたくせに、どいつもこいつも暇なもんだ。街一番の祭りと言ったって、ちんけな祭りだのに、こいつら騒ぎてえだけの莫迦たちはそこかしこに群がってやがる。
「文句ばっかだな」
こんだけ暑けりゃ文句も言いたくなるだろうが。手前だってあれを阿呆だと思うだろう。
「おれは手前だ。思わんわけがない」
俺が手前って、どういうこったい。
「そのまんまだ。おれは本来居ねえからよ、此処に居るっつうのは手前が見てるからだっつったろう。熱に浮かされた幻覚だ、手前はアノマロカリスを知らねえ、だというのにおれは此処にこの姿だ。何の為かは知らねえが、手前がそう見てるんなら、そうなんだろうよ」
何言ってんだい、手前。俺ぁ、手前がアノマロカリスだってことは知らなかったじゃねえか。
「アノマロカリスって名も最近知ったろう。出不精な手前が外の話に精通してるはずがねえ。あいつに聞かされた言葉を適当に想像してんだろうよ」
てことはなんだ、手前は俺の妄想だってのか?
妄想にしちゃ出来すぎだ、其処に居るじゃねえか。
「随分熱に浮かされてんだな。茶店に避暑しやがったってのに」
まあいいか、どうだっていい。俺はもう出ちまおう。手前は此処に置いて行こう。
「おい、どこ行くってんだ。もう帰んのか」
んなわきゃねえ。外に出てあいつを待つ以外にねえだろうよ。
「ずいぶん急だな。あんだけ文句だけだったってのに、手前は頭までいったか」
失礼な奴だね、手前って奴は。俺が店ん中に居たんじゃあ、あいつは分かんねえだろうが。
「そんな能弁たれちゃいけねえよ。手前、そう言って祭りに向かおうとしてやがる。なんだって急に気持ちを切り替えやがって、手前の方がずっと不気味だ」
手前は俺だろう。なら考えりゃ分かるさ。
「いやあ、ちっとも分かんねえよ。考えたって分からねえ、先刻までずっとねちねち言ってた奴がどうしたって、手前は、なぜ帰らねえんだ」
分かんねえなら教えてやる。そりゃあ俺も洩れなく莫迦野郎だったってことだ。