5話 届かぬLINE #待ってるのに
◇ 梨花、欠席
──今日こそ、告白する。
目が覚めた瞬間、僕はまた、そう心に決めた。
昨日、何度も何度も繰り返し誓った。
逃げない。ちゃんと伝えるんだ、と。
鏡の前でネクタイを締め、髪を整える。
ベルトも一穴きつく締め、自分に言い聞かせる。
(よし、大丈夫。今日こそ)
登校の足取りは軽かった。
いつも通りの朝。ざわめく廊下。
教室に入ると、笑い声が飛び交っていた。
──でも、梨花の席が空いていた。
(……え?)
出席番号が呼ばれる。
「二十三番、梨花」──返事がない。
「えー、今日は梨花が体調不良でお休みだそうだ。明日には来るらしいぞ」
「みんな、夏は受験に重要な季節だ。体調に気をつけろよー」
先生の軽い声が、教室の空気に溶けて消えた。
(体調不良……)
胃の奥が、きゅっと縮まる。
(まさか……昨日の涙、やっぱり俺のせいじゃ……)
決意は、静かに砂のように崩れていった。
鼻の奥がツンとして、鉄みたいな匂いがした。
それは血でも涙でもなく、
"何かが壊れた"とき、身体が覚える匂いだった。
(……嫌われたのか?)
(脚を開いた、と思ったのは……俺の思い込みだった?)
(図書館のことも、全部、俺だけが舞い上がってたのか……)
自意識過剰。思い上がり。
彼女の優しさを、性的に誤解しただけの、最低な男。
胸がチクッとして、目の奥がじんわり熱を帯びる。
涙は出ない。代わりに、視界がゆっくりと、輝きを失っていく。
燃え尽きた灰のように、僕は、灰色の世界に取り残された。
いつの間にか、ノートにペンを走らせていた。
英語の長文、数学の計算、理科の公式。
書いて、書いて、考えて、解いた。
目の前の"解ける問題"だけに没頭した。
(……とにかく、勉強しよう)
(受験が近い。時間を無駄にしてる場合じゃない)
(梨花も……勉強できる人が好きって、言ってた)
問題を解くたびに、「前に進んでる」と思えた。
呼吸が整っていくのが分かった。
少しずつ、頭が冴えて、心の曇りが晴れていった──ような気がした。
(そうだよ…勉強していたから、梨花と一緒にいられたんじゃないか)
夕方は、塾の自習室で過ごした。
静かな空間で、筆記の音だけが響いた。
ノートが1冊、びっしりと文字で埋まった。
達成感。充実感。
ページの隅に、梨花の名前を書く必要は、もうなかった。
でも──
本当は、梨花に会いたかった。
◇「静脈の森」
夕立のあとの図書館で、
君の髪が光を編んでいた。
教科書に沈む睫毛の影が、
小川のせせらぎのようだった。
指先で髪をかき上げる風が、
僕の心の水面をそっと揺らせた。
触れたいと思ったわけじゃない。
君がいる、ただ、それだけで──
魂の輪郭は、静かに崩れていった。
森はざわめき、山が沈黙する。
朝の光が闇を洗い流すように、
君は、それよりも眩しかった。
熱く、柔らかく、まっすぐで。
だから僕は、祈るように、君に触れた。
──ふと、あの時間を思い出す。
梨花の柔らかい猫毛の髪が、
君の真剣な眼差しの中で揺れていた。
僕は何も言わず、ただ、隣に座っていた──
あのとき、すべてが、もう始まっていたんだ。
◇ 風呂掃除
翌日も、梨花は来なかった。
「梨花は……しばらくお休みだそうだ。風邪とのことだ」
「みんな、長引く夏風邪は受験に響くぞー。体調には気をつけるように」
担任の何気ない言葉が、耳にやけに大きく響いた。
(しばらく……って、いつまで?)
背中にじっとり汗が滲む。
けれどすぐ、胸の奥に奇妙な安堵が広がった。
(……俺のせいじゃない。ただの風邪だ。ちゃんと、また会える)
でも――――
"ちゃんと"って、なんだ?
"会う"って、そのとき、俺は何をするつもりだったんだ?
自問は続きは、チャイムの音にかき消された。
◇
放課後。
僕はまっすぐ塾へ向かった。
……いや、逃げるように、だったかもしれない。
「今の僕には、やるべきことがある」
「彼女が戻ってきたとき、僕が勉強を教えてあげるんだ」
そう何度も、つぶやいた。
机に向かう。
梨花が隣にいた日の記憶が、背中を押す。
「この問題ムズくない?」と笑った声。
「仕方ないな」なんて気取って答えた時間。
「えー難しい」って言いながら、僕のノートを覗いた彼女。
そのとき、ふわっと髪の匂いが鼻をくすぐった──
甘くて、夏の風みたいな匂いだった。
(気まずさなんて、すぐに無くなる。大丈夫)
――ポキン。
「はーーー……」
シャーペンの芯が折れただけ。
……なのに、ため息はやけに深かった。
転がった芯の欠片を、指先ではじく。
消しゴムまで飛ばしてしまったけど、拾うのも、めんどうだった。
(ちゃんと戻れる)
(……俺が、頑張れば)
◇
ガチャンと玄関を開ける。
「ただいまー」
「ご飯できてるわよー」
母さんの澄ました声が返ってきた。
風呂場の方からは、ゴシゴシという音が響いている。
父さんが、風呂掃除をしている音だ。
(はーーー、また、喧嘩でもしたのかな……)
そう思いながら、部屋着に着替え、食卓についた。
食卓には、誰の声もなかった。
僕は、箸が茶碗を叩く音に背を向けるように、夕食を手早く済ませた。
机に向かって、1ページ、また1ページ。
ノートは真っ黒に埋まっていく。
(勉強してれば、大丈夫)
(あの時間が……全部、嘘だったなんてことはない)
(きっと梨花も、「やっぱり、ゆーきってすごいね」って……)
LINEも送ってない。
声もかけていない。
でも、ちゃんと理由がある。その分、頑張ってる。
父さんが風呂掃除をしていたみたいに。
母さんと喧嘩したあとは、父さんは黙ってカビをこする。
あれが、父さんの、言葉じゃない謝り方だった。
「……それが、男ってやつさ」
「俺も、一歩一歩、進んでる」
(梨花、分かってくれるよね?戻ってきたら…また、笑ってくれるよね?)
ノートの端に、小さく「梨花」と書いた。
それは、願いのようで、誓いのようで…小さな宝物の様だった。
僕は、それが、ただの逃げであることを…分かっていなかった。
◇ 止まった時計
7月15日 金曜日
梨花は休んだ。まだ風邪で寝込んでるという話だった。
体調不良──よくある話だ。
クラスの誰もが「週明けには来るさ」と言って笑っていた。
7月18日 月曜日 海の日で休み。
7月19日 火曜日
梨花の席はまだ空いていた。
(ちょっと長いな……でも、夏風邪って長引くっていうしな…)
僕はノートを広げて、数IIの問題に集中するふりをした。
7月20日 水曜日
朝の会。
黒板の端に「夏休みまであと3日」と書かれた。
出席番号が呼ばれる。
「二十三番、梨花──」
「おーい、梨花のヤツ、もう夏休みなんじゃないか?」
担任の軽い言葉が教室の笑い声にかき消される。
でも、僕の耳には鈍い金属音みたいに刺さった。
冷えた血が、頭から全身にサー――っと降りてきたようだった。
(こんなに……長引くもんか?)
(まさか……梨花、このまま……)
授業中、教科書を開いていても、ページをめくっても、
内容が目に入らない、脳裏には常に梨花の涙が浮かんでいた。
だけど、ノートにはペンを走らせた。
「ちゃんとやってる自分」を演出しないと、怖くて壊れそうだった。
(LINE……送るか?)
何度もスマホを開いては、
彼女のアイコンを見て、閉じる。
書きかけては消す。
「大丈夫?」──軽すぎる。
「待ってるよ」──重すぎる。
「……会いたい」──怖すぎる。
(既読、つかなかったらどうする?)
(……無視されたら……終わりじゃないか)
(もしかして──俺、もう……嫌われてる?)
7月21日 木曜日
時計だけが進んでいく。
僕は毎日勉強して、毎日、梨花の名前をノートの端に書いた。
それを、誰にも見られないように指でこすって消した。
(俺は……何も間違ってない)
(ちゃんと頑張ってる。勉強もしてる)
(梨花が戻ってきたら、ちゃんと話せるようにしてる)
(……できることはしてる)
──そう、自分に言い聞かせた。
言い聞かせながら、心のどこかで「それじゃダメだ」って声がしてた。
でも、動けなかった。
指は震えてた。
心は叫んでた。
それでも、「送信」ボタンは押せなかった。
7月22日 金曜日
梨花は来なかった。
──そして、夏休みに入った。
学校の窓はすっかり閉ざされ、
教室のざわめきは消え、
梨花の席は、そのまま空白になった。
僕は塾に通い詰めた。
夏期講習を真面目に受けた。
朝起きてから夜寝るまで文字通り一日中勉強に打ち込んだ。
単語帳は4周した。
数学の問題集は2冊潰した。
模試の判定はCからAに上がった。
でも、心の奥には、ずっと、
あの"未送信のLINE"が残っていた。
「ラインッ!」
通知が鳴るたび、
名前を見る前に、期待してしまう。
スタンプでもいい、誤送信でもいい。
彼女の声じゃなくてもいい。
ただ、彼女から、何かが届いていてほしかった。
けれど、梨花からの連絡は一度もなかった。
一通でも来たら、全部、楽になれたのに。
僕はグループラインをミュートにした。
(どうして、俺は……送らなかったんだろう)
それは、夏が終わりに近づいても、
押されないままの「送信」ボタン。
僕は、"動かないこと"で、自分を守った。
でもそのせいで、彼女の心に、何一つ触れることはできなかった。
ひとつだけ、確かなことがあった。
動かないことは、間違いなく、罪だった。
努力していれば、きっともう一度会えるよね…
◇ 届かない画面の向こうに
(ねぇ……ゆーき……)
その名前を口に出すことはできなかった。
スマホの画面を、ただ、何度も何度も開いては閉じる。
通知が来ていないことは知ってる。
でも、確認せずにはいられなかった。
既読から、8日。
未読から、6日。
あの日から、ゆーきに届かない。
それがどうでもいいメッセージだったら、
こんなにも執着しなかった。
でも──彼からのLINEは、一通も来なかった。
(なんで、なんで、なんで……送ってくれないの……?)
(あのとき、ウチ……ゆーきの手が、嬉しかったのに……)
(でも、怖かったのに……でも……でも……)
涙が滲む。
指先が、ディスプレイをじわっと濡らす。
スマホを顔に押しつけて、布団に潜り込む。
部屋は暗い。
時計の音だけが、規則正しく響いていた。
(誰かに話せたらよかったのに……)
でも、誰にも言えなかった。
「ウチ、あの子のことが好きなんだよね」なんて。
「図書館で、触られたんだよね」なんて。
「でも、嬉しかったんだよね」なんて。
──そんなの、絶対に言えない。
だって、ウチは、明るくて、ポジティブで、
「悩みなさそう〜!」って笑って言われる側の人間だから。
最初はただの体調不良だと思った。
でも、数日学校を離れただけで怖くなった。
もうみんなの前で笑えないと思った。
こんな私、好きになってもらえないと思った。
みんなのLINEは毎日うるさいくらい鳴ってる。
「昨日のドラマ見た?」
「マジでうけたw」
「誰かカラオケ行こ〜!」
だけどウチは、返事もできない。
笑えない。
食べれない。
起き上がれない。
(ウチ、どうすればよかったの?)
ふと、自分の指先を見つめる。
あの日、彼の手が触れた場所。
スカートの奥。
リボンの下。
震えた脚。
止めなかったのは──それが、嬉しかったから。
(……ゆーき……ウチ、どうすればいいの?)
何度も書いて、何度も消した。
「助けて」って言葉は、画面に載せるにはあまりに惨めすぎた。
"助けて"なんて言ったら、それはウチがギャルじゃないって認めることになるから。
ギャルは、泣かない。
ギャルは、甘えない。
ギャルは、群れの中心にいる。
だけど、今、泣いているこの子は、
「ウチ」じゃない。
「私」だ。
(ほんとは……ずっと、誰かに甘えたかった)
いつの間にか、「ウチ」っていうキャラがあまりにもしっくりきすぎてしまって。
それを口に出す勇気なんてなかった。
壁に貼られたプリクラ。
あのときの笑顔は、もう偽物にしか見えない。
「ウチってポジティブ〜!」なんて言ってた自分が、
今はスマホすらまともに持てないことが、
おかしくて、悔しくて、悲しくて──惨めだった。
画面の中には、ただ一つの名前がある。
"ゆーき"。
その名前に指を伸ばすたび、
「ピン留め」じゃなくて、その下にある
「削除」の方に吸い込まれそうになって、怖かった。
(お願い……気づいてよ……私……こんなに、待ってるのに……)
次回 #梨花の落ちる日
#5話から純文学
https://x.com/YondeHoshino/bio