4話 仮面のギャル #夢でイった
◇ 身体が本音を超えるの夜
部屋の電気を消すのに、今日は少しだけ時間がかかった。
カチッとスイッチを押したあと、
残った明るさが徐々に消えていくのを、梨花は目を開けたまま見ていた。
暗闇に包まれたあと、壁の影がじわじわと濃くなっていく。
カーテンは閉じられ、スマホの画面は伏せてある。
音も光も匂いも──ぜんぶ、消した。
そうしなければ、さっきまで頭のなかでぐるぐるしていた"あの感触"が、
また蘇ってきそうだったから。
(……もう、考えない……)
布団をかぶった。
毛布の端を指先でぎゅっと握った。
触れてほしい、って思った自分も。
声をかけてほしかった、って願った自分も。
(……ウチ、なんであんな気持ちになったんだろ)
今日の下駄箱の前。
ただ立っていただけ。
その姿が、あまりにも「都合のいい女の子」みたいで──
あとから思い出すだけで恥ずかしくて、泣きたくなった。
(バカみたい。ほんとに……)
スカートの奥で、まだうっすらと残っている"感触"。
それを思い出すだけで、脚の奥がひとりで反応する気がした。
でも、そんな身体に従いたくなかった。
(もう、違う……ウチ、そういう子じゃない……)
目をぎゅっと閉じる。
何も見えないように、何も思い出さないように。
頭の中が白くなるまで、呼吸を止めた。
──「女の子」でいたい。
まだ、「普通の女の子」でいたい。
恋とか、キスとか、その先のこととか、
全部"まだ知らない"ままで、いられるうちは。
梨花は、膝を曲げて体を小さく丸めた。
誰かに見られたら「怖がってるみたい」と思われるその姿勢が、
今夜の彼女には、唯一の安心だった。
冷たい枕に頬を押しつけながら、
梨花は、眠るように──現実から逃げようとしていた。
◇
夢だった。
でもそれは、現実よりずっとリアルだった。
ゆーきがいた。
誰もいない放課後の図書室。
カーテンの隙間から夕陽が差し込み、埃が金色に舞っていた。
彼は何も言わなかった。
ただ、梨花の手を取って、静かに引き寄せた。
指先がスカートの裾に触れる。
そのとき、身体の奥がビクリと跳ねた。
(あ……)
声は出なかった。
でも、彼の手が脚の間に滑り込んでくると、
梨花は抵抗するどころか、自分から脚を開いてしまっていた。
夢の中なのに、
彼の指の温度まで、はっきりわかった。
その指が、自分の"いちばん"に触れたとき──
(……っあ……)
震えた。
そこに彼の指があるというだけで、
全身の力が抜け、
心臓の音が耳を破り、
膝の力が抜けて、身体が前に崩れ落ちそうになった。
触れられているだけなのに、
ただそれだけで、頭が真っ白になって、
「嬉しい」も「恥ずかしい」も「こわい」も──
全部が混ざって、思考がぷつんと切れた。
(もう、これ以上は、だめ……)
そう思った瞬間、熱が全身にふわっと広がった。
暖かい波が押し寄せてきて身体を包み込んだ。
気持ちのいい不思議な感覚に全身を委ねていると、
じんじんとした熱の波が、脚の奥に、集まってきた。
(あっ…なにっ…だめっ…だめ…っ……)
──次の瞬間。
「っ……!」
梨花は、びくりと跳ねて目を覚ました。
暗闇。汗ばんだTシャツ。呼吸は浅く、荒い。
脚の奥が、じんじんと熱を持っていた。
(……夢……?)
身体の真ん中が、まだ彼の手の形を記憶していた。
現実にはないはずの指先の温もりが、
スカートの中、肌の奥、骨の下にまで沁みこんでいる気がした。
「……なんで……」
声が震えた。
涙がひと筋、頬を伝う。
(夢なのに……ウチ……あんな……)
知らなかった自分がいた。
触れられることを、こんなにも"求めてた"なんて。
でも、それがあまりにもリアルで、怖いくらいに気持ちよかった。
「……戻れない……もう……」
目をぎゅっと閉じても、
身体の奥で、女の本能が蠢いていた。
(ウチ、知らなかったふりなんて……できない)
誰にも言えない。
夢の中でも自分から脚を開いたことなんて。
夢なのにイっちゃったなんて。
さっきの夢が"本当の自分"だったなんて…
「……ゆーき……」
ただ名前を呼んで、梨花はまた一人で泣いた。
泣きながら、思った。
(こんな私でも、好きになってくれるの……)
その夜、梨花は布団の中で小さく丸まり、
自分の身体がもう"ただの女の子"ではないと知ってしまった痛みに、
ただ黙って耐えた。
どうして、こんなに欲しくなるのに、怖いの……?
◇ ギャルの仮面
──てか、マジで今日、終わってる。
なにこれ。朝から頭ん中ぐちゃぐちゃ。
ウチ、たしかにギャルだよ?
スカート短くて、髪巻いてて、ちょっと肌も出してて、
「モテそう〜」「軽そう〜」って言われるの慣れてるし、
まぁ、だいたい合ってるって思ってるけど。
でも、昨日の夜の夢──
あれは、マジでヤバかった。
現実よりリアルで……夢でイッたとか…
ウチ、自分がこんな女だったとか……知らなかったし。
(ウチの体って、こんなに簡単に壊れるの……?)
制服のシャツを着た瞬間から、
身体の奥にまだ熱持ってるのがわかった。
歩くたび、スカートの奥が疼く。
股ずれでもした?ってくらい、敏感。
──いや、ちがう。彼の指の感触がまだ残ってるんだよ、そこに。
「梨花ちゃ〜ん、聞いてんの?」
「え、なになに〜?マジやば〜」
(中身は聞いてない。てか、聞けない。身体の声で手一杯)
笑う。合わせる。
そういうの、慣れてるし得意なはずだった。
でも今日は、笑顔の裏でずっと泣きそうだった。
「梨花って悩みなさそうでほんと羨まし〜」
「その明るさ分けてよ〜もてる女は違うよね〜」
「ねー、ゆーきくんとか梨花のこと好きそうじゃない?」
──刺さった。
心の奥に、ナイフぶっ刺された。
(悩み、ない? ……マジで、ふざけんな)
ウチ、
毎晩一人で、布団の中で何考えてると思ってんの。
ゆーきのこと、思い出すだけで身体が勝手に疼いて、
"もう戻れない"って泣いて──
でも、学校来たら、「悩みなさそう」?
(あ〜もう、ムリ。マジで無理)
笑ってるのに、
気づいたら涙がスッて落ちてた。
まぶたに滲んで、視界がちょっとだけぼやけた。
それでも、声は明るくて、笑い方も変わってないはずだった。
──そのとき、
教室の隅から、視線を感じた。
ゆーき。
(……やっと見た?ウチのこと)
でも、その視線もすぐに逸れた。
何もなかったみたいに、彼はまた目を伏せた。
(……ああ、そういうことなんだ)
"あの夜"は──やっぱり、ウチだけだったんだ。
勝手に盛り上がって、勝手に脚開いて、勝手に1人でイッちゃッてたんだ──ウチだけ。
(ウチ、マジで、ひとりで……女になっちゃったんだ)
声にならない嗚咽が、喉の奥にせり上がった。
でも、泣き顔は見せたくなかった。
ギャルのウチが、泣くとか、キャラ崩壊だし。
だから、笑ってた。
でも涙は止まんなかった。
わかる?この最悪な感じ。
(ねぇ……誰か、気づいてよ……)
──梨花は、ギャルの仮面を貼り付けたまま、
笑いながら泣いていた。
身体が、女になってしまったことを誰にも言えず、
それでもその事実だけが、確実に、熱を持って生きていた。
◇ 決意の次の日
──朝の光は、今日も真夏らしく白く照りつけていた。
アスファルトの熱気が、家の中にまで入り込んでくるようだった。
だけど、僕は胸の奥に昨晩の決意を静かに固めていた。
このままじゃ終われない。梨花に、ちゃんと向き合うんだと。
気持ちを伝えよう、そう心に決めた。
(……今日こそは、声をかける)
ネクタイのノットを整え、髪を直し、
鏡に映る自分を見て「……よし」と小さく呟いた。
いつもより少しだけ早く家を出た。
──けれど、教室の入口をくぐった瞬間
その決意は、ゆっくりと夏の陽炎のように揺らいでいった。
見慣れた教室。いつもどおりのざわめき。
そして、黒板の前で友達と笑う梨花。
(……なんで……いつも通り笑ってんだよ)
そんな気持ちが、喉の奥でつっかえる。
僕の足は教室の隅へと流され、
席についてからは、ただノートを開いたふりをして下を向いた。
(……どうやって二人になればいいんだ……)
思い返せば、いつも梨花から声をかけてくれていた。
梨花が勉強教えてっていうから一緒にいることができた…
僕から梨花にどうやって声を掛ければいいのか分からなかった。
(楽しそうにしている梨花を呼び出したら嫌がられるんじゃ…)
何度か、梨花の方を見ようとした。
でも、目が合ってしまったらどうしよう。
彼女が"いつも通り"に接してきたらどうしよう。
(僕が気持ちを伝えることが梨花にとっては迷惑になるんじゃ…)
それよりなにより、彼女が"何も覚えてなかったら"どうしよう──
梨花は何も気にしてないかもしれない…ごめんって謝ったじゃないか…
そんな考えばかりが頭を支配していく。
(……このままウジウジしているだけでいいのか?)
自分を叱るようにペンを握る。
でも、そのペンはページの上で空回りしていた。
(…梨花があれから声をかけてこないことが答えだろ…)
僕は取り返しのつかないことをしてしまったんだ…
僕と梨花の関係は終わったんだ…
──気がつけば、昼休み。
午後の授業。
放課後のチャイム。
夏の光はまだ強く、
教室の床に落ちる影は短かった。
(……今日も、なにもできなかった…)
(……いや、また暴走する前に気が付けてよかったじゃないか……)
それでも、せめて"梨花の表情"だけは確認したくて──
帰りのホームルームの終わり、
ふと視線を教室の中央に向けた。
そのときだった。
梨花が、笑っていた。
でも、その頬をすっと、ひとすじの涙が伝っていた。
誰も気づいていない。
友達と喋りながら、梨花はそれを笑顔のまま拭っていた。
(……え?)
心臓が一拍、止まった気がした。
何が起きたのかも、彼女が何を感じていたのかも、何もわからない。
でも──その涙は、明らかにまだ何も終わっていないことを彼に告げていた。
──それでも、声はかけられなかった。
昇降口。下駄箱。
まだ高い位置にある太陽が、ガラス越しにまぶしかった。
彼は黙って靴を履き替え、誰とも言葉を交わさずに帰る道すがら、
ただ、梨花の涙の記憶を、何度も繰り返し思い出していた。
◇ 決意の夜2
なんてことをしてしまったんだ、と思った。
帰り道、電車の窓に映る自分の顔が、やけに薄っぺらく見えた。
梨花は泣いていた。
笑っていたのに、涙を流していた。
誰にも気づかれないように、自然に、するっと。
でも僕は見てしまった。たまたま、ほんの偶然。
あの涙は──あれは、悲しい涙だったんじゃないか?
……いや、違うかもしれない。
笑いながら涙を流すことだって、普通にある。
嬉しいときだって涙は出る。
それに、僕と目を合わせなかった。今日、一度も。
(……どうして、梨花から声をかけてくれなかったんだ)
あんなに友達がいて、
明るくて、クラスの真ん中で笑っているのに、
もし、僕のことを少しでも思っていてくれていたなら、
──何か言ってくれたっていいじゃないか。
誰かを通してでも、少しでも。
(……でも、何もなかった)
僕が勝手に期待していただけだ。
あの夜の、触れた記憶。
梨花の脚が、ほんの少し開かれたこと。
あの沈黙の中に「許し」があった気がしたこと。
全部──僕の願望だったんじゃないか?
(自意識過剰すぎるんだよ、俺は)
「俺は誰かに好かれてるかもしれない」
そんな期待で生きてきた。
"好かれてないと、存在できない"ってくらい、
臆病で、自己愛が強すぎる。
(いいだろうもう…いい思い出にしよう…)
僕は取り返しのつかないことをしてしまったんだ…
僕と梨花の関係は終わったんだ…
(……受験勉強しろよ、俺)
英単語帳を開く。
ページが白紙に見える。
文字が、音にならない。
(……だめだ)
息が浅い。喉が乾いて、涙がにじんでいる。
梨花の匂いが、鼻の奥に戻ってきた。
図書館で、すぐ隣にいたあのとき。
香水じゃない。肌の生の匂い。生きた体温の匂い。
(……ダメだ…梨花…好きだ…)
ベッドに沈み込む。
制服のまま、ベルトだけを外して。
目を閉じると、彼女のスカートの奥が見えた。
あの熱。あの沈黙。
触れた指先が、いま、もう一度彼女のリボンに触れる。
(梨花……)
声が漏れる。
腹の上に熱が広がる。
身体がびくりと震えて、指先が空を握りしめる。
──でも、その直後。
胸の奥に、ぽっかりと空いている穴に気が付いた。
あの脳が甘く痺れるような感覚はなかった。
代わりに、心に空いた穴に鈍く燃える青い火が灯ったような、
自分の身を焦がす暗い悦びがそこにはあった。
(むなしい……)
(会いたいよ……梨花)
(触れたいんじゃない、求められたいんだ、俺は)
(誰かに、必要だって言われたい)
息が詰まりそうになって、毛布に顔を押しつけた。
(……明日、ちゃんとする)
(逃げない。今度こそ、梨花に──)
でも、次に目を覚ましたとき、
その「明日」がすでにすれ違いの始まりだったことを、
僕はまだ知らなかった。
次回 #ピン留めの下の削除
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