3話 わたしの脚 #女になった
◇鏡と、脚と、制服と
朝。
目が覚めると、まぶたの裏にまだ熱が残っていた。
寝汗の名残がシーツに染みていて、肌がしっとりしている。
枕元には、微かに自分のシャンプーと汗がまざった匂いが残っていて、
それすらも、どこか甘やかに感じられた。
あの夜のことは、夢じゃなかった。
それは今も、この胸の奥に、じっとりと脈打っている。
梨花はゆっくりと身体を起こし、机の前に立つ。
鏡に映った自分の顔が、妙に他人のように見えた。
まつ毛の影が少し濃く見えて、肌の色も、目の奥も──
昨日までとは、どこか違っていた。
(……ほんとに、ウチ?)
指先でそっと頬に触れる。
やわらかい。いつもと同じ。
でも、そのやわらかさに──昨日まではなかった“意味”が宿っていた。
(女の子って、こういうことなんだ……)
身体の奥に残っている熱を、自分の目が知っている。
誰にも教えられなかった、でも、もう知ってしまった感覚。
制服のスカートを手に取った瞬間、
布地から立ち上る柔軟剤の匂いに、自分の肌の熱がまざって感じられた。
梨花はそのまま脚を通す。
太ももに布が触れた瞬間、小さく息を飲む。
(……ゆーきの、手……)
昨日、触れられた場所。
机の下で、指先がそっと置かれた"そこ"。
今、スカートの下にあるこの脚が、自分にとって違うものに感じられた。
(ウチの脚……昨日までは、ただの脚だったのに)
今日は違う。
この脚で歩くたびに、あの記憶が揺れる気がする。
スカートの裾が風で揺れただけで、昨日の熱が蘇る。
階段を降りるたび、太ももを撫でる空気が、
なぜか昨日よりも温かく、敏感に感じてしまった。
(……バカみたい、ウチ)
でも、それがたまらなく“誇らしい”気がしていた。
誰にも知られない秘密が、自分の中にある。
その秘密を隠しながら学校へ行くこと。
そのこと自体が、
どこかで“ちょっとだけ大人になった”ような気がしていた。
靴を履く手が、いつもより慎重になる。
制服のリボンを直す指が、なぜか震える。
扉の前で一瞬立ち止まり、
鏡に映った自分に「行ってきます」と声をかける。
玄関を出た瞬間、足音がコツンと響いた。
その音が、自分の中の“何かが変わったこと”を誰かに伝えるみたいで、
妙に、胸が高鳴った。
朝の光が、やけに眩しく感じた。
夏の空気は蒸し暑いはずなのに、妙に澄んでいて、どこかすがすがしかった。
──この脚で歩く今日は、もう昨日とは違う。
そのことを、スカートの奥で彼女は確かに知っていた。
◇「歩く、わたしの脚で」
わたしの脚は、
今日、昨日と違う脚。
太ももに触れた風が、
ゆーきの指を思い出させる。
その熱が、身体じゅうにのぼって──
首筋、髪の根元まで、
わたしの全部が、
ゆっくり、変わっていく。
鏡の中のわたしは、
ほんの少し、違って見えた。
まつ毛の影、唇のかたち。
靴音がコツンと鳴って、
世界に「わたしが変わった」って
知らせてるみたい。
鼓動がひとつ、早くなる。
風のいたずらで、秘密が揺れる。
音もなく、変わってしまった。
朝の光が、
やけにまぶしい。
朝露に光る蜘蛛の糸、
それをまたぐように歩いていく。
でも──誰にも言わない。
この気持ちは、わたしだけのもの。
扉を開けた、その瞬間。
わたしは、知っていた。
この脚で歩く今日が、
もう、昨日とは違うことを。
◇ 朝の登校
7月の朝。
セミの声が、まだ寝ぼけた空に刺さっていた。
校門の鉄柵は日差しに焼かれ、じりじりと音がするほど熱かった。
けれど、梨花の指先には──なぜかひんやりとした熱が残っていた。
昨夜、触れられた場所から、心だけがまだ帰ってこない。
制服のスカートが湿った風に揺れるたび、
太ももの奥に“記憶”がさざ波のように立ち上がる。
(……落ち着け、ウチ。普通にして)
でも、普通になんてできなかった。
だって──今、前から彼が歩いてきていたから。
ゆーき。
いつもと同じ制服。
いつもと同じ無造作な髪。
いつもと同じ表情で廊下を歩いていた。
でも、梨花にはわかった。
彼の目の奥も、肌の中も、きっと──あの日の続きを持っていた。
数メートルの距離。
間を縫うように、クラスメイトの笑い声が横を抜ける。
でも、ふたりの視界には誰も入ってこなかった。
そして──目が合った。
まっすぐだった。
よけなかった。
そらさなかった。
でも、言葉は──なかった。
梨花の胸が一度だけ、強く脈を打った。
彼の瞳に、問いがあった。
「昨日のこと、どう思ってる?」
「怒ってない?」
「ごめんじゃなくて、ほんとは──」
ほんの一瞬、唇を噛んだ気がした。
それだけだった。
梨花は、笑わなかった。
でも、目をそらさなかった。
その一秒が、永遠だった。
そして──ふたりは、すれ違った。
何も起きなかった──ように見えた。
けれど、彼の手のひらと、彼女の太ももには、
まだあのときの熱がうっすらと残っていた。
◇ 言葉にならない思い
授業中。
教科書を開いたまま、ペンを持った手は止まっていた。
視線は、ページではなく、窓の外に向いていた。
真っ青な空。
蝉の声が、鳴き止むことなく頭の奥を叩いてくる。
太陽は容赦なく降り注ぎ、カーテン越しの日差しすら、
じりじりと肌を焼くように暑苦しかった。
けれど、その暑さとは裏腹に、
胸の中だけは、どこか"凍ったまま"だった。
僕はノートの端にペンを走らせた。
文章というより、走り書きのような、言葉のかけら。
ペン先が、ページの端を傷つけるように走っては止まる。
《ごめん──じゃなくて、違う》
何度も書いては消した。
触れたことは、軽いものじゃない。
でも、それを“ごめん”にしてしまったら、
その熱も、震えも、すべてがなかったことになってしまう気がした。
(好きだったら許されるわけではない…)
(でも、好きじゃなかったら──こんなに苦しくならない…)
頭の中で問いが巡る。
どれも違う。全部が、足りない。
(何か、違うんだ……)
消しゴムのカスと、
黒くグルグルと塗りつぶしたページが重なっていく。
どの言葉も、彼女の前に出すには足りなかった。
──何も言えない。彼女に近づこうとすればするほど、
なぜか、遠ざけてしまう。
(声をかけられれば……偶然でもいい、ぶつかったりしてくれれば……)
空想の中では、何度も再会していた。
校舎の廊下で、階段で、下駄箱の前で。
でも現実は、そんな都合よくできていない。
午後の授業も終わり、日が傾き始めた。
昇降口に向かうその先──
下駄箱の列を越えた場所に、梨花の姿が見えた。
制服のスカートが、少し揺れた。
いつものように、どこか笑っているような表情。
でも、ほんの少しだけ歩調が遅かった気がした。
ゆーきは、その後ろ姿をじっと見ていた。
ただ、それだけしかできなかった。
声をかけようとした唇が、わずかに開いて、すぐに閉じた。
名前を呼ぶことすら、彼にはできなかった。
(……ダメだな、俺)
彼女の背中が、校門の向こうに溶けていく。
ふたりの距離は、今日一日、まったく変わらなかった。
蝉の声だけが、取り残されたように鳴いていた。
──何も起きなかった。
でも、何も起きないことが、こんなにも苦しいなんて。
彼は、そうやって初めて知った。
◇「本を伏せた午後」
午後の光は、ページに溶けていた。
小さな町の図書館、陽だまりの窓辺。
静かに本を伏せた。読み終えたわけじゃない。
ただ、その言葉たちが、胸で震えたから。
この続きを、今の僕では受け止めきれない。
そんな感覚がある。
手を止め、眼を閉じる。
遠くで歩く誰かの足音。
ページをめくる音。
時計の針の小さな跳ね。
──そして、沈黙。
音が少ない場所では、心の声がよく聴こえるから。
この静寂に惹かれて、ここまで来てしまう。
誰とも話さないまま、
午後の光と、あの静けさと一緒に、
その気持ちは、ゆっくりと胸の底に沈んでいった。
そんなある日の午後。
◇ 決意の夜
梨花のことは、ずっと見ているだけだった。
いつもクラスの真ん中にいて、はじける笑顔が素敵だった。
遠くから見ているだけで、それで満足だった。
たまに「おっはよー」って笑いかけてくれるだけで、うれしかった。
僕は「おっ」ってしか言えなかったけど──それだけで、心が揺れた。
この前、クラスでテストが一番だったとき。
梨花が言ったんだ。「勉強教えてよ」って。あのはじける笑顔で。
……でも、あのときの目。
笑ってるのに、刺すように真っ直ぐで。
僕は動けなくなった。あの目は、僕のなかに差し込んできた。
僕は口下手だった…梨花と話したこともほとんどなかった…
男友達はそれなりにいたけど…女子と話すことなんて、ほとんどなかった。
だから、僕は、梨花と話すことができた回数を毎週数えていたんだ…
今度は、僕から伝えなきゃいけないのに──
部屋の天井が、やけに遠く感じた。
蛍光灯を消したあとの薄暗さは、普段なら落ち着くはずなのに、今夜はただ、呼吸を詰まらせる。
(……ダメだったな、今日…)
帰り道。昇降口。校門の前。
何度も彼女とすれ違った。でも、結局、言葉はひとつも出なかった。
「梨花」
たったそれだけが言えなかった。
(こんなことで、なにが"触れた"だよ……)
あのとき、彼女の脚に触れた自分を思い出す。
ただの衝動じゃなかった。けど、あれがすべてだと思いたくなかった。
あの図書館で、彼女の隣に座っていたとき。
梨花は、小指で耳からこぼれた髪をかきあげて、
ペンを持ったまま、また人差し指のネイルの先で頭をかいて、
ほんの一瞬、考え事をして上を向いて、
ペンを顎に当てながら、口をすぼめて、遠くを見ていた。
その顔が、好きだった。たまらなかった。
真剣な目。薄く色づいた唇。汗で少し貼りついた髪。
静かな図書館のなかで、
彼女のまわりだけが、なんだかあたたかい匂いで包まれている気がして。
恋とか、欲望とか、そういう言葉で片付けたくなかった。
「かわいい」とか「好き」とかよりも、もっと──
ただ、抱きしめたかった…
ほんとうは、その先に「ちゃんと伝える」が必要だったのに。
──でも、今日の自分はその「伝える」から逃げた。
彼女の沈黙に甘えて、責任を放棄した。
(ウジウジしてんじゃねぇよ……)
机に置いていたシャーペンを思わず強く握った。
手紙も書けなかった。
何かが足りなかった。
勇気も、言葉も、すべてが足りない。
でも、
足りないからこそ、今夜こそ──埋めたいと思った。
ゆっくりと、ベッドに体を倒す。
静かな夜。
でも、彼の中では、
あのときの"熱"がまた、じわじわと膨らんできていた。
(梨花……)
彼女の名前を心のなかで呼ぶたびに、
制服のスカートの奥に触れた記憶が、手のひらの中に戻ってくる。
彼女の脚が、ほんのわずかに開いたときのあの感触。
触れてはいけない場所に、
彼女が何も言わず、それでも拒まなかった"沈黙"。
(あれ……夢じゃないよな)
妄想と記憶の境界が曖昧になっていく。
今夜、改めて気づく──
自分がどれほど「梨花を欲していたか」。
触れたいだけじゃない。伝えたいだけじゃない。
"結びつきたい"と思っている自分に。
(梨花にちゃんと伝えよう……)
彼はそっと目を閉じた。
右手が布団の中で何かを探るように動き、
想像のなかの彼女が、彼の名を呼んでくれた気がした。
「……ゆーき……」
その声が、彼の体を包んでいく。
誰にも見られない夜の中、
彼はもうひとつの"接触"を、頭の中で何度も繰り返した。
──そして、いつの間にか眠っていた。
Tシャツは上がり、ズボンも下着も降ろしたまま。
布団もかけずに、無防備なまま、夢の中へ沈んでいった。
◇ 笑顔の仮面
──今日のスカートは、少しだけ短めにした。
ピンクのネイルにハートの髪留め、いつものギャル仕様。
教室に入ると、女子たちが「梨花のネイル、めっちゃ可愛い!」「このハート、どこで買ったの?」と声をかけてくる。
男子の視線も、ちらっと刺さる。いつものこと。ウチは、"そういう女の子"として日々を生きてる。
「梨花ちゃんって、絶対ライブ映えするよね。いつも元気で羨ましい!」
「梨花、今日はエロかわメイクじゃね!?」
冗談っぽく笑って、話を合わせる。でも、ほんとは──
(ウチ、誰とも付き合ったことないんだよね)
クラスの中心で笑ってるのに、
本当の自分なんて、誰にも見せられない。
悩みなんて持ってないふりをして、空気を読んで、
共感して、でも、心はずっとひとりぼっち。
(ねえ、ゆーき……)
あの日、図書館の冷たい空気の中で、あなたの指が触れたとき、初めて「女の脚」を持ったって思った。
スカートの奥、ゆーきのゴツゴツした優しい指の熱が、ウチを「女」にしてくれた。
誰よりも先に目覚めた気がして、誇らしかった。だから、自信があったんだ。
(でも、今日、すれ違ったとき──ウチの中の"女の子"が顔を上げた)
ちょっとだけ目が合った瞬間、心臓が跳ねた。自信なんて消えた。
あの夜、「求められた」と思った感覚が、もしウチの気の迷いだったら?
触れられたから、勝手に脚を開いてしまったのも、ウチがおかしかっただけ?
(ひとりで盛り上がってたのかも)
授業中、ノートを開いても頭に入らない。
友達に話を合わせて笑っていても、目の奥だけが冷たいまま。
(誰にも言えないよ、こんなこと……)
「ゆーきの指が嬉しかった」なんて。
「脚を開いた自分が誇らしかった」なんて。
誰にも、絶対に相談できない。
(ねぇ、ゆーき──ウチ、待ってていいんだよね……?)
放課後、靴箱の前で、なんでもないふりして立ってた。
ピンクのネイルでスマホをいじるふり。
でも、画面はロック画面のまま。
ゆーきの優しい指を信じたかった。あの熱が、ウチをちゃんと見てくれると願った。
五分。十分。チャイムが三度鳴る。
(……もう、来ないかな……)
制服の袖をギュッと引っ張って、指が震えた。そっと校門へ歩き出す。
太ももを撫でる風が、ゆーきの指を思い出させる。秘密が、音もなく揺れる。
(歩いていっちゃっても……ゆーき、追いかけてきてくれるよね……?)
来ない。何も起きない。
光は真上から降り注ぎ、影は足元にしか落ちない。
(ゆーきの影──探しちゃってる自分が、一番ダサい)
雲一つない空。校庭の端では、蝉が喧しく鳴いていた。
(ねぇ、まってていいんだよね……?)
◇「日向の柴」
歩道の隅に、いつもの柴犬がいた。
赤い首輪にリードがつながれて、背中を丸めて、日陰の中で身を溶かしている。
夏毛なのに、首元の毛並みふわりと膨らんでいる。
「おっ、お前、また会ったな。お前のご主人様見たことないぞ?」
そう声をかけると、むくっと起きて、犬の目がじっと彼を見つめる。
吠えもせず、ただ、尻尾をぶんぶん振って、そこにいる。
「お前は分かりやすくていいな…」
ゆーきはしゃがみ込み、全身をむしゃむしゃむしゃっとなで回す。
「ほーれほれ、ここがいいのかー?ほれ~ここがいいんか~ほれほれ~」
犬と目が合ったとき、梨花のあの時の視線を思いだした…
あの図書館で、ウチを「欲しい」と言った彼女の目。
動けなかった自分を、ただ受け止めてくれるような、あの目。
そして今日、すれ違ったときも、あの目をしていた…
「……おはようって、言えばよかったんだろうな……」
(いや、言えるわけないか……結局、何も話すことができないんだ……)
「人間にも、お前みたいに尻尾があったらよかったのにな……」
「梨花も、お前みたいにぶんぶん尻尾を振ってくれるかな……」
柴犬はたまらなくなったのか、すぐに腹を上に向けて寝っ転がった。
「ふふ。犬なら簡単に仲良くなれるのにな……」
今日も柴犬と仲良くなれた。
それだけで、今日という日が、一つだけ、意味を持った気がした。
──たった一匹としか話してなくても。
次回 #夢でしか会えない
#5話から純文学
https://x.com/YondeHoshino/bio
この柴犬の短編もありますので、よかったら見てね。
https://ncode.syosetu.com/n4679kp/