表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/19

3話 わたしの脚 #女になった

◇鏡と、脚と、制服と



朝。

目が覚めると、まぶたの裏にまだ熱が残っていた。

寝汗の名残がシーツに染みていて、肌がしっとりしている。

枕元には、微かに自分のシャンプーと汗がまざった匂いが残っていて、

それすらも、どこか甘やかに感じられた。


あの夜のことは、夢じゃなかった。

それは今も、この胸の奥に、じっとりと脈打っている。


梨花はゆっくりと身体を起こし、机の前に立つ。

鏡に映った自分の顔が、妙に他人のように見えた。

まつ毛の影が少し濃く見えて、肌の色も、目の奥も──

昨日までとは、どこか違っていた。


(……ほんとに、ウチ?)


指先でそっと頬に触れる。

やわらかい。いつもと同じ。

でも、そのやわらかさに──昨日まではなかった“意味”が宿っていた。


(女の子って、こういうことなんだ……)


身体の奥に残っている熱を、自分の目が知っている。

誰にも教えられなかった、でも、もう知ってしまった感覚。


制服のスカートを手に取った瞬間、

布地から立ち上る柔軟剤の匂いに、自分の肌の熱がまざって感じられた。


梨花はそのまま脚を通す。

太ももに布が触れた瞬間、小さく息を飲む。


(……ゆーきの、手……)


昨日、触れられた場所。

机の下で、指先がそっと置かれた"そこ"。

今、スカートの下にあるこの脚が、自分にとって違うものに感じられた。


(ウチの脚……昨日までは、ただの脚だったのに)


今日は違う。

この脚で歩くたびに、あの記憶が揺れる気がする。

スカートの裾が風で揺れただけで、昨日の熱が蘇る。


階段を降りるたび、太ももを撫でる空気が、

なぜか昨日よりも温かく、敏感に感じてしまった。


(……バカみたい、ウチ)


でも、それがたまらなく“誇らしい”気がしていた。

誰にも知られない秘密が、自分の中にある。

その秘密を隠しながら学校へ行くこと。

そのこと自体が、

どこかで“ちょっとだけ大人になった”ような気がしていた。


靴を履く手が、いつもより慎重になる。

制服のリボンを直す指が、なぜか震える。

扉の前で一瞬立ち止まり、

鏡に映った自分に「行ってきます」と声をかける。


玄関を出た瞬間、足音がコツンと響いた。

その音が、自分の中の“何かが変わったこと”を誰かに伝えるみたいで、

妙に、胸が高鳴った。


朝の光が、やけに眩しく感じた。

夏の空気は蒸し暑いはずなのに、妙に澄んでいて、どこかすがすがしかった。


──この脚で歩く今日は、もう昨日とは違う。

そのことを、スカートの奥で彼女は確かに知っていた。



◇「歩く、わたしの脚で」


わたしの脚は、

今日、昨日と違う脚。


太ももに触れた風が、

ゆーきの指を思い出させる。


その熱が、身体じゅうにのぼって──

首筋、髪の根元まで、

わたしの全部が、

ゆっくり、変わっていく。


鏡の中のわたしは、

ほんの少し、違って見えた。

まつ毛の影、唇のかたち。


靴音がコツンと鳴って、

世界に「わたしが変わった」って

知らせてるみたい。


鼓動がひとつ、早くなる。

風のいたずらで、秘密が揺れる。

音もなく、変わってしまった。


朝の光が、

やけにまぶしい。


朝露に光る蜘蛛の糸、

それをまたぐように歩いていく。


でも──誰にも言わない。

この気持ちは、わたしだけのもの。


扉を開けた、その瞬間。

わたしは、知っていた。


この脚で歩く今日が、

もう、昨日とは違うことを。



◇ 朝の登校



7月の朝。

セミの声が、まだ寝ぼけた空に刺さっていた。

校門の鉄柵は日差しに焼かれ、じりじりと音がするほど熱かった。

けれど、梨花の指先には──なぜかひんやりとした熱が残っていた。

昨夜、触れられた場所から、心だけがまだ帰ってこない。


制服のスカートが湿った風に揺れるたび、

太ももの奥に“記憶”がさざ波のように立ち上がる。


(……落ち着け、ウチ。普通にして)


でも、普通になんてできなかった。

だって──今、前から彼が歩いてきていたから。


ゆーき。


いつもと同じ制服。

いつもと同じ無造作な髪。

いつもと同じ表情で廊下を歩いていた。


でも、梨花にはわかった。

彼の目の奥も、肌の中も、きっと──あの日の続きを持っていた。


数メートルの距離。

間を縫うように、クラスメイトの笑い声が横を抜ける。

でも、ふたりの視界には誰も入ってこなかった。


そして──目が合った。


まっすぐだった。

よけなかった。

そらさなかった。

でも、言葉は──なかった。


梨花の胸が一度だけ、強く脈を打った。


彼の瞳に、問いがあった。

「昨日のこと、どう思ってる?」

「怒ってない?」

「ごめんじゃなくて、ほんとは──」


ほんの一瞬、唇を噛んだ気がした。

それだけだった。


梨花は、笑わなかった。

でも、目をそらさなかった。


その一秒が、永遠だった。


そして──ふたりは、すれ違った。


何も起きなかった──ように見えた。

けれど、彼の手のひらと、彼女の太ももには、

まだあのときの熱がうっすらと残っていた。



◇ 言葉にならない思い



授業中。

教科書を開いたまま、ペンを持った手は止まっていた。

視線は、ページではなく、窓の外に向いていた。


真っ青な空。

蝉の声が、鳴き止むことなく頭の奥を叩いてくる。

太陽は容赦なく降り注ぎ、カーテン越しの日差しすら、

じりじりと肌を焼くように暑苦しかった。


けれど、その暑さとは裏腹に、

胸の中だけは、どこか"凍ったまま"だった。


僕はノートの端にペンを走らせた。

文章というより、走り書きのような、言葉のかけら。

ペン先が、ページの端を傷つけるように走っては止まる。


《ごめん──じゃなくて、違う》


何度も書いては消した。

触れたことは、軽いものじゃない。

でも、それを“ごめん”にしてしまったら、

その熱も、震えも、すべてがなかったことになってしまう気がした。


(好きだったら許されるわけではない…)

(でも、好きじゃなかったら──こんなに苦しくならない…)


頭の中で問いが巡る。

どれも違う。全部が、足りない。


(何か、違うんだ……)


消しゴムのカスと、

黒くグルグルと塗りつぶしたページが重なっていく。

どの言葉も、彼女の前に出すには足りなかった。


──何も言えない。彼女に近づこうとすればするほど、

なぜか、遠ざけてしまう。


(声をかけられれば……偶然でもいい、ぶつかったりしてくれれば……)


空想の中では、何度も再会していた。

校舎の廊下で、階段で、下駄箱の前で。

でも現実は、そんな都合よくできていない。


午後の授業も終わり、日が傾き始めた。

昇降口に向かうその先──

下駄箱の列を越えた場所に、梨花の姿が見えた。


制服のスカートが、少し揺れた。

いつものように、どこか笑っているような表情。

でも、ほんの少しだけ歩調が遅かった気がした。


ゆーきは、その後ろ姿をじっと見ていた。

ただ、それだけしかできなかった。


声をかけようとした唇が、わずかに開いて、すぐに閉じた。

名前を呼ぶことすら、彼にはできなかった。


(……ダメだな、俺)


彼女の背中が、校門の向こうに溶けていく。

ふたりの距離は、今日一日、まったく変わらなかった。

蝉の声だけが、取り残されたように鳴いていた。


──何も起きなかった。

でも、何も起きないことが、こんなにも苦しいなんて。

彼は、そうやって初めて知った。



◇「本を伏せた午後」


午後の光は、ページに溶けていた。

小さな町の図書館、陽だまりの窓辺。


静かに本を伏せた。読み終えたわけじゃない。

ただ、その言葉たちが、胸で震えたから。

この続きを、今の僕では受け止めきれない。

そんな感覚がある。


手を止め、眼を閉じる。

遠くで歩く誰かの足音。

ページをめくる音。

時計の針の小さな跳ね。

──そして、沈黙。


音が少ない場所では、心の声がよく聴こえるから。

この静寂に惹かれて、ここまで来てしまう。


誰とも話さないまま、

午後の光と、あの静けさと一緒に、

その気持ちは、ゆっくりと胸の底に沈んでいった。


そんなある日の午後。



◇ 決意の夜



梨花のことは、ずっと見ているだけだった。

いつもクラスの真ん中にいて、はじける笑顔が素敵だった。

遠くから見ているだけで、それで満足だった。


たまに「おっはよー」って笑いかけてくれるだけで、うれしかった。

僕は「おっ」ってしか言えなかったけど──それだけで、心が揺れた。


この前、クラスでテストが一番だったとき。

梨花が言ったんだ。「勉強教えてよ」って。あのはじける笑顔で。


……でも、あのときの目。

笑ってるのに、刺すように真っ直ぐで。

僕は動けなくなった。あの目は、僕のなかに差し込んできた。


僕は口下手だった…梨花と話したこともほとんどなかった…

男友達はそれなりにいたけど…女子と話すことなんて、ほとんどなかった。

だから、僕は、梨花と話すことができた回数を毎週数えていたんだ…


今度は、僕から伝えなきゃいけないのに──


部屋の天井が、やけに遠く感じた。

蛍光灯を消したあとの薄暗さは、普段なら落ち着くはずなのに、今夜はただ、呼吸を詰まらせる。


(……ダメだったな、今日…)


帰り道。昇降口。校門の前。

何度も彼女とすれ違った。でも、結局、言葉はひとつも出なかった。


「梨花」

たったそれだけが言えなかった。


(こんなことで、なにが"触れた"だよ……)


あのとき、彼女の脚に触れた自分を思い出す。

ただの衝動じゃなかった。けど、あれがすべてだと思いたくなかった。


あの図書館で、彼女の隣に座っていたとき。

梨花は、小指で耳からこぼれた髪をかきあげて、

ペンを持ったまま、また人差し指のネイルの先で頭をかいて、

ほんの一瞬、考え事をして上を向いて、

ペンを顎に当てながら、口をすぼめて、遠くを見ていた。


その顔が、好きだった。たまらなかった。

真剣な目。薄く色づいた唇。汗で少し貼りついた髪。


静かな図書館のなかで、

彼女のまわりだけが、なんだかあたたかい匂いで包まれている気がして。


恋とか、欲望とか、そういう言葉で片付けたくなかった。

「かわいい」とか「好き」とかよりも、もっと──


ただ、抱きしめたかった…


ほんとうは、その先に「ちゃんと伝える」が必要だったのに。

──でも、今日の自分はその「伝える」から逃げた。

彼女の沈黙に甘えて、責任を放棄した。


(ウジウジしてんじゃねぇよ……)


机に置いていたシャーペンを思わず強く握った。

手紙も書けなかった。

何かが足りなかった。

勇気も、言葉も、すべてが足りない。


でも、

足りないからこそ、今夜こそ──埋めたいと思った。


ゆっくりと、ベッドに体を倒す。

静かな夜。

でも、彼の中では、

あのときの"熱"がまた、じわじわと膨らんできていた。


(梨花……)


彼女の名前を心のなかで呼ぶたびに、

制服のスカートの奥に触れた記憶が、手のひらの中に戻ってくる。


彼女の脚が、ほんのわずかに開いたときのあの感触。

触れてはいけない場所に、

彼女が何も言わず、それでも拒まなかった"沈黙"。


(あれ……夢じゃないよな)


妄想と記憶の境界が曖昧になっていく。

今夜、改めて気づく──


自分がどれほど「梨花を欲していたか」。

触れたいだけじゃない。伝えたいだけじゃない。

"結びつきたい"と思っている自分に。


(梨花にちゃんと伝えよう……)


彼はそっと目を閉じた。

右手が布団の中で何かを探るように動き、

想像のなかの彼女が、彼の名を呼んでくれた気がした。


「……ゆーき……」


その声が、彼の体を包んでいく。

誰にも見られない夜の中、

彼はもうひとつの"接触"を、頭の中で何度も繰り返した。


──そして、いつの間にか眠っていた。

Tシャツは上がり、ズボンも下着も降ろしたまま。

布団もかけずに、無防備なまま、夢の中へ沈んでいった。



◇ 笑顔の仮面



──今日のスカートは、少しだけ短めにした。

ピンクのネイルにハートの髪留め、いつものギャル仕様。


教室に入ると、女子たちが「梨花のネイル、めっちゃ可愛い!」「このハート、どこで買ったの?」と声をかけてくる。

男子の視線も、ちらっと刺さる。いつものこと。ウチは、"そういう女の子"として日々を生きてる。


「梨花ちゃんって、絶対ライブ映えするよね。いつも元気で羨ましい!」

「梨花、今日はエロかわメイクじゃね!?」


冗談っぽく笑って、話を合わせる。でも、ほんとは──


(ウチ、誰とも付き合ったことないんだよね)


クラスの中心で笑ってるのに、

本当の自分なんて、誰にも見せられない。

悩みなんて持ってないふりをして、空気を読んで、

共感して、でも、心はずっとひとりぼっち。


(ねえ、ゆーき……)


あの日、図書館の冷たい空気の中で、あなたの指が触れたとき、初めて「女の脚」を持ったって思った。

スカートの奥、ゆーきのゴツゴツした優しい指の熱が、ウチを「女」にしてくれた。

誰よりも先に目覚めた気がして、誇らしかった。だから、自信があったんだ。


(でも、今日、すれ違ったとき──ウチの中の"女の子"が顔を上げた)


ちょっとだけ目が合った瞬間、心臓が跳ねた。自信なんて消えた。

あの夜、「求められた」と思った感覚が、もしウチの気の迷いだったら?

触れられたから、勝手に脚を開いてしまったのも、ウチがおかしかっただけ?


(ひとりで盛り上がってたのかも)


授業中、ノートを開いても頭に入らない。

友達に話を合わせて笑っていても、目の奥だけが冷たいまま。


(誰にも言えないよ、こんなこと……)


「ゆーきの指が嬉しかった」なんて。

「脚を開いた自分が誇らしかった」なんて。

誰にも、絶対に相談できない。


(ねぇ、ゆーき──ウチ、待ってていいんだよね……?)


放課後、靴箱の前で、なんでもないふりして立ってた。

ピンクのネイルでスマホをいじるふり。

でも、画面はロック画面のまま。

ゆーきの優しい指を信じたかった。あの熱が、ウチをちゃんと見てくれると願った。


五分。十分。チャイムが三度鳴る。


(……もう、来ないかな……)


制服の袖をギュッと引っ張って、指が震えた。そっと校門へ歩き出す。

太ももを撫でる風が、ゆーきの指を思い出させる。秘密が、音もなく揺れる。


(歩いていっちゃっても……ゆーき、追いかけてきてくれるよね……?)


来ない。何も起きない。

光は真上から降り注ぎ、影は足元にしか落ちない。


(ゆーきの影──探しちゃってる自分が、一番ダサい)


雲一つない空。校庭の端では、蝉が喧しく鳴いていた。


(ねぇ、まってていいんだよね……?)



◇「日向の柴」


歩道の隅に、いつもの柴犬がいた。

赤い首輪にリードがつながれて、背中を丸めて、日陰の中で身を溶かしている。

夏毛なのに、首元の毛並みふわりと膨らんでいる。


「おっ、お前、また会ったな。お前のご主人様見たことないぞ?」


そう声をかけると、むくっと起きて、犬の目がじっと彼を見つめる。

吠えもせず、ただ、尻尾をぶんぶん振って、そこにいる。


「お前は分かりやすくていいな…」


ゆーきはしゃがみ込み、全身をむしゃむしゃむしゃっとなで回す。


「ほーれほれ、ここがいいのかー?ほれ~ここがいいんか~ほれほれ~」


犬と目が合ったとき、梨花のあの時の視線を思いだした…

あの図書館で、ウチを「欲しい」と言った彼女の目。

動けなかった自分を、ただ受け止めてくれるような、あの目。

そして今日、すれ違ったときも、あの目をしていた…


「……おはようって、言えばよかったんだろうな……」


(いや、言えるわけないか……結局、何も話すことができないんだ……)


「人間にも、お前みたいに尻尾があったらよかったのにな……」

「梨花も、お前みたいにぶんぶん尻尾を振ってくれるかな……」


柴犬はたまらなくなったのか、すぐに腹を上に向けて寝っ転がった。


「ふふ。犬なら簡単に仲良くなれるのにな……」


今日も柴犬と仲良くなれた。

それだけで、今日という日が、一つだけ、意味を持った気がした。

──たった一匹としか話してなくても。

次回 #夢でしか会えない


#5話から純文学

https://x.com/YondeHoshino/bio


この柴犬の短編もありますので、よかったら見てね。

https://ncode.syosetu.com/n4679kp/

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ