2話 壊れたはじまり #思い出すと止まらない
■ 2話 壊れたはじまり/衝動と目覚め
図書館のスピーカーから、閉館の音楽が流れ始めた。
気がつけば外では、夏の夕立ちの強い雨が激しく窓を叩いていた。
ゆーきは「ごめん」とだけ呟いた。
うつむいたまま、シャツが濡れるのもかまわず、走り去った。
その声が、どこに落ちたのかもわからないまま。
梨花は一人、教科書をまとめた。
建物を出る頃には、日も傾き始めていた。
もう人の気配はほとんど残っていなかった。
薄暗い廊下に差す消火栓が、不気味に壁を赤に染めていた。
◇
夜。
梨花は、ベッドに横たわっていた。
天井の照明カバーには、うっすら埃が積もっている。
白いレースのカーテン。ピンクのフレームの鏡。
ベッドの棚には小さな香水瓶とぬいぐるみ。
──でも、今の彼女にはどれも輪郭がぼやけて見える。
指先の記憶が、栞のように挟まったまま、頭から離れなかった。
(……なんで、ウチ……脚、開いたんだろ)
さっきのことが、何度もスローモーションで再生される。
胸の高鳴り、肌のざわつき、布越しの感触、
あの直に触れられた時の肌の硬さと、荒い呼吸。
足音が聞こえて、反射的に脚を閉じようとする直前、
少しだけ、逆の動きをしてしまった。まるで、他人の身体みたいに。
(ウチ……ゆーきのこと……好きなんだ)
でも、同時にこわくなった。
好きって認めたら、今のこの気持ちが全部、現実になってしまいそうで。
(あのまま、もっと奥まで手を入れられてたら、ウチ……)
考えるだけで、顔が熱くなる。
でも、もう一度あのゴツゴツした手に触れられたら──
そう想像している自分が、信じられない。
思わず、太ももがわずかに動いた。
意識していないのに、動いてしまった。
(……ごめんって言われて、ちょっとムカついた)
謝らないでほしかった。
あれは間違いなんかじゃなかった。
むしろ──ウチの方が、先にサインを出したのに。
なのに、なにも言わずに、走っていった。
まるで、全部ウチが悪かったみたいに。
(なんで……見てくれなかったの、ウチの顔……)
天井を見上げたまま、涙がこぼれた。
それは、失恋の涙じゃない。
恋にもまだなってないものを、形にしてもらえなかった悔しさだった。
──部屋のなかは、静かだった。
けれど、心の奥では、あの指先が、そっと動いていた。
◇
夜の気配は、すっかり部屋を染めていた。
屋根叩く水音が、じっとりと肌にまとわりつく。
生々しくて、どこか落ち着かない。
梨花は木製の机に肘をついて座り、髪を片側に寄せた。
パジャマの袖をたくし上げて、いつもの日記帳を開く。
薄ピンクのカバーには、子どもの頃に貼ったキラキラのシールが、
まだ剥がれずに残っていた。
ボールペンの先が、紙に触れる。
◇ 梨花の日記
◎7/11 月よう 晴れときどき嵐 マジで暑い
今日、ゆーきと図書館に行った。勉強教えてもらいに。
ていうか、行ったっていうか、行ったことが問題じゃなくて、
行ったあとのことが、ウチの中では、ずっと、終わってない。
ゆーきに、スカートの中、触られた。
最初、何が起きたかわかんなくて、息止まったし。
でも、怖いって思わなかった。
びっくりしたけど、うれしかった、かな?
って、今書いててやば。自分でなに言ってんの?って感じ。
でも、ホントなんだよ。
あのとき、机の下で、誰にも見えないところで、
マジで胸がバクバクして、わけ分かんない感じだったけど、
これは、ゆーきがウチに向けてる 気持ち って、なんか分かった。
てか、2回も触れてきたし。2回も!
最初はなにも言わないで。
でも、次は「梨花、俺。。。。。(沈黙)」とか言いかけてから!
ホントに、心臓止まるかと思った。
そのあと、手の動きが、チョーゆっくりで、ゴツゴツしてて。
でも、なんか優しくて、泣きたくなった。
で、足音が聞こえて、マジでビビった。死ぬかと思った。
でも、もっと触ってほしかったとか思ってたりして。
ウチ、最低かも。
なんで、脚、開いたんだろ。
自分でも意味わかんない。
でも、たしかに、開いてた。
それで、ゆーきが手を引っ込めて、
「ごめん」って言って走ってった。
謝んないでよ。バカ。
わかんないけど、ウチ、サイン出したじゃん。
なんで、逃げんの?
なんで、顔も見てくれなかったの?
もう、友達じゃいられないのかな。。。
◇
書き終えた瞬間、梨花はペンを握ったまま机に突っ伏した。
火照った顔、涙まではいかない熱。
胸の中では、整理のつかない感情が、ぶくぶく膨らみ続けている。
これから、どこへ向かうのか。
まだ分からない。けれど、もう元には戻れない……
◇ 伝えてしまった思い
──僕は、シャワーの音の中で、ずっと目を閉じていた。
熱い湯が肩を叩くように流れ落ちる。けれど身体の芯は、どこまでも冷たかった。
(なにを……してしまったんだ)
水滴がまぶたを伝って、顎から落ちる。
でもそれが、水なのか、汗なのか、涙なのか、分からなかった。
梨花は何も言わなかった。
怒らなかったし、拒まなかった。
でも、最後まで僕を見なかった。
だから「ごめん」と言って逃げた。
「ごめん」が正しかったのかは分からないけれど、
それ以外に言葉が見つからなかった。
(こんなこと……汚い)
自分のしたことが恐ろしかった。
僕の中にあったのは、"触れたい"っていう単純な衝動じゃなかった。
もっと深くて、重たくて、取り返しのつかないものだった。
──なのに。
「なんで……あのとき、脚を……開いたんだよ」
ずっと、頭から離れない。
梨花の脚が、ほんの少し、手を迎え入れるように開かれた。
偶然じゃない。
確かに開いた……と思う。
(……嫌じゃ、なかったのか……?)
シャワーの音の奥で、鼓動だけがやけにうるさい。
考えれば考えるほど、頭が思考の沼に沈んでいく。
彼女が何も言わなかったのは、僕を受け入れてくれたからか、
それとも――その先を考えるのが、怖かった。
身体の奥に残る疼き。
それは、梨花に反応してしまった自分の"生々しさ"だった。
太ももに直に触れていた手のひらが、まだ熱い。
指先が、彼女の肌を──スカートの奥を──覚えている。
(ごめん、じゃなかった……けど……)
梨花の横顔が、眩しくて……気が付いたら、触れてしまっていた。
涙を浮かべたあの横顔。思い出すたびに、胸が、ちくりと痛い。
言いかけた言葉。喉の奥で凍ったままの告白。
もし、それを言えていたら、世界は変わっていたのかもしれない。
──僕は、タオルを頭にかぶせたまま、バスルームの床に座り込んだ。
自分の身体のなかにある、言葉を探して。
好きって言われたら、どうすればいいんだ……
◇
部屋の明かりを落としても、目を閉じても、
遠くから眺めていた、梨花のはじけるような笑顔が頭から離れない。
そして、今日の真剣な表情。
ノートを見つめながら、唇をわずかに噛み、
まつげの影を落としたあの横顔──
綺麗だった。息が止まるほどに。
脳内で、何度も繰り返す。
図書館のテーブルの下。
スカートの裾がわずか揺れて、彼女の膝がわずかに震えたとき──
自分の指先を、拒まずに、そっと受け入れてくれた。
言葉にならないけど、確かにあった。
"あの小さな返事"──僕だけが知ってる、たった一度の応答。
(なんで……あんなこと……)
気づいたとき、手は自然と下腹部へ向かっていた。
罪悪感と快楽の境界を、指先でなぞるように。
妄想が、現実よりもずっと熱を持って、膨らんでいく。
──図書館じゃなかったら。
──誰も来なかったら。
──あのとき、彼女が、ほんの少しでも声を出してくれていたら──
「梨花……」
声に出すと、胸の奥がビクついた。
空気の変わる。
あの鎖骨のくぼみに沈んでいった汗の粒、
あの肌の匂いが、想像の中で満ちていく。
閉じられた脚が、ゆっくりと
──幻のように、開いていく。
そんな幻の動作を脳内で再現するうちに、
頭の芯が痺れ、視界が白くにじんだ。
──白く、静かな頂点。
息を詰めたまま、その一線を越えた。
梨花の名前を喉の奥で噛み殺して。
(ごめん……)
深く、息を吐く。
それは、ただの欲望じゃない。
"再確認したい"という焦りに近かった。
あれは──ほんとうだったのか。
梨花は、あのとき、僕を……拒まなかったのか。
枕に顔をうずめる。
音を立てないように。
何も、考えないように。
──こんな僕が、彼女を幸せにできるわけがない……
◇ 眠れぬ夜
──深夜、部屋は静かだった。
カーテンの隙間から漏れる街灯の明かりが、壁紙を淡く照らしている。
窓の外から聞こえていた雨音も止んで、ただ、時計の針の音だけが響いていた。
梨花は、ベッドに横になったまま──目を閉じずに、天井を見つめていた。
(……やっぱり、まだ……眠れない)
シャツの胸元を軽く引き寄せる。
肌に触れる布の感触が、妙に鮮明だった。
身体に残ったリボンの記憶に、体温が勝手に反応してしまう。
(ゆーき、あのとき……なんで触れたの)
名前を呼んだあと、どうして──
何も言ってくれなかったの。
ちゃんと「好き」って言ってくれたら、ウチ……
もっとちゃんと、覚悟、できたのに。
(でも……謝ったんだよね、最後)
その「ごめん」が、ずっと胸に引っかかってる。
後悔してたのかな。失敗だって思ったのかな。
ウチのこと、汚しちゃったって……そう思ったのかな。
でも、ウチは──
(あのとき、ちゃんと脚、ひらいちゃったよ)
スカートの奥に触れられたとき。
一瞬、びっくりした。けど、それだけじゃなかった。
なんでだろう、すごく──安心した。
気持ちよかったわけじゃない。
すごく"優しい"って思った。
(触れてくれたの、嬉しかった)
そう思った瞬間、顔がまた熱くなる。
枕に頬をうずめて、目をぎゅっと閉じた。
(手を離したのは、怖くなった……から?)
ゆーき、ほんとはどうしたかったんだろう。
でも──あの手の熱が、太ももに乗ったままだったら──
ウチは……もう、なにも言わなかったかもしれない。
(ウチ……ゆーきのこと、ほんとに……)
名前を呼ぶだけで涙が出そうになる。
好きってまだ言ってないのに、
それより先に、身体のほうが反応してしまった。
(バカみたい……)
このままじゃ終われない。
触れられただけで終わるなんて、そんなの、悔しすぎる。
(ちゃんと、ウチのこと、見てよ。ゆーき)
──その夜、梨花の目はなかなか閉じなかった。
触れられた脚の奥で、言葉にならない余韻が、
まだ小さく震えていた。
◇
夜が深まるほどに、部屋の空気が重くなる気がした。
音はすべて遠のいて、時計の針さえ、大きく聞こえる。
梨花は、ベッドの中で、小さく丸くなっていた。
──眠れない。
目を閉じても、図書館の机の下──
スカートの奥に届いた、あの熱が残っている。
すぐに離れてしまったはずなのに、
肌の中に沈んでしまったみたいに、じっと残ってる。
(……ねぇ、こわかった?うれしかった……?)
どっちなのか、わからない。
けど──このままじゃ、眠れないのだけは間違いなかった。
薄い掛け布団の中、自分の脚の間に隠した手。
それが今、どうしようもなく──自分じゃない感覚を運んでいた。
「……ゆーき」
名前を呟いたとたん、胸の奥がきゅっとなる。
身体が小さく震えて、その振動が、スカートの下にも届いていく。
(……やっぱり……ウチ、変になってる)
触れられただけなのに、こんなふうにずっと考えてて。
もう忘れなきゃって思ってるのに──忘れられない。
胸の奥が、じんじんと脈を打つ。
それ波が、お腹の下へ──降りていく。
火を灯したみたいだった。
気づくと、下着がぬくくなっていた。
じぶんでも気づかないほど、静かに、濡れていく。
ベッドの中で、膝を少しだけ抱え込む。
その動きだけで、ふとももの奥がじわっと熱くなる。
シーツの下で、そっと目を閉じる。
自分の身体に問いかける。
あのとき、本当は──どこまで、許せたんだろう。
胸の奥が、また、脈を打つ。
それは、恋のかたちに、とてもよく似ていた。
恥ずかしい。怖い。
でも──もう止まれない。
「……ゆーき……」
思わず、小さく笑った。
涙が滲みそうになって、でもそれを拭うように、
自分の手がそっと、布団の中で動いていった。
脚を小さく開く。
押されてるのに、奥から引き込まれるような……
今度は、中から、熱が広がってくる。
(……これって……ウチの中が、呼んでるの……?)
怖いくらいに、身体が反応する。
初めてなのに…懐かしくて、泣きたくなる。
(……ウチ、ずっと憧れてたんだ)
恋ってものに。
誰かと"つながる"って感覚に。
でも、それはずっと、漫画とか、映画のなかのもので。
でも今、身体が──彼に触れてほしいって、言ってる。
手のひら記憶が、波のようにあたためて、
奥の方が、じわっと、濡れていく。
どこかで「やっと、こうなれた」って、
安心している自分がいる。
(ウチ……女なんだ…)
ただ好きってだけじゃ、足りなかった。
ウチは、彼の"手"が欲しかった。
あの指の、温度と重みが。
心じゃなくて、肌の奥に触れてくるものが。
「……バカ……ゆーき……なんで、謝ったの……」
涙がにじむ。視界がぼやけていく。
──なにかが、起き上がってきた気がして。
息を止めたまま、濡れた手で、シーツをぎゅっと掴んだ。
もう何も考えられない。
でも、それは逃げているんじゃない。
"今ここにいる自分"、をまっすぐ感じたくて。
(ウチ……ちゃんと女になりたい。ゆーきの前で)
それが、ただの恋じゃないと気づいた瞬間──
梨花は、自分から、そっと意識をゆだねた。
涙と、熱と、名もなき愛情が混ざり合い、
誰にも知られないまま──少女は、
静かに"、女"という名の身体に目を覚ました。
女になるって…こんなこと、誰にも言えない……
次回 #待ってるよ
#5話からが純文学
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