1話 光と埃の中で触れた指先 #触ってみた
あれは、僕と梨花が十八歳だった頃の話。
青春という名の夏の嵐が、僕と梨花の輪郭を失わせた季節だった。
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図書館の閲覧室。
冷房の風が静かに書架の影を撫で、窓から射し込む午後の光が、埃の粒を金の糸くずのように浮かび上がらせていた。
平日にもかかわらず、人影は絶えない。ページをめくる音、椅子が軋む音、控えめな咳払い——
それらが遠くから、微かな波のように繰り返されていた。
その喧騒の波が届かない奥の奥。
時間すら息をひそめるような静寂のテーブルと、開かれた教科書、青いボールペン。
規則的に文字を刻む梨花の手元だけが、静謐のなかで密やかに時の流れを刻んでいる。
梨花の表情には、教科書に没頭する鋭さが宿っていた。
ギャルっぽい雰囲気とは裏腹に、その瞳は驚くほど深く、真剣で、
唇の端をきゅっと噛む癖が、静かな緊張感を漂わせている。
明るい茶髪は猫の毛のように細く、額に汗を滲ませ、長いまつげが横顔に繊細な影を落とす。
ネイルの施された指が教科書のページをなぞるたび、小さなキャラのストラップがボールペンに絡んで、わずかに揺れる。
第二ボタンまで外されたブラウスの隙間から、繊細な鎖骨と、ほんのり日焼けした肌が覗いている。
そこからふわりと、甘く蒸れたような肌の匂いが立ちのぼっていた。
梨花は何かを書き込もうとして、ふと手を止めた。
そのとき、彼女の首筋から下りる汗が、鎖骨のくぼみに一滴、吸い込まれるように沈んでいった。
なぜか、喉が渇いた。
僕はページをめくるふりをしていたけれど、目は活字の上をただ通過するだけだった。
彼女の膝がすぐそこにある。黒のハイソックスに包まれた細い脚。
組まれた脚に沿って、スカートが柔らかく波打つたびに、僕の意識はその奥へ引きずり込まれていった。
(梨花…)
──コトリ。
梨花のボールペンが落ちた瞬間、抑えていた何かが溢れた。
僕の指先は、勝手に動いていた。
スカートのプリーツに、そっと、静かに、触れてしまった。
──伝わってきたのは、温度、呼吸、鼓動、そしてまだ名前のない感情。
一瞬、彼女の太腿がぴくりと揺れた。
その瞬間、時間は時計の音と共に置き去りになり、心臓の鼓動が露わになった。
冷房の風が高い天井から降りてきて、梨花の繊細な髪をふわりと揺らす。
彼女はノートに視線を落としたまま微動だにしなかった。
けれど、ピンクの大きな髪留めが、かすかに震えた。
◇ 名前のない気持ち
(え…ちょっと待って……?)
心臓が跳ねた。
ペン先が止まり、紙の上で小さな黒点が滲む。
呼吸が止まり、時間の流れがふっと途切れた。
机の下、制服のスカートに触れたぬくもり。
それが「ゆーき」の指だと、ウチの肌が先に気づいた。
(なんで……?いきなり……?)
教科書の文字がにじむ。耳の奥がキン、と音が跳ねる。
ゆーきの指は、ただ置かれただけ。
でも、確かに何かが伝わってきた。悪意じゃない。ふざけでもない。
真面目すぎて、口にできなかったもの──
その答えが、指先の温度になってウチに流れ込んでくる。
(ウチのこと……そういうふうに……見てたの……?)
混乱、期待、驚き、そして……悦び。
いくつもの感情が重なり合って押し寄せてくる。
ウチは男子と付き合ったことないし、触れられたのも初めて。
何が正しいのかわからなくて──
でも、ゆーきなら、って、ちょっと思う自分もいるかもしれない。
(でも…ここ図書館だよ……!)
周りには人がいる。声を出せば聞かれる。顔を向ければバレてしまう。
でも、そのスリルがまた、何かをかき立てる。
(もっと、ちゃんと…してくれたらいいのに……)
ウチの脚がじわっと熱くなる。
触れられた部分が、ゆーきの形に染まっていくようで──怖い。
でも、心の奥ではもう一つの願いが芽を出していた。
(なんでこんな場所なの…?……でも……どうせなら……)
ペンを持つ手に力が入る。
ゆーきの指の熱を、ウチは紙の上にぶつけるように文字を書き始めた。
けれどもう、それは「勉強」じゃない。思考がすべて、ゆーきの存在へと塗り替えられていく。
(ウチ……止めたくない……かも)
目頭が熱くなる。嬉しいのか、戸惑ってるのか、それすら言葉にならない。
でも、その感情のすべてが、今触れられているそこに、宿っていた。
(……ゆーき……これって……どういう気持ち……?)
──この「罪のないふりをした、罪」の始まりを、ウチは、一生、忘れない。
◇ 梨花の視線
梨花は、かすかに体を強ばらせた。
けれど、驚いて跳ねのけるような素振りもなく、
ただ、僕の指先をそのまま受け入れるように──静かに、息をひとつ呑み込んだ。
それはまるで、波紋が広がる直前の、静かな水面のようだった。
息を止めたまま、梨花の喉がごくりと上下する。
数秒の沈黙の後、ゆっくりとペンがテーブルに置かれた。
「……ゆーき」
その声は、音というより、空気の震えだった。
問いかけでも、拒絶でもない。
ただ、「どうすればいいの?」と、彼女自身に向けて呟いたような響きだった。
その瞬間、僕の指先に、熱が宿った。
どこから来た熱なのか、自分でも、よく分からなかった。
梨花の視線はまだノートの上にあった。でも、焦点は宙を彷徨い、意識は明らかに別の場所に合った。
まばたきが一度。濡れたまつげが静かに閉じ、そして開く。
ようやく、彼女は僕を見た。
その視線は、言葉よりも遥かに雄弁だった。
「これが、あなたの気持ちなの?」
「わたし、どう応えればいいの?」
「こわい……けど、嬉しい……かもしれない」
そんな揺れる灯が、その大きな黒目の奥で、静かに瞬いていた。
彼女は膝をゆっくりと閉じた。
拒むというより、守るように。どこか無防備な、静かな防御だった。
「……勉強に、集中したいんだけどな」
そう言って、彼女は小さく笑った。
でも、唇の端が、ほんの少し震えていた。
不安、緊張──そして、ほのかな悦び。
どれが本当なのかは分からない。けれど、どれも間違いには見えなかった。
図書館の中は変わらず静かだった。
遠くのページをめくる音、誰かの靴音──
けれど、このテーブルだけは、世界から切り離された密室のようだった。
僕は、そっとスカートから手を離した。
その瞬間、梨花は目を伏せ、ほんの少しだけ肩を落とした──ように見えた。
──触れられた事実よりも、もう触れられていない現実のほうが、深く心に沈んでいく。
◇ 手の温度
(……ウチ、なにしてんだろう……)
ゆーきの手が離れたあと、空気の温度が変わった気がした。
ひんやりしたはずの室内で、スカートの奥だけが、じわじわ熱を残していた。
……ほんと、ばかみたい。
ノートの文字が滲んで見える。
さっきまで頭に入れてた内容なんか、何ひとつ思い出せない。
(てか、なんで……? なんであんなこと……)
いきなりで、言葉も出なくて。
びっくりしたのに、怖いって思わなかった。
むしろ、ちょっとだけ……いや、正直に言うと、すごくドキドキしてた。
あの指の温度、あの触れ方
──すごく、やさしかった。
それが、いちばん困る。
(ウチのこと、そういうふうに見てたんだ……)
勉強を教えてくれるから、ただの友達だって思ってた。
でも、さっきの手の温度は、「友達」じゃなかった。
ウチ、いま……めちゃくちゃ、揺れてる。
(ゆーきって……無口で真面目で、でもさ……ずるいんだよ)
何も言わずに触れて、何も言わずに離して。
ウチの中だけが、こんなにぐちゃぐちゃになってる。
このドキドキ、どうすればいいの?
"うれしい"と"こわい"が混ざって溢れてる。
喉の奥が乾いて、ちょっとだけ、息を吸うのが苦しい。
どうしてくれるの、ゆーき。
(……でも、もし、あれが冗談だったら?)
その場のノリだったのかもしれない。
ウチが勝手に期待して、勝手に勘違いしていただけだったら──
(そんなの、バカみたい……)
スカートの下。
さっき触れられた場所を意識すると、脳がそこにだけ集中してしまう。
耳の奥がじんわり熱くなって、遠くの音がぼやけていく。
さわられて、気持ちよかった、なんて。
そんなの、認めたくないのに。
(……バカ。ゆーきの、バカ……)
でも。手を離してくれたこと。
ほんとのちょっと、嬉しかった。
ちゃんと、ちゃんと止まってくれてよかった。
ウチ、きっとこのままだったら……
もうちょっとで、やばかった。
(でも……次、来られたら、ウチ……たぶん……)
ウチ、いますごい顔が赤くなってる…
呼吸がうまくできなくて、肌がピリピリしてる。
音が遠くなって、ページをめくる音も、もう届かない。
言葉にならない想像だけが、じわじわ喉の奥を熱くしていく。
自分の膝のあいだが、今さらみたいに──脈を打ち始めた。
もう何もされていないのに──身体が、勝手に、答え始めていた。
(ゆーき……ウチ……どうしたらいいの)
◇ 確かにそこにある気配
彼女が視線を伏せ、肩をほんの少しだけ落としたとき、
ようやく僕の中で、声が形を取り始めていた。
「……梨花、俺……」
けれど、その先の言葉は、喉の奥で霧のように散っていった。
好き、と言うのは何かが違う。
欲しい、と言えば軽すぎる。
守りたい、と言えば──笑うしかない。
たったひとつの言葉を探したけれど、見つけられないまま、
ただ、深く息を吸い込むしかできなかった。
梨花は僕の目を見て、それから、また静かに伏せた。
なにも言わなかった。問いも、拒絶も、肯定も──なかった。
それでも僕は、その目の奥から何かを受け取った気がした。
言葉にすれば壊れてしまいそうな、でも、確かにそこにある気配。
……それを、確かめたかった。
彼女から渡されたその無言の中に、どんな気持ちが宿っているのかを。
「ゆーき……」
その声は、幻だったのかもしれない。
でも、呼ばれた気がした。彼女が僕を待っている気がした。
喉が、もうカラカラだった。
そして不意に、彼女の膝がわずかに揺れた。
それだけで、いつも気づかないふりをしてた何かが、そっと息を吹き返した。
僕は再び、震える手で、彼女のスカートへ手を伸ばしてしまっていた。
静かに、丁寧に、祈るように、確かめるように。
スカートの膝と膝の間にある闇の中へ、躊躇いがちに進んでいく。
初めて触れる、女性の肌。
想像していたよりも、ずっと柔らかくて、熱かった。
脳の奥が白く痺れ、息が浅くなり、視界がチカチカし始める。
彼女の肌の匂い──石けんとも、汗とも違う。
さっきとは違う、熱を帯びた湿気に包まれて、
もう、僕の意識は彼女に塗り替えられていた。
肌をなぞる指先の迷いは、すぐに熱に溶けた。
梨花は、少し膝を揺らしたが、動かなかった。
止めようとすればできた。逃げようとすればできた。
でも、しなかった。
それが、彼女の答えだと思った。
そしてついに──
僕の指先は、スカートの奥。リボンの感触を捉えた。
その瞬間、耳の奥がツンと鳴る。
世界の音が、すっと遠のいた。
指の腹に感じたのは、結び目の硬さじゃない。
──彼女の体温だった。
息がつまり、喉がひくりと痙攣する。
──僕は、この先に進んで、いいのだろうか…
◇ 名前を呼んで
(……また……触れてきた)
二度目の指先は、まるで夢に出てくるみたいに静かで、
それだけで、身体が小さく震えて、じんわり、熱くなってくる。
(なんか……さっきと違う……?)
ただ、そこに指があるだけなのに。
なんで、身体の奥が、勝手に反応しちゃうの。
喉がカラカラで、うまく息が吸えない。
耳の奥が、またキンって鳴った──怖い。
けど、逃げなかった。逃げたくない……自分がいた。
(……これって……)
ウチのなかで、何かがするりとほどけていく。
リボンみたいに、音もなく。
ああ…これが、
“あの感じ”ってやつ、なのかな……
(や、なのに……やじゃない……かも……)
……ウチ、そんな子じゃないのに。
ゆーきのせいで……ゆーきが勝手に……
悔しい? ……わかんない……
うれしい? ……でも……ちが……
でも、でも──こわい
足は閉じてるのに、肌の奥に、ゆーきの熱が伝わってくる。
トクトクと静かに脈打つ鼓動が、じわじわと身体の中で膨らんでいく。
ダメなのに……バレたら……
でも、そう想像するだけで──
心臓がバクバクして、体温がどんどん上がっていく。
(お願い、ゆーき……なんか言って……)
名前でも、好きだよでも、なんでもいい。
こわいのに……なんで、なにも言ってくれないの……?
声を聞かせて。名前を呼んで。なんでもいいから……
ズルいよ……ちゃんと……
でも……言われたら、そんなこと言われたら……ウチ──
(……ゆーき……)
触れてる。
リボンの手前で止まってる。指先がかすかに震えてる。
無言のまま、だけど、真実みたいに伝わってきた。
──ウチのこと、ちゃんと"欲しい"って思ってる。
それだけで涙が出そうになって、ウチは目を閉じた。
(……ウチ、信じるよ……)
図書館の空気は冷たいままなのに、
スカートの奥だけが、火を抱いたみたいに熱いのに、震えていた。
机の下で、ウチは、脚を少しだけ開いた。
◇ 司書
──コツ、コツ、コツ。
遠くから、誰かが近づいてきた。
規則正しく、無機質で、冷たい音で。
本棚の影を縫うヒールの足音が──
音もなく張りつめた、このふたりの上に落ちてくる。
(やば……!)
梨花は瞬間的に息を止めた。
太ももがビクッと跳ねる。
「……っ!」
僕はスカートから手を引いた。
反射的に。咄嗟に。
司書が、何かを探しながら歩いてきて──
こちらを、一瞬だけ、見た気がした。
あらゆる熱が急速に引いていく。
罪悪感という名の冷気に晒されて。
未練という余熱だけを指先に残して。
彼女は黙ったまま、ノートに目を戻した。
でも、ペンは動かない。頬が小刻みに震える。
恥ずかしさなのか、怒りなのか、それとも──
僕は、指先に残る梨花の熱を握り潰すように手を閉じた。
◇ 冷めない余熱
(……終わっちゃった……?)
スカートの奥の熱が冷めていく。
もっと、続いてほしかった……の?
名もなき感情の奔流が、彼女の中で吹き狂っていた。
(……ウチ……どうして……)
梨花はそっと目を閉じた。
彼の指の熱だけが、身体の中に、静かに残っていた。
触れられたいと思う気持ちは、罪だったのかな……
次回 #私は私を責めない
#5話からが純文学
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