たぬきの女の子は人間になつかない(後編)
次の日は土曜日。
わたしはたぬきが轢かれたかもしれない場所へ出かけていった。
「確かこのへんだったはずだ……」
夜と朝では景色が違う。それにあの時は動転していたし、何よりわたしはたぬきだったので、その場所を特定するのが難しい。
山本くんの部屋は一階だった。
あの部屋の窓を飛び出し、左へ向いて走った覚えがある。
山本くんの家をまずは見つければ、わかるはずだ。
すぐに見つけた。
その辺りに昭和の香り漂う一軒家はそこしかなかった。
でも、窓がいくつかあって、どれが山本くんの部屋の窓なのかがわからない。こっそり覗いてみようにもカーテンがかかっている。
帰ろうかな……。
そう思ったが、やはりたぬきの消息が気になる。喉からストレスのけむりがドロドロ出そうなほど心配だ。
勇気を出して、わたしは窓のひとつをノックしてみることにした。
手をノックの形にするが、なかなか動かない。
もしもお母さんの部屋の窓だったらどうしよう。
それより、いきなりビンゴで山本くんの部屋の窓をノックしてしまい、カーテンが開いて、彼の顔がガラスの向こうに現れたらどうしたらいいんだ……。
いや何を考えているんだ、希恵原霞。それが目的だろう。山本くんの部屋を特定するんだ。っていうか顔、見たいし──
コン、コン……
叩いてしまった。
早速部屋の中で誰かが動く気配がして、カーテンが勢いよく開いた。
山本樹くんのびっくりした顔が覗き、すぐに笑顔になった。
「希恵原さん!」
窓を開けるなり、彼が言った。
「よかった。元に戻れたんだね?」
わたしは逃げ出した。
心臓のドキドキを使命感で黙らせた。彼の部屋の窓さえわかればあの場所を見つけることができる。わたしは走った、あの夜のように。
あの時感じた以上に道路は狭かった。車1台がやっと通れるような道幅だ。いや、もしかしたらこれ、1台も通れないかもしれない。狭すぎる……。
歩行者用の通路じゃないのか、これ……。
「希恵原さん!」
後ろから山本くんが追いかけてきた。部屋着姿だ、まぶしい。わたしは再び逃げようとして、足を止めた。ここで逃げたらたぬきの消息がわからない。彼に聞いてみなくては。勇気を出して、振り返った。
振り返ると、山本くんがわたしのすぐ目の前で立ち止まった。高いところから膝に手をつき、ハァハァと口から綺麗な息を吐いている。
「なんで逃げるの?」
優しく笑いながらそう聞く彼に、わたしは一生懸命に説明をした。
「あのね……。たぬきなの。あの、わたしと体が入れ替わったたぬきが、ここで車に轢かれたのかどうかって……。それを確かめに来ただけなの。だから知ってたら教えて? あのたぬきが、どうなったか……」
ははっと笑い声を漏らすと、彼が教えてくれた。
「この道は自動車、通れないよ」
「でもわたし……確かに、ヘッドライトを2つ、見たの。それに轢かれて……」
「自転車だよ」
安心させるように、うつむくわたしの顔を山本くんが覗き込んできながら、言った。
「2台の自転車がたぬきを挟むように通って行ってね、臆病なたぬきはびっくりして気絶してたんだ」
「えっ……?」
そういえば記憶を辿るとエンジンの音を聞いたような気がしなかった。
「そいつを抱きかかえて家に連れて帰ったらさ、意識を取り戻すなり大慌てで台所の隅に逃げ出して、話しかけてもブルブル震えてるだけだったから……あれ? これって、戻ったのかな? って思って──」
「それからどうしたの?」
「勝手口のドアを開けてやったらそこから逃げていった」
安心したら全身から力が抜けた。
ふうっ──と道の上に崩れ落ちそうになったわたしを、彼が抱き止めてくれそうになって、慌てて足に力を戻してわたしは後ずさった。
「……そっか」
今の不自然な動きを取り繕うように、わたしは言った。
「……よかった。誰も傷つかなくて」
山本くんが口を尖らせ、言った。
「いや……。俺は傷ついたよ?」
「えっ……?」
「希恵原さん、俺のこと、なんで避けるの?」
「ええっ……!?」
「それってやっぱり、昨日俺が言った言葉に対する、拒絶の表現?」
「えええっ……!?」
そうだ……。昨晩、たぬきのわたしに、彼は何かを言ったのだった。その言葉に動転して、たぬきは窓から逃げ出した。わんわん泣きながら走っていたら、前からやって来た自動車──だと思っていたら自転車だったけど、それに轢かれると思ったら、そのショックでなのか元に戻ってて、そして、なんか、えっと……あの夜、あの部屋で、わたし、なんかとてつもなく自分らしくない告白みたいなことをしちゃった気がするんですけど。それに対して彼の答えは? なんて言った? なんて言った?
『嫌じゃないよ』
──思い出した!
『誰よりも優しい子なんだなって、知ってるから』
うわあああああ!
あまりの気恥ずかしさに、みたび逃げ出そうとしたわたしの手を、後ろから彼が捕まえた。
「そんなに俺のこと、嫌いなの?」
「き……嫌いじゃない! 嫌いじゃないっ! けど……」
「……そっか。嫌いじゃなくても、こんなにしつこくされたら嫌だよね」
嬉しい! 嬉しいのっ! そう思いながら、わたしの口はパクパク動くだけで、何も言葉が出てこない。
「ごめんね、うざいやつで」
うざくない! うざくないから──! そう言いたいのに、わたしの足は走って逃げようと動く。
「でも、希恵原さんが、行動と心の中が違ってるってのも、知ってるから」
そう言って後ろから抱きしめられた。
わたしは息が止まったように、彼の言葉を耳の後ろに聞いていた。
「君のこと、ずっと見てたから……。君のこと、俺がわかってあげたいから……」
彼の腕に力がこもった。
「だから、俺にだけは、なつけよ」
また涙がぽろぽろぽろぽろ……こぼれだした。
止まれ、涙。恥ずかしい。何よりわたしを後ろから抱く彼の腕にかかっちゃう……。
「それとも……俺じゃ、だめ?」
なんて答えればいいんだ、これ──
なんて答えれば……
はっとして見ると、目の前にたぬきが立っていた。
逃げようともせず、黙ってわたしをじっと見上げている。
ゆっくりと近づいてくると、わたしの足にすり寄ってきた。
警戒心が強くて臆病なはずのたぬきが、わたしになついているように、あったかくてやわらかいその体をなすりつけてくる。
「あっ、たぬきだ!」
山本くんも気づいて、声をあげた。
「このやろー……、俺にはビクビクするばっかりで逃げようとばっかしてやがったくせに、希恵原さんにはなつくのかよ」
「か……体が入れ替わってたから……」
わたしは泣いてしまっていたけど、震える唇を動かして、笑った。
「それで心を許してくれたのかも」
山本くんがわたしから腕を離した。背中が寂しくなった。
しゃがみ込んで撫でようとすると、たぬきはサッと後ろに動く。
わたしもしゃがみ込んで、撫でようとした。
たぬきは近づいてきて、大人しくわたしの手を受け入れると、気持ちよさそうに頭をスリスリしてきた。
「ふふ……。気持ちが通じ合ったみたい」
わたしの体の震えが止まった。
「よかったね、おまえ。無事でいてくれてありがとう」
「希恵原さんの気持ちが通じたんだよ、きっと。『心配してくれてありがとう』って言いに来たんだ」
すぐ隣にそんな山本くんの声を聞きながら、わたしはなんだか素直になれていた。
同じ格好でたぬきに向き合いながら、同じ気持ちになったような気がして、彼のほうにちょっとだけ体を傾けた。
「頭……撫でていい?」
山本くんにそう言われても、逃げようとはしなかった。
「うん」
もう少しだけ、彼のほうへ体を傾けると、あったかくておおきなてのひらが、わたしの頭を優しく撫でた。
****
野生のたぬきは飼っちゃいけない。
だからわたしはわたしのほうから、いつもあの山へ出かけて行く。
出会ったあの場所に行くと、木立の隙間から姿を見せてくれる。わたしは持ってきたものをお皿に入れて、彼女の前に置いてあげる。今日は茹でた鶏肉だ。
彼女の後ろからぞろぞろと、子狸たちが姿を現した。
「おー、すげー!」
山本くんが感激した声をあげる。
「子どもできたんだな、おまえ! おめでたい!」
「かわいー」
わたしの側へ子狸たちが近づいてきて、わたしはみんなの頭を撫でた。
「タッくんのほうへも行ってあげて。撫でさせてあげてよ」
しかし母親も子狸たちも、彼のほうにはけっして近づこうとはしない。逃げもしなくなったので、恥ずかしがってるだけのようにも見える。
「なついてくれねーなー」
タッくんが苦笑しながら言う。
「まるで付き合う前のカスミみてーだ」
「もー……。タッくんは優しいひとだよ? わかってあげて」
彼が後ろから抱きしめて、わたしの頭にキスをした。
わたしはもう逃げない。
けっして人間にはなつかないはずのたぬきが、彼にはなついちゃったから。
(おわり)