たぬきの女の子は人間になつかない(前編)
森の中をなんとなく散策していたら、たぬきと出会った。
たぬきはイヌ科のくせに警戒心が強く、臆病で、けっして人間になつかないという。
わたしと同じだ。
わたしもヒト科のくせに、けっして誰にもなつかない。まぁ、臆病なわけではない。けっしてそうではない。そこが違うといえば違うのだが──
たぬきはわたしの存在に気づくなり、慌てて背を向け、駆け出した。
これでおしまい。もう会うことはない──そう思われた。
しかしたぬきは慌てて方向転換すると、こっちへ向かって駆けてきた。
木立の隙間からべつの人間が現れたのだ。山を管理しているおじいさんのようだった。
ばかなたぬき……。横へ逃げればいいものを、慌てすぎたのか、わたしの足に向かってまっすぐに駆けてきた。
わたしはたぬきに足を掬われて──
ばっしゃーん!
なぜかバケツをひっくり返したような音がしたのだった。
「おいおい! 大丈夫かい!?」
おじいさんの声が空に響いた。
おじいさんはわたしを助け起こすと、肩を貸して、むこうのほうへ歩き出した。気絶しているわたしの、セーラー服を着たわたしの背中を、わたしは見送った。
おやおや……
なんてこったい……。
たぬきとわたしの身体が入れ替わってしまった。
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こんなこと、創作界隈ではよくあることだ。
だが現実に起こるなんて、思ってもみなかったことだ。
遠くに沈んでいく夕陽を眺めながら、わたしはぼんやりと思った。
(どうすっかなー……。これ)
とりあえず家に帰ることに決めた。
言葉は喋れるのだし、わかってくれるだろう。べつに家族と顔を合わせなければいいことなので、いつもと変わりない。いつものように自分の部屋にでも籠もっていればいいだろう。
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とぼとぼと……というよりはヨタヨタと、慣れない足の動かし方でアスファルトの上を歩いていると、声をかけられた。
「おい、たぬき」
顔を上げると、見知った男子の顔があった。
「こんなところを一匹で歩いていると、悪い人間にいたずらされるぞ」
隣のクラスの山本樹くんだ。
高校二年生にしては大人っぽくて、しかもお節介といえるほどの世話焼きなやつだ。そこがわたしはまぁ、好きだったり、するのだが……
「たぬきじゃないよ」
わたしは彼を心配させまいと、言葉を口にした。
「山本くんが知ってるかどうか疑問だけど──わたし、隣のクラスの希恵原霞です」
山本くんがパクパクと口を動かした。でも言葉がなんにも出てこなかった。たぬきが喋ったのがやっぱり驚かせてしまっただろうか。悪いことをしたかな。
「だ……抱っこしてもいい?」
山本くんがそんなことを言い出した。
「俺の家に来いよ。母さんも動物好きなんだ」
よくわからないが、わたしは彼に抱っこされ、彼の家へ連れて行かれたのだった。
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一戸建ての借家っぽかった。
彼のお母さんの年齢にはそぐわない昭和の香り漂う日本家屋の玄関の、カラカラと小気味よい音を立てる引き戸を開けると、山本くんが中に向かって大声を出した。
「ただいまー! 母さん、お客さん連れて来たよ!」
おたまを手に、彼のお母さんが姿を現し、「あらまぁ!」と言った。彼の手に抱えられたわたしを見て嬉しそうだ。
「かわいいたぬちゃん! ……でもタッちゃん? 野生動物は連れて帰っちゃいけないのよ?」
「たぬきに見えるだろうけど、同級生なんだ。隣のクラスの希恵原さんだ。たぬきになって困ってるらしい」
わたしはうなずき、挨拶をした。
「こんばんは」
お母さんは一瞬固まって、すぐに同情を顔に浮かべると、わたしに言った。
「まぁまぁ! それはお困りよね? 肉じゃが、食べていきなさい」
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晩ごはんをご馳走になってしまった。
他人の家でごはんを食べるなんて、こんなの確か小学生の時以来……久しぶりだ。
お礼に洗い物を手伝おうとした。アライグマのように。しかしお母さんはあかるく笑いながら、首を横に振った。
「いいわよ、気を遣わなくて。タツキの部屋へ行って、一緒に遊んでらっしゃい」
彼の部屋に通された。
「ここだよ」
優しく彼が襖を開けてくれて、わたしはモジモジしながらも、中へ入った。
本棚に本がいっぱい並んでいた。
成績優秀なのはもちろん知っていたけど、その秘密を見た気がした。本以外には何もない六畳の部屋、という感じだ。
「それにしても、たぬきは警戒心が強いのに、よく家に遊びに来てくれたね」
山本くんがそう言ってから、自分の口をおさえた。
「……あ、ごめん。見た目はたぬきでも、中身は希恵原さんだもんね」
「わたしも警戒心強い動物だよ」
ウーロン茶をいただきながら、わたしは言った。
「クラスのみんなを警戒して、いつもぼっちだもん」
「そうだよね……」
山本くんは本を一冊、手に取りながら、言った。
「でも警戒心が強いというよりは、優しすぎるのかな? って思ってた」
「わたしの何を知ってんだよ?」
「だって希恵原さん──」
本をパラパラめくりながら、彼が言う。
「いっつも他人のこと、警戒してる怖い目っていうよりは、仲良くしたがってるのに怖がってるみたいな、優しい目をしてるじゃないか」
たぬきが泣けるとは知らなかった。わたしの目からは突如として、大粒の涙がぽろぽろぽろぽろと、こぼれはじめたのだった。
「前から気になってたんだ、希恵原さんのこと」
わたしも前から気になってた山本くんの口が言った。
「怖がらずにさ、もっとみんなと仲良くしてほしいなって」
なんだ、そういうことか。
『気になってた』ってのは、単におかしな子を心配して、気にかけてくれてたってことか。単なるお節介、人類愛に基づく世話焼きなのだ。
問題児を見る先生のような目で、いつもわたしを見てくれていたのだ。
「じゃあ聞くけど」
わたしは涙を拭くと、怖い目をして言ってやった。
「わたしが『前から好きでした、付き合ってください』って言ったら、山本くん、付き合ってくれるの?」
「え……」
「嫌でしょ? こんな暗いやつ」
たぬきになってると、普段言えないようなことが口からぽんぽんと出た。
「しかもたぬきだし」
「それ、たとえばの話? それとも……」
山本くんにそう聞かれて、わたしの口がようやく止まった。急停止した。
わたし、わたしらしくもない、なんて大胆なことを言ってしまったんだろう。
わたしが他人から好かれるなんてわけはない。家族からも『いらない子』みたいに思われて、放置されてるのに。
誰の迷惑にもなりたくない。わたしが喋るとみんなに嫌そうな顔をされる。だからいつも一人でいて、誰にも嫌がられたくなくて、自分も傷つきたくなくて、可能な限り自分の口を開かないようにしていたのに。
「どっちなの? たとえばの話? それとも、本当に……?」
「嘘に決まってるでしょ!」と、いつものわたしならもちろん言うところだった。
でも、たぬきになってるからか、わたしの口からは違うことばが出た。
「ほんとうだけど……っ! でも、嫌でしょ? こんな暗い性格の上に、空気も読めないやつで、しかもたぬき……っ!」
たぬきの顔を突きつけてやった。
人間の時とどっちがかわいいかわからないが、少なくとも人間ではないその顔を、突きつけてやった。気味悪がられると思って。
「嫌じゃないよ」
山本くんが、頬を赤く染めて、にこっと笑った。
「嬉しいよ。俺も前から……気になってたってのは、そういう意味だから」
「なんで……?」
またたぬきの目から涙がぽろぽろこぼれた。
「わたし……へんな子だし……はぶられっ子だし……たぬきだし……」
「誰よりも優しい子なんだなって、知ってるから」
山本くんが眩しく笑った。
眩しすぎて、開いてる窓からわたしは逃げ出した。
「あっ! 希恵原さん!」
たぬきは人間になつかないんだぞ! なついちゃいけないんだ!
わんわん泣きながら、たぬきは夜の車道をあてもなく駆けた。
その前からヘッドライトが近づいてきた。
狭い車道に逃げ場はなかった。
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「……はっ?」
「よかった! 気がついたかい?」
意識を取り戻すと、山小屋みたいな部屋の中だった。山を管理しているあのおじいさんの顔が目の前にあった。
「なかなか意識が戻らないから病院に連れて行こうと思ってたところなんだ。気がついてよかったよ〜」
「た……たぬきは!?」
「たぬき? ……ああ、君とぶつかったあのたぬきかい? じっとこっちを見てたけど、たぶん巣へ戻って行ったよ。とりあえず今日はもう遅いからここに泊まってお行き」
おじいさんがあったかいココアを淹れてくれた。
それをいただきながら、わたしはあのたぬきのことばかり考えていた。
どうなったのだろう……、あの、たぬき……。
あのたぬきが車に轢かれて死んだから、わたしは元の体に戻れたのだろうか?
そんなの嫌だ。
生きていてくれ、あのたぬき……。
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