74.暗黙
翌日の夜、警備の仕事を終えて、杜樹は再び直霊本部まで足を運んでいた。入口から一直線に灰音の個室へ向かい、部屋の扉を数回叩く。直後、灰音が扉を開き、顔を見せた。
「中で話そうか」
「はい」
灰音の手招きで、杜樹は廊下と部屋の境界を跨ぐ。中に入るのは、杜樹も初めてだ。烏の個室と容積は同じなのに、狭く感じるのは、部屋に構える機材のせいだろうか。デスクトップパソコンに繋がれた複数のモニターが机上に設置されている。
特認の個室というのは元々、武器の保管目的で用意されたものだったはずだが、灰音の場合は自身の居城と化しているように見えた。しかも、肝心の紅境は第二実験室の方で保管されているので、本来の目的の影もない。
もちろん、与えられた部屋をどう使用するかは個人の自由であるし、常に武器を携帯している椿も同様だと考えられるので、咎める意志があるわけではない。ただ、この状態を天老が認知しているのか、少し気になっただけだ。
「さて、答えは出たかな?」
椅子に腰掛けながら、灰音が杜樹に尋ねた。真狐を解放するべきかどうかについての話だろう。
「……すみません。まだです」
「謝ることないよ。杜樹に判断を押し付けてしまったのは、私だし」
真狐を解放するべきなのか、迷っているのは灰音も同じだ。それで、杜樹に判断を委ねたのは、どうしても個人的な感情が混入してしまうからと考えられる。灰音は狛と親しい関係なので、狛の心情に寄り添いたくなってしまうのだ。
「いえ、今回の件は私がやるべきだと、私自身も思います」
「熱心なのは私も嬉しいけど、肩の力を少しは抜いても良いと思うよ」
灰音は椅子の背凭れに身を預けるように、脱力姿勢になる。まるで、言葉を体で表現しているようだ。
「ひとまず、私が資料を見た感想として一つ言えるのは、提出された証拠や裁判官の判断に、不自然な点はないということです」
「それは、同意見かな。再現検証についても、私が一応計算したけど、同様の結果が得られたし」
灰音が言うならば、再現検証も信用できるということなのだろう。
「ただ、少し気になる話もあってね」
「……というのは?」
「どうやら、裁判中、直霊に対する検察側のヘイトが強かったらしい。有罪判決を勝ち取るために、相当頑張ったみたいだね。まあ、当時は今よりも術者への不信感があったし、別に責めるつもりはないけど」
灰音の言葉に、杜樹は少し目を見開く。確かに、改めて証拠を振り返ると、再現などは非常に丁寧に検証されていた。検察も真狐の裁判に労力を大きく割いていたと推測できるということだ。
被告人が術者であることを除いても、警察が犠牲になっている以上、通常の事件よりも重視されるのは、別に不思議ではない。警察からの圧力も、間違いなく検察にかかっていただろう。問題なのは、その圧力が捜査に違法性を生じさせたかどうか。
「あの、灰音さんは検察側が証拠の捏造や改竄をした可能性を考えているのですか?」
「……念のため。今のところ、それらしい情報は発見していないけど」
疑いたくはないが、全面的に信用できるとも限らない。実際、最近に遺伝子鑑定の結果不正が明らかになった事件もある。
「後は、意図的な証拠隠しがあった可能性についても、調査中」
検察にとって不利に働く証拠を見なかったことにしている可能性も考えられるという意味である。もちろん、これも冤罪を助長するため、許されないことだ。
「ん? ちょっと待ってください」
ここで、杜樹があることに気づく。
「もしかして、灰音さん、検察庁をハッキングしています?」
杜樹は灰音に疑惑の目を向ける。しかし、灰音は微笑むだけで、何も言わない。肯定も否定もしない。つまりは、そういうことだろう。
「とにかく、解放するべきかどうかの決断を、そこまで焦る必要はない」
そして、灰音は話を逸らした。杜樹も特に追及は考えていない。世の中には、曖昧にした方が良いこともあるのだ。
「……了解です。ちなみに、参考として聞きたいのですが、灰音さんは九尾さんについて、どのような印象を持っていますか?」
「うーん。私は一緒に仕事したことないから、正直何とも言えない。ただ、戦闘面での活躍は相当聞いた記憶がある」
「なるほど。個人的に、人柄をもう少し知りたかったのですが……」
杜樹は残念そうに言葉を発した。真狐が如何なる人物であるかは、やはり狛に尋ねるべきだろうか。灰音から聞く方が、真狐の客観的な印象を把握できると思っていたが、仕方のないことだ。
「それなら、直接話してみれば?」
「え?」
「直霊なら、監獄の中まで入ることができるよ」
幽谷監獄では直接面会が基本的に禁止されている。つまり、囚人の親族や弁護士であっても、監獄内に入ることはできない。しかし、直霊の捜査員であれば、話は別だ。実際、黛は幽谷監獄関係者ではないが、尋問のために、特別房の囚人に接触している。
真狐本人に話を聞くことができるならば、それが最も良いに決まっている。杜樹は灰音の案を即決で採用することにした。
灰音との相談を終えた後、杜樹は帰宅するために、直霊本部の廊下を歩いていた。幽谷監獄を直接訪れる話については、明日にでも日程を決定し、狛に伝えるのが良いだろう。特別房に入るためには、看守の許可も必要だが、そもそも狛が断る理由がない。
その後、杜樹は直霊本部の入口から出ようとする。しかし、次の瞬間、誰かに肩を掴まれる感触を覚える。特に動揺はなかった。一切の音を立てず、ここまで接近できるのは、一人しかいないからだ。わざわざ振り返る必要もない。
「……どうかした?」
「もう、帰るの?」
やはり烏だった。また、その声はどこか寂しげに感じられた。
「うん。灰音さんと話すために少し寄っただけだから」
直後、杜樹は後ろを向き、烏の表情を確認する。予想通り、思い悩むような顔をしている。その原因は言うまでもないだろう。しかし、選択は迷うことにも意味がある。それが、自分なりに一生懸命思考した証明になるからだ。
さて、岐路に立つ烏に対して、他者ができることは何だろうか。現在の烏に必要なことは何だろうか。
「ねえ、烏。私さ、今度相模の方に行く用事があるのだけど、一緒に行かない?」
「え、何しに行くの?」
「主の目的は幽谷監獄の訪問だけど、それ以外にもどこか寄ることができるよ」
偶には、羽を伸ばすのが良い。杜樹の眼差しは、そう語っているようだ。
「うん、僕も行こうかな……」
「良かった。丁度、一人は寂しいと思っていたところだったから」
杜樹は烏に安堵の笑顔を見せる。そういえば、二人で遠出するのは、初めてだろうか。きっと良い気分転換になるだろう。それに、今回の目的を考えるならば、烏が一緒で損することはない。




