53.我儘
差し伸べられた手。しかし、それを詠が握ることはなかった。ただ、提案を拒否したという意味ではない。
「……今すぐに返事をすることはできません、ごめんなさい。少し考える時間をいただけませんか?」
詠の言葉を聞いて、七瀬も一度手を引っ込める。
「もちろんです。事後処理の関係で、私たちが十月神社を出発するのは明日になると思います。そのときまでに、返事をいただければ大丈夫です」
「……ありがとうございます」
「良い返事を期待していますね。では、私はこれで失礼します」
用件を終えた七瀬は扉を開けて、廊下に出る。その後、七瀬の目に入ったのは、部屋の外側で聞き耳を立てるような千里と椿だった。
「何をしている?」
「だって、気になるだろう?」
「……まあ、良い。直に警察が現着する。私たちも参道の方に戻ろう」
そして、七瀬に連れられるように、千里と椿も神職住居を後にしていくのだった。
「なあ、七瀬」
参道に戻る道中、千里が口を開いた。
「何だ?」
「あの子が断ったら、どうするつもりじゃ?」
「強引に連れて帰るに決まっているだろう」
七瀬は即座に答えた。
「では、わざわざ意志を確認する必要があるのか?」
「あの子が望んで直霊に入るのが、最も綺麗に収まると思っただけだ。それに、結果が同じだとしても、自分の意志で選んだかどうかは今後に大きく関わる」
「うーむ。余はあの子を騙しているような気分だが……」
七瀬は嘘を言っていない。だが、真実を伝えていないのも事実である。
「それより、椿。改めて伝えておくが、あの子が術者だと判明した以上、見なかったことにはできない」
「……」
「しかし、先ほどの話を聞いていたならわかるだろうが、直霊に所属することが十月神社という居場所を完全に奪うわけでもないと思う」
七瀬の話を椿は黙って聞いていた。
「椿があの子の居場所を守りたいのであれば、椿自身が天老へ上手に交渉すると良い。天老も、椿の意見なら一考するとは思う。まあ、必要なら、私も一緒に頭を下げよう」
「わ、わかりました。ありがとうございます……」
先ほど熱くなってしまったことを反省するように、椿は俯く。
「後、一応言っておくが、別に私は椿の思いを否定するつもりはない。椿があの子に同情するのも何となく理解できる。自分と重なったのだろう?」
七瀬の言葉に、椿は小さく頷いた。
「直霊自体もそうだが、楸さんの形見を椿が大事にしていることも、私には感じてわかる」
七瀬は椿が腰に携える刀に目を向ける。それは、三日月とは異なる、もう一本の刀。その名は『五月雨』。七瀬の言う通り、椿の母親である八剱楸が生前に使用していた日本刀である。
「椿もあの子も、母親の形見を大切にしようと努力する姿は健気で素敵だと思う。本当なら、私も好きにさせてあげたいし、応援もしたい。だが、そうはいかないのが、現実だ。椿もわからないわけじゃないだろう?」
「は、はい……」
「そう落ち込む必要はない。椿が我儘を言ったことも、私は嬉しく思っている。直霊に長くいると、私的な感情は抑圧されていくものだ。だからこそ、時に自身の感情を露わにするくらいが人間らしくて良いじゃないか」
椿の視界に映る七瀬の横顔は、微笑んでいるように見えた。
一方、詠は式守を含めた神職たちと合流しているようだった。
「ごめん、文婆。御神玉守れなかった……」
「……いえ、先ほども申しましたが、私たちは詠さまが無事で何よりでございます」
当然、式守たちが詠を責めることはなかった。
「それでさ、もし私が十月神社を離れて、御神玉を取り返しに行くって言ったら、どうする?」
「当然、応援いたします。心配ではありますけど……」
「……そっか」
その後、物思いにふける詠を見て、式守は笑みを零す。
「……何で、ちょっと嬉しそうなの?」
「ふふ、少し絃さまのことを思い出しただけですよ」
「お母さんを?」
詠は不思議そうに式守に尋ねた。
「生まれる前のことですから、詠さまはご存知でないと思いますが、以前に御神玉が奪われてしまったとき、絃さまは私たちに何も告げず、一人で十月神社を出ていかれました」
「え?」
「当時は絃さまが私たちを置いていったようで、動転したことを覚えています。逆に、絃さまが御神玉と共に戻られたときは、一同安堵しましたね」
一度、御神玉が盗まれた事実は知っていたが、それ以外の話は詠も聞いたことがなかった。
「その過去があるので、詠さまが現在悩んでいらっしゃること自体、幸甚に存じます。もちろん、絃さまも十月神社が大事だからこその行動だったとは思いますけどね」
絃は一刻も早く、魂宿の雲玉を取り返すことを優先した。ただ、少しは相談してほしかったというのが、式守の本音だった。当時は、式守が別に老体ではなかったからこそ、何か協力できたのではないかという心情も少なからずあっただろう。
「ついでに本音を言うと、詠さまが半ば強制的に宮司の後継ぎになってしまうこと、私は申し訳なさを感じていました。詠さまの人生は詠さまの人生で、絃さまの娘としての人生である必要はないからです」
詠は絃の娘として生を受けた以上、遅かれ早かれ十月神社を継ぐ運命にあったのだろう。だが、それは十月神社の事情に過ぎない。世の中には、家業を継ぐことが嫌で、家を出る人も少なくない。だからこそ、式守は詠が本当に十月神社を継ぎたいと思っているのかどうか、十月神社という存在が詠の意志を潰していないか、不安だった。
「ですから、詠さまが心の底から十月神社のことを思っていただいている、それだけで本当に喜ばしい限りでございます」
「……」
「色々と話しましたが、詠さまが選択した道に私たちが何か言うことはありません。ただ、詠さまの未来に幸せが訪れるのを願うだけです」
式守の言葉に、神社の皆も大きく頷いた。それが、十月神社の総意であるかのように。




