4.帰還
灰音が民家の中に入ってしばらくすると、先に犯人の意識が回復した。そして、警察が犯人を護送していった後に、焔の意識も回復してきたようだった。
「自分の名前言える?」
「…熾火焔です。」
「正常そうだね。」
焔がゆっくりと立ち上がる。焔の意識に特に問題は無さそうだ。
「えっと、すみません。状況がよくわからないのですけど、事件はどうなったのですか?」
「犯人は護送中。焔は人質の子に発現した霊魂術をもろに受けて、倒れていたって感じ。」
焔は灰音の言葉をゆっくりと理解した。
「…なるほど。灰音さんが人質の性別を尋ねた理由、こういうことだったのですね。」
「そうだけど、これは非常に稀な例。あまり気に病むことないよ。」
正直、精神干渉耐性を持っていないのであれば、直霊の熟練捜査員でも焔と同じ状況になっていた可能性が高い。無警戒の人物から突然放たれる霊魂術ほど、怖いものはないのだから。
「でも、それ以前に私、何もできませんでした。犯人の制圧も灰音さんが一人で…」
「焔は凶悪な犯人を前にしても、臆することなく立っていた。初めにそれができれば、十分だよ。」
「そうなのでしょうか…」
焔は下を向いた。
「ほら、いつまでもめそめそしていたら駄目だよ。」
灰音は焔の背中を叩く。直霊の捜査員たるもの、自信に満ち溢れ、皆を安心させる存在であるべきである。もっとも、これは精神が衰弱しているときほど、精神干渉の影響を受けやすいという理由もあるのだが。
「わかりました。ところで、人質の子ってどうなったのですか?」
「橘くんが直霊本部まで送ってくれているよ。霊魂術が安定するまでは、直霊で面倒見ることになるかな。」
「その後は、どうなるのですか?」
「うーん…」
一般的に、霊魂術者は三種類に分けることができる。一つは、灰音たちのように直霊として世のために霊魂術を使うもの。二つは、直霊の管理下で暮らすもの。三つは、霊魂術を持つことを隠しながら、静かに生きるもの。
要するに、霊魂術者と判明した人物を直霊が放っておく選択肢はない。術者だと判明した時点で、普通の生活はできず、直霊として働くか、直霊による軟禁状態で生きるかの二択になってしまう。ちなみに、これは術者が人を脅かす危険性だけが理由ではない。
世の中には、霊魂術を利用したい悪意に満ち溢れた人物が多く存在するのだ。つまり、直霊は悪意を持つ術者を淘汰しなければいけないだけでなく、術者が悪意に晒されることも阻止しなければいけない。ゆえに、善悪関係なく全ての術者は直霊の手が届く範囲に置いておく必要があるのだ。
ちなみに、直霊による軟禁状態の下で暮らす選択肢を取る人は滅多にいない。というか、未だに前例がない。縛られて生きるよりは、直霊として伸び伸びと活動する方が良いということだ。直霊における仕事の全てが、危険と隣り合わせというわけでもないことも大きいだろう。
「数年後には、焔の後輩になっているかもね。」
「え、それなら嬉しいですね…」
焔は笑みを零した。少し元気が出てきたようで、安心である。
「さて、じゃあ私たちも直霊本部に戻ろうか。」
「はい!」
焔の元気な返事に、灰音も笑顔を見せる。その後、二人を乗せた車が直霊本部へと向かっていった。初めての事件にしては、正直重すぎる内容だったと思う。ただ、この事件が焔の確かな成長の糧となるはずだ。
直霊本部に到着して、車を降りた先には、軍服のような衣装を身に纏う女性が二人を待っていた。腰に二本の刀を装備していることから、一般人ではないのは一目瞭然である。
「お、おかえり、灰音。今回は災難だったね…」
「あれ、私の帰りを待っていたの?珍しいね。」
「い、いや、その何というか…」
灰音と会話する女性はどこか口籠っている。初対面の焔を見て、緊張しているようだ。いわゆる人見知りである。
「灰音さん、こちらの女性は?」
焔が灰音に尋ねた。
「この人は八剱椿。一応、私の同期だよ。」
「え、この人があの八剱椿さんなのですか?」
焔は啞然としている。今日一の驚きといったところだろうか。無理もない。なぜなら、八剱椿という名前は、直霊における最上位術者として有名なのだから。
「は、はい。私、八剱椿です…」
椿は自信無さそうに返事をした。現物の椿に、焔は困惑しているようだ。この弱々しいやつが直霊で一番強いはずがない。そのような顔をしているように見える。
「えっと、私は新人の熾火焔です。よろしくお願いいたします。」
「よ、よろしく…」
焔の声には動揺が現れている。現実を受け止め切れないとは、まさにこのことであるだろう。しかし、これで驚いていたら、その先が心配である。
「それで、椿。要件はさっきの立て籠もり事件でしょ?」
「う、うん。発現した霊魂術の情報詳しく教えて欲しい…」
「うーん、自分の感情を他者にも共有する術ってとこかな。和の伝達術だと思う。」
テレパシーに近しい術であれば、おそらく他者の感情を自分に取り込むこともできるだろう。和魂は他人との調和に対応している。基本的に一方通行のような術とは考えにくいということだ。もちろん、これは椿にわざわざ言わなくてもわかっていることである。
「あ、ありがとう…」
「それで、椿。肝心のその子は今どういった感じ?橘くん来たでしょ?」
椿は首を横に振った。
「…まだ来ていない。」
時が一瞬止まるような感覚が、灰音たちを襲った。
「え?橘くん、私たちより先に出発していたよ?」
灰音にも動揺が見え始めた。焔の意識回復を待っていた時間を考慮すると、灰音たちが先に到着するはずがないのだ。
「噓じゃない。私、灰音から連絡もらった後、橘くん待ってずっと入口にいた。灰音たちの前には、誰も来ていない…」
椿の言葉で、灰音は黙り込んでしまった。その緊迫感が椿と焔にも伝わってくる。
「渋滞とか、迷子という可能性も…」
焔は空気感に堪え切れず、恐る恐る切り出した。
「もちろん、その可能性がないわけじゃない。むしろ、そうであってほしい。」
しかし、灰音には只事ではないことがわかっていた。ここまで遅れる場合は、橘は必ず連絡を欠かさないはずなのだ。そして、連絡がないということが意味するのは、連絡ができない状況にあるということである。
「と、とりあえず橘くんに電話かけてみたら?」
「確かにそうだね…」
椿の言葉に灰音は少し冷静を取り戻した。頼むから電話に出てくれ、そう願って灰音は携帯で橘に電話をかける。
ところが、無情にも応答は一向にない。そして、空気が再び落ち込み始めたとき、灰音の携帯に一件の着信がきた。安堵する三人。しかし、携帯の画面に表示されたのは橘の名前ではなかった。
「七瀬さんからだ。向こうから連絡してくること、滅多にないのに…」
灰音は携帯を耳に当てる。そして、七瀬からとある報告を受けた。徐々に、灰音の表情が曇っていく。その後、灰音は通話を終えて、携帯をしまった。
「灰音さん、何の電話だったのですか?」
焔が即座に尋ねた。
「二人とも、落ち着いて聞いてね。」
灰音は小さく呟いた。椿と焔がゆっくりと息を呑む。
「…橘くんが死んだ。」
灰音の一言で、椿と焔は言葉を失った。何故だろう、想定外の出来事に想定外の出来事が重なってしまうのは。まだ事件は終わっていない、むしろ本当の事件はここから始まるのかもしれない。