35.心願
時刻は午後七時、場所は十月神社から少し離れたところにある浜辺。そこは『国譲の浜』と呼ばれる神様の玄関口である。
神在大祭前日の夜、国譲の浜では『神招神事』が執り行われることになっている。これは全国の神々を十月神社に招き入れる行事、つまり神在大祭の幕開けを意味している。
鳴り響く高らかな笛の音。光となるのは風で揺れ動く炎のみ。仄暗い闇に包まれる中で、神職が身に纏う白の装束に目を奪われる。
神職の代表として、宮司である詠が前に出る。直後、祝詞の奏上を始めた。その間、詠の声以外には何の音もない。ただ、詠の言葉に集中して耳を済ませる時間が続いている。
その後、奏上が終わると、詠と共に他の神職もお辞儀をする。詠たちの目の前には、神籬という二本の木が配置されている。その神籬を一時的な依代として、神を招き入れるのだ。
そして、神籬は絹垣で囲われた後、十月神社の神楽殿へと運ばれていく。その神籬を迎えるのは、優美な雅楽と巫女によるしなやかで躍動感に溢れる神楽。それは、神々への盛大な持成しであるのだろう。
「詠さま、お疲れ様でした」
神招神事を終えた後、式守が詠に声をかけた。
「うん、一般参列がいないとは言っても、緊張はするものだね」
「明日は大丈夫そうですか?」
「もちろん。今年の神在大祭は、私が宮司になってから、最初の開催。それは、多くの方々に私を宮司として認めてもらう日だと思っている」
神在大祭は、宮司としての詠の初大舞台でもある。
「絶対に成功させるよ」
「その心意気があれば、皆様もきっと……」
詠の確固たる言葉に、式守は大きく頷いた。
一方、国譲の浜の近くにある丘の上には、二人の人影があった。
「さっきの紙を読み上げていた子が新しい宮司?」
浜の方を見下ろすように、薫が想に尋ねた。
「はい、先代の娘です」
「ふーん。それで、確認だけど、結局はその子を殺して奪うってことで良いのだよね?」
「悩みましたが、それが最も早いと思います」
夜風が当たる中で、二人の会話が続いていく。
「……想にしては、珍しいね」
「もちろん、年若な女性を殺すのは趣味ではありません。しかし、平和的に奪おうとして、痛い目を見ていますから、仕方ないということです」
想は少し溜息を零した。
「それに前回、私はあの子から明確な殺意を感じました。実際、普通の人間ならば、死んでいたと思います」
「私もあのときは大分焦ったな……」
「だからこそ、人に殺意を向ける意味を教えてあげるのが、大人の役割だと思うのです」
想の冷たい目が、浜辺の方を見つめている。
「えっと、水を差すようで悪いけど、想は今何歳だっけ?」
「二十一ですが?」
薫からの急な質問に、想は目を丸くしている。
「うーん。じゃあ、あの子と言うほど年変わらないと思うよ?」
「……細かいところは気にしなくて良いです」
想は少し不服そうな表情を浮かべる。
「ごめん、ごめん。ところで、直霊は張っていると思う?」
「直霊がいたとしても、やることは同じです」
「それもそうだね。まあ、伊蝶に頑張って暴れてもらうことにしよう」
伊蝶が注目を引き付けているうちは、想たちが伸び伸びと行動できるというわけである。
「正義の味方というのは守るものが多いですから、大変そうですね」
「へえ、意外。直霊のことを正義だと思っているの?」
「別に、私たちが悪だと言っているわけではないです。そして、正義を原動力とする集団など、恐れるに足りません。人の力を引き出すのは、いつの世も私欲ですから」
その後、夜は更けて、時刻が零時を回る。
神在大祭当日の早朝、十月神社には七瀬と紫苑も合流したようだった。
「紫苑、久しぶりだね」
「はい、お久しぶりです」
灰音は七瀬の横にいる紫苑に微笑みかけた。それを受けて、紫苑が少し頭を下げる。なお、七瀬と紫苑にも、配置や神在大祭の情報などは事前に伝えている状態である。
「確認ですが、『心願の儀』の最中に敵が現れる可能性が高いってことで合っていますか?」
紫苑が灰音に尋ねた。心願の儀とは、神様に願い事を聞いていただく、神在大祭の主となる行事である。無病息災、商売繫盛、勝負必勝など、何を神様に祈るかは人それぞれである。その中で、共通しているのは、誰もが幸せな未来を望んでいるということだ。自分または大切な人たちの。
また、願い事とは決意表明という側面も持っているのだろう。神様に幸せな未来を実現してもらうのではなく、自分で幸せな未来を切り開いていくという覚悟を示す場、それが心願の儀なのかもしれない。
「おそらく。単純に本殿に人が近づく時間だから、紛れるのは簡単だろうね。それに、神職が本殿に出入りするから、神職に変装することもできる」
「なるほど。神職に操作術をかけて、神器を奪うこともできそうですね」
「うん、そうだね」
ちなみに、心願の儀は全て本殿の中で実施されるので、一般参列者が立ち会えるというわけではない。よって、一般参列者は本殿の周囲で祈りを捧げることになる。そして、これが神在大祭の期間中、毎日開かれるのだ。
「さて、そろそろ一般の参拝客が神社を訪れ始める時間だ。私たちも備えよう」
それから、灰音たちは解散して、各自の場所で待機を始めた。七瀬と紫苑は本殿の手前にある拝殿付近、椿は詠のいる本殿入口前、灰音と焔は本殿裏の神職住居付近ということになっている。また、千里は完全に自由である。
その後、拝殿付近では、待機中に会話をする七瀬、紫苑、千里の姿があった。
「……なるほど。千里の心配事は概ね理解した。紫苑、そして狛を連れてきたかった理由も」
どうやら、七瀬たちは電話の続きの話をしていたようだ。
「直前に関係ない話をしてすまない。紫苑も余裕があったらで、構わない」
「わかりました、善処します」
千里の言葉に、紫苑が頷いた。
「では、余は入口の方の参道辺りで息を潜めていることにしよう。それらしき人物を見かけ次第、連絡する」
「わかった、期待している」
そして、千里は七瀬たちの元を離れていった。
しばらくすると、境内に一般の参拝客が姿を現し始めた。神社に人が続々と参入する中で、心願の儀までの時間は刻一刻と過ぎていった。




