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幽世の花嫁  作者: さざれ
現世と幽世
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 そうして、二人の奇妙な婚約生活が始まった。

 しかし沙羅は、優柔不断さゆえに押し流されて頷いてしまったものの、この婚約関係に早くも不安を抱いていた。

 〈みたまの緒〉は、震えることで〈音無しの鈴〉を鳴らし、鈴の持ち主を緒の持ち主のもとへと導く。その道程は現世と幽世の境を渡るもので、緒の持ち主に不測のことがあって辿り着けなければ、そのまま幽世に迷い込みかねない。雪斗は危険を冒して沙羅を助けに来てくれたのだ。

 沙羅の傍にいる限り、雪斗はこれからもこうした危険に遭うだろう。本人は幽世に関わることを了解しているが、それでもやはり、巻き込んでしまうという思いが消えてくれない。

 沙羅はそうして雪斗に危険を冒させたのに、彼はその後、気を失った沙羅のために車を呼び、東鶯邸まで連れてきてくれたのだ。重ね重ね申し訳ない。

 上ノ杜にある東鶯邸から壬堂の家までは車で一時間くらいかかるそうだ。沙羅が驚いたことに、東鶯邸には車があり、専属の運転手が雇われていた。楠乃瀬の家は相当裕福なようだ。

 壬堂の家の電話を勝手に使ってしまったと雪斗は詫びていたが、恐縮すべきはもちろん沙羅の方だ。高価な乗り物に、ずぶ濡れのまま乗せられたと聞いたときは申し訳なさで身が縮こまった。もっとも楠乃瀬家の人々は気にした素振りもなく、それが沙羅を気遣ってのことなのか、お金持ちゆえの鷹揚さなのかは測りかねた。

 一通りの事情を聞き、沙羅はその日を雪斗と多鶴の厚意に甘えて東鶯邸で過ごした。その間にも二人はいろいろと手配を進めていてくれたらしく、翌日、雪斗に送ってもらって家に戻ると、楠乃瀬家に雇われたという人が何人も来て風雨で荒れた屋敷を片付けてくれた。雪斗は葬儀の段取りまで整えてくれて、いくらなんでも甘えすぎだと沙羅は恐縮したが、恩を返す機会だからと雪斗は押し切った。

 婚約しただけの相手にここまでしてもらって申し訳ないと負い目を感じていたら、頼ってもいいのだと雪斗から優しく言われ、沙羅は不覚にもどきりとした。その後で「沙羅さんはまだ子供なんだから、大人を頼っていいんだよ」と言われたことで何とも言えない気持ちになったのだが。

 だが、庇護者の存在は確かに有難かった。芙美の喪失を思いきり悲しむことができたし、葬儀という危険な場を幽世の方に引きずられることなく――参列者を巻き込むことなく――乗り切ることができた。沙羅ひとりだったら無事には済まなかっただろう。今更ながら、雪斗がいなければ自分はどうしていたのだろうと沙羅は考え込んだ。

 芙美が沙羅の婚約を勝手に整えたのは、沙羅が頼りないからなのか、そして、それとも……

 沙羅の思考をよそに葬儀は終わり――同時に雪斗が沙羅の婚約者としてお披露目されたような形にもなってしまい――、方々からやってきた客を相手に、芙美が受けた依頼の引き継げるものは引き継いだり、無理なものは心当たりを紹介したりお金で話をつけたりと慌しく過ごし、気付けば梅雨が終わっていた。森の緑がいっそう眩しくなる季節だ。

 そして二人は今日、薬草を採取するために上ノ杜の奥の方へ来ていた。すでに背立山の裾野あたりだ。

「…………」

「……沙羅さん? 何か?」

 じっと見上げると、視線に気付いて雪斗が首を傾げた。沙羅の身長は平均的だが、雪斗は背が高い方だ。しぜん見上げる形になるのだが、身長差や年齢差が何だか悔しくて、視線がじっとりしてしまう。梅雨も終わったというのに。

「……いえ、特には。ただ、雪斗さまがすっかり壬堂家の婿のように扱われてしまっていて、大丈夫なのかしらと思ってしまって」

 婚約は受け入れたが、形だけのものと思っていた。沙羅には結婚できない理由があるのだし、雪斗とて婚姻まで望んでいるかどうかはっきりしない。してもいい、くらいは思っていそうだが、どうなのだろうか。

「楠乃瀬のおうちに、迷惑になっていなければいいのだけれど……」

 忙しさにかまけて、挨拶さえ欠いているのだ。芙美の整えた婚約の非常識ぶりに、沙羅は何度目になるか分からない溜息をついた。

 そもそも、楠乃瀬は名のある裕福な家だ。いくら次男とはいえ婿に出すような形になっていいものだろうか。沙羅が疑問を述べると雪斗はあっさりと頷いた。

「父も母も歓迎していますよ。僕のことを心配していましたから。家は兄が継ぐから、僕は家を出てもいいと」

「…………」

 客観的に見れば、雪斗はかなりの好条件を備えているだろう。幽世と関わりのある者であることは措いておいて、資産はあるが跡継ぎではなく、容姿がよく、性格も穏やかで優しい。

(わたくしに関わらなければ、この人にはふさわしい良縁があると思うのに……)

 沙羅の思考などもちろん知るよしもなく、雪斗はあたりを見回して言った。

「このあたりはもう背立山ですが……沙羅さんはよく来られるのですか?」

「ええ。少し登ることも多いのですが、今日はこのあたりの森で見つかる分だけ採ろうと思って」

 これから夏が本格的にやってくる。食べ物を傷みにくくするものや、消化を助けるもの、食あたりに効くもの、暑気あたりに効くもの……調味料や薬の材料になるものを優先的に採取しておきたい。

 慣れた手つきで薬草を同定し、芽や葉を摘み、枝を伐る沙羅を感心するような目つきで見ている雪斗は、もっぱら荷物持ちになっている。鎌や鋏といった採取道具、薬草を入れる籠、笊、紙包みなどだ。根を採取する予定はないと言いながら円匙なども用意した沙羅に雪斗は不思議そうな顔をしたが、もしかしたら使うかもしれないから、と沙羅に言われるままに袋の奥の方に仕舞った。

 雪斗は薬種商として薬に通じているが、実際に生えている薬草を見分けて採取する機会はあまり無いのだそうだ。

 とくに近年は洋薬の売れ行きがよく、そうした薬についての学びや、外国の人との交渉の比重が高まっているらしい。

「山道からはけっこう離れていますが……沙羅さんはいつも一人で?」

「ええ。おばあさまと来ることもありましたけれど、わたくし一人で用が済むときは」

 屈み込み、株の根元をかき分けて色を確認し、種類を同定しながら沙羅は答える。

 背立山は劫背連山の中でも人里に近い山だから、近隣の人が春には山菜採り、秋には茸狩りにと、なにかと来る機会の多いところだ。

 何気なく沙羅が話すと、雪斗も頷いた。

「たしかに劫背連山の中でいちばん親しまれているし、昔からの言い伝えも多いですよね。昔は背無山せなしやまと呼ばれていたのだとか」

「……ええ」

 頷きながら、沙羅の脳裏を疑いが過ぎる。

 芙美がこの婚約を整えたのは、やっぱり……

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