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沙羅は驚いて雪斗に問うた。伊達や酔狂とは思い難いが、かといって理由が思い当たるわけでもない。家族の沙羅に分からないことが、教え子だった彼には分かるのだろうか。
雪斗は言いにくそうに目を伏せた。
「僕は口付けで君を現世に引き留めましたが……君には衝撃が大きかったでしょう。婚約者としても失礼な振る舞いに違いないし、婚約者と知らなかったのなら猶更です。芙美さんはそれを狙ったのだと思うのです。ついさっき思い至ったことですが……」
口付けは息吹を通わせるという直接の効果だけでなく、衝撃を与えて、心を、魂を揺さぶる効果もあったのだということだ。雪斗は婚約者を守ろうとして口付けし、沙羅は何も知らずにそれを受けて動揺したのだ。
「魂振り、ということですね……」
沙羅の呟きに、雪斗が頷く。沙羅は瞑目した。
(おばあさま……)
仕組んだのだとしたら、あまりに性質が悪い。でも、効果があったのだから文句も言えない。幽世にとらわれそうになっていた自分を引き留めるには、たしかにそのくらいの荒療治が必要だっただろう。
「芙美さんは僕に、君の新しい家族になってほしいと書いていました。それが君を現世に留め続けるために必要なことだからと。僕は文字通りに捉えていましたし、まさか芙美さんに代わって家族になるという意味だとは思いませんでした。ですが、芙美さんご自身は、今回のことを予知しておられたのかも……」
自在に使える万能なものではなかったが、芙美は予知をすることもあった。沙羅に新しい家族を、ということの意味が、幽世に行ってしまう自分に代わって、という意味だった可能性は確かにある。
「家族……」
沙羅は他人事のように呟いた。
理由としては納得できる。血の繋がりだけでなく、心の繋がりも、現世のよすがとして大きなものだ。夫婦どうしは同じ血を持たないが特有の結びつきがあるし、親と継子との結びつきも、仲の良い同居人どうしの結びつきも、それぞれに得難いものだ。
社交的な性質ではない沙羅は親しい友人も持っていないし、芙美以外に強い結びつきを持つ人もいない。沙羅はいわば、一本の糸だけで現世に引き留められている凧のような状況だ。その繋がりが切れてしまえば、いずこともなく飛んでいってしまう。
だから家族を増やす――この場合は交代のような形になってしまったが――というのは有効な方策だ。納得はできる。できるのだが……
(ちょっと強引すぎませんか!? おばあさま……!)
唯一の家族である祖母を亡くした途端、強烈な印象とともに婚約者が――新たな家族になろうとする者が――現れる。結婚というものを、新たな家族を作る行為を、意識させられる。――仕組まれていたのだ。
「改めて提案するのだけど、僕は君との婚約を続けたく思います。沙羅さん、どうでしょうか」
雪斗は卓の上で手を組み、真面目な表情で沙羅を見た。直接的な言葉に、しかし沙羅は照れるより先に困惑した。
「……どうして、とお聞きしても? ……昨夜のことがあったばかりなのに……」
沙羅は厄介にしかならない。少し訳ありとはいえ育ちのいい青年を、自分に縛り付けたいなどとは思えない。異能についても、彼は眼鏡を使うことで抑えていられるようだし。
「だからこそです。沙羅さん、君は目を離したら、すぐにでも幽世へと攫われてしまいそうだ。黙って見過ごすことなど出来ません」
「え……っと、それは……」
沙羅は言葉に詰まった。確かに、それは自分でもそう思う。だが、だからといって他人を巻き込むことなどしたくない。自分が逆の立場なら見過ごすことなど出来ないが、かといって自分の立場から何を言えばいいかも分からない。
沈黙する沙羅に、雪斗は表情を和らげた。
「困らせるつもりはありません。とりあえず婚約は継続しませんか、そう提案しているだけです」
「ええっ……と……」
沙羅は口ごもりながら、自分に呆れていた。優柔不断で頼りない自分に。たとえ雪斗の言うような理由がなかったとしても、芙美は沙羅自身に知らせないまま婚約を整えたかもしれない。自分では何も決められない――現世への執着が少ないから。そう、自分のことはいいのだ。
(そっか……そういうことか……)
自分の考えが良くない方向へ行っていることを承知しながら、沙羅は一つの結論を拾い上げた。
「そのお話が、あなたにとって利になるなら、お受けします。あなたの仰る、おばあさまへの恩を返し終えたと思われたら、義理を果たしたと思われたなら、その時に婚約を解消しましょう」
真面目な顔で言った沙羅に、雪斗は呆気にとられた表情をした。ややあって苦笑し、前髪をかきあげて手の付け根を蟀谷に押し当ててぼやく。
「沙羅さん……君も大概ではないかと……多鶴が聞いていたら何と言うか……」
沙羅は首を傾げたが、独り言のようだったので聞き流す。
「では、楠乃瀬さま。それまでよろしくお願いいたします」
「僕のことは雪斗、と。話しやすいようにしてもらって構いません」
一回りも年上の男の人にそれはどうかと思ったが、沙羅はとりあえず頷いた。ふと思いついて、雪斗の空になっていた煎茶碗にお代わりの茶を注ぐ。雪斗は微笑んでそれを受けた。
酒杯のように茶杯を交わし、ままごとのような婚約が成る。口付けを済ませてから自己紹介をし、婚約の話はその前から出ていただなんて、順番から何から滅茶苦茶だ。
成り行きに苦笑しながら、沙羅は何気なさを装って雪斗に問いかけた。
「雪斗さま。おばあさまへの恩だけでなく、この婚約を続けたい理由がおありなのですね?」
「……!」
雪斗は目を見開いた。素直な反応に、沙羅は少し溜飲を下げる。何かを言おうとする雪斗を制して、言葉を続ける。
「分かっています。だからといっておばあさまへの恩のお話や、わたくしを助けたいというご厚意が嘘ではないことも」
それと同じだけ、世間一般の婚約のように、家同士の結びつきや相手への恋情を絡めたものではないことも分かっている。相対して話していれば、鈍い沙羅にもそのくらいのことは分かる。そうした理由からでなく、彼が婚約を維持したがっているということくらいは。
「それは……認めます。僕は、僕なりの理由もあって婚約を続けることを申し出ました」
雪斗は率直に認めた。やはり、と沙羅は彼の鼻を明かして得意げな気持ちになったが、続く言葉に顔を強ばらせた。
「それで、沙羅さん。君が婚約を破棄したがったのにも……理由があるのでしょう?」
「…………!」
雪斗は少し意地悪そうな表情で微笑んだ。
「他に思い人がいるとか、僕の家が嫌だとか、そうした世間並みの理由ではなさそうです。……合っているでしょう?」
「………………」
沙羅は沈黙したが、それは雄弁な肯定だった。
「解消前提の話をされれば、それくらいは分かります。でも僕だって、君を困らせたいわけではありません。話を受けてくれたのだし」
「雪斗さま……おばあさまは……」
「芙美さんが、何か?」
「いえ……」
芙美はあのこと(・・・・)を、雪斗に教えたのだろうか。沙羅が抱える秘密を。――結婚できない理由を。
確かめたかったが、藪蛇になっては困る。おいそれと明かすことができない秘密だ。
(少なくとも、見せてもらった書簡には、それを匂わせるような記述は無かったけれど……)
他の手紙やら、対面での会話やらで、どこまで彼に伝えられているのか――いないのか。この秘密を伝えずに婚約を整えるなんて詐欺もいいところだと思うのだが、芙美にはもしかして、他の意図があったのだろうか。
「…………」
「…………」
互いに秘密を胸に秘め、しばし見つめあう。そして、どちらからともなく表情を崩した。肩をすくめて雪斗は言った。
「ここまでにしておきましょう。なにも敵になるわけじゃなし、たがいに思惑があるなんて当然のことです。押し売りみたいで悪いけど、芙美さんへの恩義の分だけ、沙羅さんを傍で守らせてもらいます。目を離したとたんにいなくなった、なんていうのは嫌なんだ。絶対に」
きっぱりと言い切り、雪斗は煎茶碗を取り上げて茶を飲み切った。こくりと沙羅も頷き、雪斗に倣って碗に手を伸ばす。
ほどよい温度で淹れられたはずの高級な茶は、しかし苦みを舌に残して喉を通っていった。