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雪斗より先に多鶴が戻ってきて、沙羅に煎茶と半生菓子を出してくれた。菓子はもっちりと柔らかな生地の中に甘い白餡が入っているもので、季節を意識してだろうか、ほのかに梅の香りがする。
ここ数日は祖母につききりで、まともな食事も取っていなかった。食事をする時間さえなかったというわけではないのだが、喉を通らなかったのだ。だが、先ほどの重湯で空腹感を思い出した胃がきゅうっと鳴って早く早くとせっつく。沙羅は少し顔を赤くして失礼を詫び、ありがたく頂くことにした。
一つに手を伸ばすと、その甘さがさらに空きっ腹を刺激する。勧められるままに次々と食べて皿を空にしてしまったが、多鶴は喜んでお代わりを持ってこようと申し出てくれた。それはさすがに食べすぎだろうと辞退したが、久しぶりに満たされた心地になってしまう。
(わたくし……生きている……)
食べ物を腹に収め、沙羅はしみじみ思った。祖母を亡くしたばかりなのに菓子に喜んでしまう自分の身を疎んじてしまいたくなるが、そうやって切り捨てるのも罪深いことのように思う。生きているとどうしたって矛盾だらけだ。
沙羅が三杯目のお茶をゆっくりと飲んでいるあたりで雪斗が戻ってきたが、お菓子でお腹が満たされたことで気が緩んで、婚約など大したことではないとうっかり思ってしまいそうになる。沙羅は慌てて気を引き締め直した。
食器を片付けている多鶴に雪斗は声をかけ、
「少し込み入った話をするから下がってもらえるかな」
「…………お嬢さまに失礼のないように気を付けてくださいましね。沙羅さま、何かあったらすぐにお呼びくださいね」
多鶴は雪斗を咎めるように言ったが、命じられた通りに部屋を出ていった。多鶴の心配は、雪斗が沙羅に不埒なことをする可能性ではなく、無神経なことを言うかもしれない可能性に対してだろうということは沙羅にも分かった。前者の心配はないだろうと沙羅も思う。後者については考えるのを止めた方がよさそうだ。
「信用がないな……」
雪斗はぼやきつつ、持ってきた書簡を卓に広げた。沙羅の方に向けてくれたので、少し身を乗り出して覗き込んだ。
「拝見します。……確かに、これは……」
問題の書簡を視線でなぞり、沙羅は呻いた。間違いなく祖母の筆跡だ。字形は流麗なのに、少し字間が詰まってせっかちな印象を与える。性格がよく出ていると思う。
簡潔な文面も、日付を記すときのちょっとした癖も、祖母らしすぎて疑いようがない。書簡のなかで芙美は、雪斗が沙羅との婚約を承諾したことに礼を述べ、自分に何かあったときには沙羅を頼むと書いていた。日付がきっちり入っているうえに署名もあり、判も押され、正式な遺言状としても通用する体裁だ。
「僕はたしかに婚約を承諾しましたが……まさか、当の沙羅さんが知らされていないとは思ってもみませんでした」
それはそうだろう。沙羅も、当人抜きで進める婚約話があるなどとは思ってもみなかった。
(おばあさまらしいと言えば、そうなのだけど……)
決断力も行動力も沙羅とは比較にならなかった芙美は、優柔不断な沙羅をとろいと急かすこともよくあった。どっちが年寄りだか分かりゃしないと言われ、確かにと頷く沙羅に、こりゃ駄目だと言わんばかりに首を振った芙美の表情をありありと思い出す。信頼されていなかったとは思わないが、いつまでもふわふわと頼りない沙羅にしびれを切らした可能性は大いにある。
しかし分からないのは、雪斗の方だ。
「あの……どうして、楠乃瀬さまはこのお話を承諾なさったのですか? 祖母に恩義を感じていただけるのはありがたいのですが、ここまでのこととなると……」
沙羅は尋ねずにいられなかった。
自分で言うのも何だが、訳ありの厄介な娘だ。後ろ盾もなく、見返りが用意できるわけでもなく、面識すらないはずだ。いくら芙美に音があるからといって、二つ返事で引き受けていい話ではない。沙羅の厄介な体質のことは、鈴を預かったからには知っているだろうに。言葉は悪いが、祖母は彼をいいように使いすぎではないのか。
雪斗は穏やかに微笑んだ。
「確かに芙美さんに御恩があるからですが、それだけでもありませんよ」
雪斗は沙羅と目を合わせ、おもむろに眼鏡を外した。唐突な行為に昨晩のことを思い出してしまい、どきりと心臓が跳ねる。雪斗の顔立ちが整っていることも意識してしまうが、それよりも驚いたのが、
「色が……」
雪斗の黒橡色の瞳が、眼鏡を外すと紫紺の色に変わった。秋に色付く山葡萄の色だ。
雪斗は紫紺色の目で、沙羅の黒い目をまっすぐに覗き込んだ。
「僕の目は、普通の人には黒く見えます。いや、濃褐色かな。まあ、そうした一般的な色ですが、君や芙美さんには……」
沙羅は悟り、囁くように口にした。
「……分かったわ。あなたのその色は……幽世のものなのですね」
雪斗は頷き、再び眼鏡をかけた。眼鏡越しの瞳は元通りの黒橡色だ。
「そう。僕のこの瞳は、幽世を見てしまう。芙美さんからこの瞳がどういうものかを教えていただくまでは……大変でした。力を抑える眼鏡を下さったのも芙美さんです。教えを受けなければ僕はとっくに……自ら目を潰していたでしょう」
沙羅は息を呑んだ。かける言葉が見つからない。祖母に恩があると言ったのは、そういうことだったのだ。
「僕は好むと好まざるとに関わらず、幽世に関わってしまう人間です。普通の結婚はできないと諦めていました」
「それは……わたくしも同じです。結婚など……婚約など、考えたこともなかった」
芙美はそんな二人の事情を知っているから、婚約を整えたのだろうか。でも。
「あなたとわたくしとでは……危険の度合いが違いすぎます。わたくしは幽世に、つねに引き寄せられているようなもの」
見るもの、聞くもの、触るもの。沙羅の世界はごく自然に境界をなくしてしまう。まるで、そんなものは最初から無いとでもいうかのように。
雪斗の瞳のこともそうだ。多鶴のような普通の人なら、紫紺の色が見えない。芙美のように力ある術者なら、紫紺の色を見て幽世との関りを見破るだろう。しかし沙羅は、紫紺の色を見ることはできるが、どちらの世界のものなのか分からない(・・・・・・・・・・・・・・・・・)。
沙羅の世界には、いつも不吉な不確実さがつきまとう。自分が触っているこの卓は、本当に現世のものなのか。聞こえている音は、吸っている空気は、感じている気持ちは……。
「おばあさまに恩義を感じてくださっていること、わたくしとの婚約を承諾してくださったこと、本当にありがたいと思っています。でも、昨晩のことでお判りになったでしょう?」
危険すぎると。いくら恩義のためとはいえ、割に合わないと。
沙羅の心の一部は確かに、常に、幽世に惹かれている。求めている。そんな心のありさまなど他の人からすれば理解不能だろうし、言語道断だろう。巻き添えになるのは御免だと、誰もが言うだろう。
「婚約の話は無かったことにしましょう。整えてくださったおばあさまには申し訳ないですが、そもそもわたくしには知らされてもいなかったお話ですし。おばあさまもどこまで本気だったのか……」
沙羅は申し出た。引き受けた雪斗からは言い出しにくいだろうが、沙羅からの提案ということであれば角が立たないはずだ。
だが、雪斗は首を横に振った。
「芙美さんが君にこの話を知らせなかったのは……理由は多分、さっき分かりました」
「え!? それは、何ですか!?」