5
多鶴が少し戸に隙間を開けたまま部屋を出たところで、雪斗は懐から何か小さなものを取り出した。沙羅はそれを見て、思わず声を上げた。
「それ、おばあさまが持っていたはず。どうしてあなたが?」
雪斗が卓の上に置いたのは、胡桃大の鈴だった。上部の穴に組紐が通されている。沙羅には見覚えがあるものだ。
紐は稠密に組まれているが薄汚れており、鈴自体も変色して黒ずんでいる。銀製だと知らなければ、道に落ちていても小石と見間違いそうだ。
「芙美さんから預かりました。〈音無しの鈴〉というものだそうですね」
沙羅は頷いた。名前も知っているのなら、たしかに祖母が預けたのだろう。
「あっ……もしかして、あの場にあなたが来てくださったのは」
「そう。この鈴が鳴って、君の危機を教えてくれました。芙美さんのことは……本当に……」
雪斗は目を伏せてお悔やみの言葉を述べた。胸が詰まったが、沙羅もなんとかお礼を返す。
鈴は、雪斗に取り出されたときも、卓に置かれたときも、少しも鳴らなかった。彼がことさらに振動を抑えようとしていたわけではない。この鈴はもともと、中に玉が入っていないのだ。
「よろしければ、君が持つ〈みたまの緒〉も見せてくれませんか?」
鈴のことを知っているなら、当然そちらのことも知っているだろう。沙羅は頷いた。呪具であるから、おいそれと人に見せるものではない。だが、祖母が鈴を渡した人、さらに言えば危ういところを助けてくれた人の求めとあれば否やはなかった。
「分かりました。これです」
沙羅は少し袖を引き、左の手首に結わえ付けていた組紐を取り外した。
紐には銀製の小さな玉が付けられている。玉の端の方が平たくなって穴が開けられており、ごく小さなその穴に、途中で二股に分かれた組紐の細くなった部分が通されていた。
〈音無しの鈴〉と並べると、対になっていることがよく分かる。玉は鈴に入るとちょうど良さそうな大きさで、組紐の模様も対称だ。本来なら鈴の空洞の中に入るべき玉が外に出て、二つで一対の呪具を構成しているのだ。
「なるほど、これが……。持ってみても?」
「ええ。どうぞ」
雪斗は玉の紐部分を手に取り、しげしげと眺めた。
何の変哲もない腕飾りに見えるが、〈みたまの緒〉は来歴も分からないくらい古い呪物だ。幽世に関わりがあるということしか伝わっていない。持ち主が幽世に足を踏み入れるとき、玉は警告を発するように震え、〈音無しの鈴〉が鳴り響く。あるはずのない出来事が起きるとき、鳴らないはずの鈴が鳴るのだ。
芙美に言われて肌身離さずにいる〈みたまの緒〉だが、沙羅自身にとってはあまり意味のないものだった。多かれ少なかれ常に幽世と関わり続けているような沙羅だから、多少の震えは日常茶飯事、まったく気に留めなくなっていたのだ。昨日の夜など震えに気づきさえしなかった。激しい風雨の中でそれどころではなかった。
「……うるさかったでしょう?」
沙羅は思わず雪斗に聞いた。雪斗は苦笑して答える。
「うるさいというか……どきっとしますね。預かった当初はいちいち慌てて芙美さんに連絡を取ったものです」
沙羅も苦笑した。それは申し訳ないことをした。
「でも、どうしておばあさまは、楠乃瀬さまに鈴を預けたのかしら……」
沙羅は呟いた。独り言で、答えを期待したわけではなかったが、雪斗は身じろぎして口を開いた。
「そのことですが……君は芙美さんから、本当に何も聞いていないのですか?」
問われて思い返してみるが、まったく覚えがない。鈴を預けたなどという話は初耳だし、その相手が楠乃瀬家の次男だという話もそうだ。そもそも、雪斗の名前すら知らなかった。鈴は芙美の枕元にでもあるのだろうと思っていた。沙羅は首を振る。
「心当たりは何もなくて……」
沙羅の返答に、雪斗は長い溜息をつき、頭に手をやって項垂れた。「芙美さん……」と、小声でぼやいたのが聞こえた。
「あの……?」
「……失礼しました。沙羅さんには全く非のないことです。僕たちは芙美さんに、嵌められたようです」
「……嵌められた?」
沙羅は面食らって聞き返した。雪斗は重々しく頷く。
「そうとしか考えられません。だって君は、僕と婚約していることを知らされていないのでしょう?」
「…………こんやく?」
雪斗の爆弾発言に、沙羅の頭が真っ白になった。こんやく。こんにゃく、だろうか。まさか。
「こん……こんやく……婚約!? 楠乃瀬さまが、わたくしと!? 婚約、ですか!?」
沙羅の頭の中で疑問符が渦を巻く。
寝耳に水もいいところだ。沙羅に婚約者がいるというのなら、それが沙羅自身に知らされていないのはどういうことか。雪斗と面識がないのはまだいいとして――そうした婚約を結ぶのは身分のある人と相場が決まっていそうだが――名前や、まして存在すら知らなくていいなんてわけはない。そもそも、この人は独身だったのか。そこからして知らなかった。
驚き慌てる沙羅に、雪斗は再び苦笑した。
「芙美さんからの書簡をお見せした方がよさそうなので、持ってきます。少しお待たせしてしまいますが、お茶でもお飲みになっていてください」
言い置いて雪斗は立ち上がり、部屋を出ていく。その後ろ姿――婚約者だという青年の――を見送り、沙羅はしばし放心した。