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「もう少しで呼ばれてしまいそうになったけれど……雪斗さまが助けてくれたもの」
百合は少し顔をしかめた。
「雪斗がわたしの邪魔をするなんてね。小さい頃は可愛かったのに」
百合は雪斗の子供の頃を知っている。しかも、彼に思いを向けられている。そのことが悔しいし、腹立たしいし、他にも言ってやりたいことがある。
「どうしてあなたは現世を捨てたの? 雪斗さまは未だにあなたのことを求めているわ。おばあさまを置いていったのもひどい。娘に置いていかれた親の気持ちが分かるの? わたくしでは……あなたの代わりになんて、なれないのに」
和歌菜を失った洋蔵たちの嘆きを思い返すだけで胸が締め付けられる。あの痛みは記憶に新しい。
沙羅が百合であることが、沙羅を二重に苦しめた。百合のせめてもの代わりとして現世に留まらなければならないという思い。百合の代わりにしかなれないのだから心に従って現世から消えてしまいたいという思い。同じ根を持つ思いが、それぞれ違う方向に伸びていく。根を引き千切ろうとするかのように。
だが、それがいつしか、変わっていった。移ろっていった。
この体も魂も百合のもの……だからといって、この心までそうかというと、違う。沙羅という名前を与えられ、芙美をおばあさまと呼び、雪斗を想い、現世で生きてきたそのこと自体が、沙羅を形作っているのだ。そう、思えるようになった。
「わたくしは、普通の人間でも在れる。だってそうでしょう、悩んだり苦しんだり怒ったり、そういうのは……現世の人間だからこそだわ」
今なら言える。誰かに言われたから生きるのではなく、自分の意志で、現世を生きていきたいと。百合は怒ったように言った。
「悩んだり苦しんだり怒ったり、そんな現世のことが煩わしいと思わないの? そんな思いをしてまで、どうしてあなたは現世に留まろうとするの? わたしがどんなに幽世に焦がれたか分かる?」
百合は元々、危ういところのある娘だったそうだ。現世を厭い、幽世を求め、幽世に夢を見る。
浮世離れしている、と沙羅自身もよく言われるのだが、彼女のそれは少し意味合いが違った。沙羅に対する言葉には、世慣れていない、世情に疎い、そんな意味が多く含まれるのだが……彼女は本当に、目を離せばこの世から乖離していってしまうのではないか、そんな危惧を抱かせる少女だったらしい。あるいは、沙羅以上に。
「分からないわ。あなたの気持ちなんて」
沙羅は首を振るが、百合は意に介する素振りもない。
「怪我をすれば痛い、病気になれば苦しい、自分以外の誰かのことで悩み、日々の糧を得るのに奔走する……そんな現世が嫌になるのは当然でしょう?」
「…………それはわたくしだって、苦しいのは嫌だわ。でも……苦しいだけではないでしょう」
夏の朝に、朝顔の葉から滴る露のきらめき。頬を擽るように吹き抜ける風の匂い、空の青さ。
自然だけではない。日々の美味しい食事に、忙しさの中にある充足感。椅子の背もたれに体を預けてゆっくりと本を読む。誰かのために動いて感謝され、感謝を返す。想像もつかないくらいに大きく豊かな世界の中で、ほんの一欠片ずつ、意味を加えていく。
「わたくしの話す言葉の一つにも、身の回りの物ひとつ取っても、眩暈がするほど豊かな積み重ねがある。そうしたものを捨て去ってしまうには――わたくしには、大切なものが多すぎるの」
そう思わせてくれる青年の姿を脳裏に描きながら、沙羅は言った。
言いながら、少し笑ってしまう。幽世に消えるならそれでいいと諦めていたのに、いざその段階になると、現世を求めてしまう自分に。生きたいと思う心は沙羅の中にもあったのだ。
もうすぐ、沙羅の体は百合が消えた年齢に追いつく。芙美の死は何とか乗り越えられたが、その年齢を無事に乗り越えることは、おそらく不可能だと思っていた。だから雪斗にはあのように言ったのだ。その時が来てしまえば、弔いは無意味になる。なにしろ百合自身が帰ってくるのだから。
その時期が早まったのは、祭という特異な場があったからだろう。それと、婚約はしても結婚はまだだという宙ぶらりんな立場もよくなかった。形式上でも、実際上でも、結婚していればきっとこうはならなかっただろう。
「雪斗とまだ結婚していなくて、わたしの体がまだわたしだけのもので良かったわ。あなたの言う豊かさなるものは、煩わしさと同義だわ。わたしは、この体は――若いまま永遠に暮らせるのよ? 何も思い煩うことなしに。どうして、それを望まないの?」
沙羅は、百合を見つめた。自分と同じ――だが、決定的に異なる少女を。
沙羅がそう望むのなら、おそらくは百合の言う通り、幽世の楽園で永遠に暮らすことができるのだろう。心を現世に返し、しかし体だけは百合として保ったまま。
だが、沙羅は、現世で過ごした十七年が大事だ。失えない。芙美たちの思いを、様々な経験を、そして未来を――諦められない。この命が――惜しいと思う。
「わたくしは、沙羅。百合ではないの」
諦めない。自分を。
「……それにね」
沙羅ははにかんだ。
「幽世には――雪斗さまが、いないから」
そして、世界が鳴動した。




