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幽世の花嫁  作者: さざれ
花の色
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 一面の花野のただなかに立って、沙羅は瞬きをした。青い空に、爽やかな風。飛び回る蝶。立ち昇る花の香り。これは……百合の花だ。

 花を掻き分けるように歩を進め、沙羅は遠景の山並を見上げた。判で押したように同じ形の山が、野を取り巻くように並んでいる。劫背連山ではなく、背立山だけを取り出して増やしてみせたかのようだ。もしかしたらその中に背無山も紛れているかもしれないし、どれもが背無山なのかもしれない。分からない。ただ一つ、確かなのは――

「ここは、幽世だわ」

 何ひとつ確かではない世界。非現実の夢幻郷。危険と魅惑が紙一重の魔境。

「わたくしは確か、手品を見ていて……」

 手品師が繰り広げる手品の数々に幻惑され、いつしか現と幻の区別がつかなくなり、こうして幽世に紛れ込んでしまったというわけだ。

 もしかして、祭という場を楽しみ過ぎた――馴染み過ぎたから、というのもあるかもしれない。

(ちょっと、食べ過ぎだったかしら……)

 反省してみるものの、それこそ後の祭りだ。

「まずは、ここから出ないと」

 そう思える自分に安堵しながら、沙羅は辺りを見回して歩き出した。

 幽世で最も恐ろしいのは、現象そのものではない。心を失ってしまうことだ。あるいは恐怖して、あるいは魅了されて、あるいは諦観によって。

 あの雨の夜に、沙羅は危ない状態にあったと雪斗に語ったことがある。雪斗は信じていないようだったが、本当のことだ。あの時の沙羅は諦めていた。

 だが、今は違う。喪失感に苛まされていないし、現実感を失っていない。だから大丈夫。

(大丈夫だから、少しだけ……)

 花野の美しさに、そんなふうに気持ちが流れてしまいそうになる。のどかな野原で、少しだけ遊んでいきたい。少しくらいいいではないか。

 しかし心が一度それを許すと、大変なことになりかねない。一眠りで百年が過ぎ、夢幻郷で遊ぶうちに知り合いが一人残らず世を去っていた、などという事態になってもおかしくない。沙羅は惜しく思う気持ちを押し殺して、辺りを注意深く観察しながら歩き出す。


「百合さん!? 沙羅さん!!」

 月が翳るのと同時に、少女の姿は幻のように掻き消えた。大声を上げた青年に、近くを通りがかった人々が訝しげな視線を投げる。雪斗はそれに気づく余裕すらなく、少女が消えた虚空を呆然と見つめた。

(一体、何がどうなっているんだ)

 その場から離れがたく、雪斗は道の端に寄って木に凭れた。ややあって再び月が顔を覗かせたが、消えた少女は現れない。調子の外れた楽の音が、人々のざわめきが、手品師の口上が、気持ちをささくれ立たせる。人の気も知らないで、何を呑気にしているのかと八つ当たりをしたくなる。

(……あれは、確かに百合さんだった。でも、その前までは確かに沙羅さんだった)

 まるで硬貨の表と裏のようだ。瞬間的に入れ替わり、しかし形は変わらない。手品師の扱う硬貨のような、裏側の知れない満月のような……

「坊主、一人か? 嬢ちゃんはどうした」

 偶然、巌が通りかかった。足元に子供を纏わりつかせている。彼の孫だ。

「沙羅さんは……」

「おいおい頼むぞ、逸れたなんて言ってくれるなよ。祭で羽目を外す奴は多いんだから」

 そう言う巌の手にも徳利が握られているが、突っ込むことをせず、雪斗は黙り込んだ。

「…………」

「……どうした? 何かあったのか?」

 深刻な様子の雪斗に、巌が案じるような顔をし、子供が怯えたような表情をする。雪斗はつとめて表情を和らげ、懐から小銭を出して小遣いを握らせた。

「好きなものを買っておいで。迷子にならないように、おじいちゃんが見えるところで食べるんだよ」

「うん! ありがとう!」

 子供はぱっと表情を明るくすると、元気よく駆け出していった。

 それを見送り、巌に軽く頭を下げる。

「すみません。勝手なことをして」

「いいさ。小遣いをありがとよ。……話があんだろ?」

 巌は木の根元にどっかりと腰を下ろした。雪斗もそれに倣う。

「単刀直入に伺いますが……沙羅さんには、父親がいないのですね?」

 それは今更の問いだった。だが雪斗は、言葉通りの意味で尋ねている。それを巌も理解した。

「何を馬鹿なことを、って言えたらいいんだが……」

 徳利に直に口を付け、一口飲んで巌は続ける。

「あの家に限っては分からねえ。嬢ちゃんが生まれた以上、誰かいたはずなんだ。だが、百合嬢の周りに、男がいたような気配なんてなかった。坊主にも分かるだろ?」

「……僕がいた時のことは。でも、沙羅さんが生まれる前に修行に出て、その後のことは聞いていませんし……」

 芙美のもとに身を寄せていた雪斗は、とうぜん巌とも昔からの知り合いだ。

「坊主が出てく前も後も変わらねえよ。男なんて周りにおらんかったし……身籠っていた様子もなかった」

「…………!」

「本当のところは何も分からねえ。嬢ちゃんは百合嬢にそっくりだから、実の母子だとは思うんだが。妊娠を隠していたとしても、男の俺には分からんとしか言えんしな」

「……でも、確証はないと」

「駆け落ちなのか神隠しなのか他の何かなのか、百合嬢は行方を晦ました。先代が赤子を連れ帰り、この子は沙羅と名付けた、娘は亡くなったとだけ言った。俺が知ってるのはそんだけだ」

 雪斗の背中を冷や汗が伝った。

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