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幽世の花嫁  作者: さざれ
雨夜の妻問
4/47

4

 ――骨ばって大きな、温かい手だった。

 行くな、と叫び、命を吹き込んだ口だった。

 通い合う息が、折り重なる体が、温かかった。幽世の雨に濡れた体がいつしか熱を吹き込まれ、現世に呼び戻された。

 小さいときならいざ知らず、芙美とすら触れ合うことなど日常生活ではあまり無かった。看病をしたり、手を取ったりしていた最近の方が普段通りではなかっただけだ。

 だから知らなかった。若い男の人の体がこんなに大きくて、熱くて、力強いものだとは。


 沙羅の表情が凍り付いた。目の前に、昨夜――もう遠い昔のように思えるが、まだ一晩しか経っていないのだ――沙羅の唇を奪った青年がいる。

 記憶が一気に蘇ってくる。芙美を看取った後、呼び声に誘われるままふらふらと導かれて、中庭の虚空に手を伸ばした――その、後のことも。

 青年の唇を凝視し、自分の口元を押さえた沙羅を見て、多鶴が静かな迫力をにじませて青年を問い詰めた。

「坊ちゃま。説明してくださいますね? お嬢さまに何をなさったのか。お嬢さまは楠乃瀬の次男と聞いても何の心当たりもないようでしたわ。まさかとは思いますが、名乗りもせずに無礼を働いたのではございませんわね? そんなふうにお育てした覚えはありませんが」

「いや、そんな……」

 青年は分かりやすく狼狽した。だが、焦って困ってはいても、後ろめたそうな様子はなかった。

「名乗るいとまもなかったんだ。無礼をしたのは事実だが、彼女を助けるためだ」

 とくに高くも低くもない、柔らかい印象の声だった。夜に聞いた緊迫した声とはだいぶ印象が違うが、たしかにこの声だ。

 沙羅は改めて青年を見上げた。二十代の前半くらいだろうか。やや長めの髪には少し癖があって、柔らかく額にかかっている。顔立ちは整って、どこか中性的で異国めいた雰囲気だ。洋装と、枠の細い眼鏡がよく似合っている。洗練されているのは、京の人だからだろうか。

(……? 瞳の色が、違う……?)

 間近で見たからよく覚えている。昨夜の青年の瞳は紫紺の色だったはずだ。だが、目の前の青年の瞳はごく一般的な色だ。黒というには少し色が淡いようだが、それでも違和感を与えるほどではない。

(眼鏡に色がついているわけでもないし……別人ではないと思うのだけど……)

 まじまじと見つめると、青年は困ったように苦笑した。はっとして無礼を詫び、たがいに席について挨拶を交わす。

「失礼いたしました。わたくしは壬堂芙美の孫、沙羅と申します。御厄介をおかけして申し訳ありません」

 先方はどうやら沙羅のことを知っているようだが、他に名乗りようもない。状況も今一つ分からないが、多鶴によくしてもらったのは事実だ。沙羅は頭を下げた。

「あの……祖母のお知り合いでしょうか?」

 尋ねると、青年は頷いた。

「芙美さんは僕の恩師です。最近はご無沙汰していましたが。知り合いどころではない、僕からすれば命の恩人……その御恩は君に返すつもりです」

 とつぜん言われて、沙羅はいっそう困惑した。芙美が手広く色々なことをしていたのは知っているし、人にものを教えることもあったと聞いている。青年の話も頷けるのだが、それにしても唐突に過ぎる。

(おばあさま……説明してくださってもよかったのに……)

 病に倒れる前から、芙美はさまざまなことを沙羅に教え、引き継がせていた。その内容の中には芙美の豊富な人脈についてのこともあったが、この青年のことを聞いた覚えがない。楠乃瀬の人々の作り話だとは思えないのだが、それにしても解せない。

「おばあさまを恩人とまで言ってくださる方なのですから、疑いたくはないのですが……昨夜の、その、あれは、どういう……」

 青年は少なからず、幽世に関する知識のある人なのだろう。幽世に囚われかけた沙羅の状況を理解していただろうことは疑いない。だが、それなら手を握って引き留めるだけでよかったのではないだろうか。

 沙羅が口ごもると、卓の横に控えていた多鶴が眼差しを険しくして青年を見た。青年は少したじろいで多鶴に目をやり、沙羅に向き直って口を開いた。言いにくそうに、しかし真面目な表情で説明する。

「口は息が通う場所、魂が通る場所です。たとえば、くしゃみをすると魂が抜けてしまうなどと言い伝えられているでしょう。医術で、息の止まった人の口に息を吹き込み、蘇生させる方法もあります。口付けにもそのような意味が……」

「坊ちゃま!」

 沙羅が顔を赤くして俯くのと同時に、多鶴がたまらずといったように声を荒げた。

「坊ちゃまはよしてくれ」

「いいえ、女性の心を慮ることもできないお子様など、坊ちゃまで充分ですわ。充分すぎるほどです。ぼく、いくつになったの?」

 多鶴は使用人ということだが、雇い主側の者に対してあまりにあまりな言い草だ。だが青年は咎めることをせず、それどころか苦虫を噛み潰したような表情で恨めしげに多鶴を見やった。そのやりとりだけで多鶴と青年の力関係と関係性――母や姉といった家族のような――が垣間見え、沙羅は思わず吹き出した。同時に、吹っ切れた。

「お話は分かりました。助けてくださって、あらためて有難うございます。お年ではなく、お名前を伺っても?」

「名乗っていませんでしたね。失礼しました。僕は楠乃瀬雪斗。ついでに言うと、二十九歳です」

 沙羅は少し驚いた。二十代前半くらいに見えていたが、二十九歳とは。十七歳の沙羅よりも一回り上だ。

 それでは確かに、口付けひとつにいちいち動揺したりはしないだろう。釈然としないが、それを訴えても仕方ない。

 沙羅は頭を下げ、この場を辞することにした。

「本当にありがとうございました。あいにく立て込んでおりまして、お礼は追ってお送りさせてください。不祝儀の後ですから、少し遅れてしまいますが……」

「待った、ちょっと待ってもらえませんか」

 雪斗に引き留められ、沙羅は上げかけた腰を下ろした。早く屋敷に帰って片付けをし、祖母を弔わなければならないが、別に一刻を争う急用ではない。祖母を放っておいたままなのが心苦しいが、世話になった人たちを無下にはできない。

 腰を下ろし、話の続きを待つが、雪斗は何やら言いあぐねているようだ。多鶴の心なし冷たい声が横から飛んできた。

「まずはお詫びをおっしゃい。理由はどうあれお嬢さまに無理強いして、事務的な説明で済ませようとするなんて……男の風上にも置けませんわ」

「あー……それは……申し訳ありませんでした」

「何のことで謝っているのかはっきりさせなさいな。行為に対して謝るのは重ね重ね失礼ですわ。説明を怠ったことについて謝るべきです」

 多鶴の言葉に遠慮がなくなってきている。沙羅は思わず同意して頷きそうになるのを堪えた。

「すみませんでした。最初からきちんと説明すべきだったのですが……」

 雪斗が物言いたげに多鶴を見る。話が初っ端からおかしくなったのは多鶴の問い質しのせいだと暗に非難しているようだが、多鶴は視線を真っ向から受け止め、目を眇めて見返している。雪斗は諦めたように息をついた。

「いろいろと説明しなければならないのですが、その前に沙羅さん、お体の具合は大丈夫ですか?」

 沙羅は頷いた。

「ええ。よくしていただきまして」

「大丈夫ならよかった。多鶴、お茶の用意を頼む」

「……かしこまりました」

 なにか言いたいことを呑み込んだようだったが、多鶴は言い付けに従って部屋を出た。

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