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沙羅は感覚を研ぎ澄ませ、一条の糸のようなかすかな力の流れを捉えた。雪斗と和歌菜をしっかりと掴み、その筋に意識を同化させる。吸い込まれるように、導かれるように、体がそちらへぐんぐんと引き寄せられた。
視線だけで後ろを振り返ると、玩具人形が箸を握りしめたまま靄に沈んでいくのが見えた。和歌菜の身代わりになったのだ。健気に役目を果たした人形のことは忘れまいと心の中で誓う。
靄の中、赤くちかりと光るものが見えた気がしたが……その正体を確かめる余裕などあるはずもなく、卵の薄皮が破れるような感覚とともに、世界が切り替わった。急に重さを取り戻したような体が地べたに投げ出され、湿って柔らかい泥濘の感触が伝わってくる。
そうして二人は、左陣川へと幽世から帰還を果たした。――和歌菜を探し当てて。
「おい、見つかったぞ!」
「生きているのか!? 着物で分かる、お嬢様だ! 誰か手当できる奴、早く来い!!」
「こいつは壬堂の娘と、その婿か!? は? 婚約者? そんなことはどうでもいい! こいつらがお嬢さんを見つけたんだな!?」
騒がしく言い合う声を頭上に聞きながら、沙羅は重たい体をゆっくりと起こした。雪斗も緩慢に起き上がり、沙羅の無事な姿を見て安堵の息をついた。そして沙羅の右手の方に目をやり、子供の姿があるのに改めて驚く。
「沙羅、さん……」
雪斗の言わんとすることを察し、首を横に振る。和歌菜を助けようとしている捜索隊の面々の手前、口にはできないが……彼女の魂はもう幽世に還っている。体だけでも探し当てられたのがせめてもの慰めだが、結構な無茶をした。死後何日も経っているようには見えないが、それは沙羅が和歌菜の体を幽世を通じて取り戻したためと、少し細工をしたからだ。生きているからというわけではない。
雪斗は小声で言う。
「……正直に言って、後味は良くありませんが……見つけてあげられて良かったです。ずっと冷たい水の中では、可哀相ですから……」
「ええ。できれば、助けてあげた、かった、です、が……」
「沙羅さん!?」
雪斗の慌てた声を聞きながら、沙羅は意識を手放した。
(……なんだか、前にもこんなことがあったような気がする……)
ぼんやりと目覚め、なんとなく体を起こす。特にだるいなどということはなく、しっかり眠って疲れが取れた後のようだ。
「沙羅さま。お目覚めでしたか。失礼いたしました」
「多鶴、さん……」
「お水を冷たいものに替えようと思ってお部屋に入らせていただいたのですが、出ておりましょうか。それとも何か御用があればお申し付けください」
多鶴がいることと、部屋の雰囲気で分かる。ここは東鶯邸だ。
「ありがとうございます。では、お水を下さいますか」
「ご用意いたしますね」
沙羅の体調に問題なさそうなのを見て取ったらしく、多鶴は安心したように微笑んで水差しから硝子の杯に水を注いだ。水差しは水滴を帯びており、切子の杯の細かい意匠が光にきらめく。現世に、日常に戻ってきたのだと感じた。
あの雨の夜は雪斗に呼び戻され、目覚めた後も訳が分からないままだったが、今は違う。沙羅は雪斗の力を借りつつ、自力で幽世から戻ってきた。――自分の意思で。
(雪斗さまを現世にお帰ししないとと頑張ったからだけど……当たり前のように、わたくしも現世に「帰って」きている……)
まるで家のように。いつも幽世へ「帰りたい」気持ちに揺れていた自分が、現世に「帰ってきた」と感じるなんて。帰ってこられて良かったと思うなんて。
(雪斗さまがいらっしゃるから、なのかしら……)
杯を手に取り、冷たい水を飲む。
生きている、と感じた。
幽世の川へ飛び込むようにして入り、現世の左陣川の川辺に流れ着くようにして帰還した二人だが、幸いにも風邪を引いたりはしなかった。沙羅が意識を手放した後、雪斗は沙羅を東鶯邸へ連れ帰り、疲労による昏倒で休ませれば心配ないということを確かめた後、洋蔵への報告なども一通りのことを済ませておいてくれたらしい。それを聞いて恐縮する沙羅に、幽世で頑張ってくれたのだから休んでいていい、むしろ休むべきだと言ってくれた。お言葉に甘えて疲労回復につとめ、すっかり元気だ。
寝込んだりもしなかったため、和歌菜の葬儀にも参列できた。ここまで深く関わっておきながら参列しないのは違うだろうけれど、千和家の人々の心を思うと出ない方がいいのかも知れないなどと色々考えた結果、とりあえず参列するだけはして、いない方がよさそうだったらすぐに退散すればいいと雪斗に相談して結論を出した。
どの面を下げて、などと罵倒されることも覚悟していたが、そういうことにはならなかった。娘を亡くした千和家当主の洋蔵は憔悴していたものの、沙羅たちに声を荒げることはせず、むしろ感謝してくれた。憑き物が落ちたような様子だったから、依頼のときは心配のあまり気が立っていたのだろう。
葬儀はしめやかに終わり、二人は壬堂の屋敷に戻った。そちらの方が近かったのと、仕事の後処理があるからだ。
だがすぐには手を付ける気になれず、沙羅は身を清めてから壬堂家の居間に行った。なんとなく雪斗がいるような気がしたからだ。思った通り、雪斗もそこにいた。
「沙羅さん……」




