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ほとんど点のように小さな黒目なのに、雪斗のことを獲物と見定めたのを誰しもが見て取った。彼がひきつったような息を漏らす。
(駄目! あれは危険すぎる!)
沙羅はとっさに、手の中で握りしめていた箸を前方に突き出した。赤い光が橋と絡まり合って伸び、二本の筋となって怪鳥に向かっていく。金縛りのようになっていた雪斗が、沙羅の攻撃に力を得たように気を取り直した。印を組み、叫ぶように真言を唱える。
「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ!」
彼が怪鳥にぶつけたのは、孔雀明王の真言だ。同時に、怪鳥が炎を吹きつける。地獄の業火もかくやと思える激しさだ。沙羅の放った赤い光線が雪斗の真言によって羽を広げるかのように膨らみ、炎と真っ向から激突し、盛大な爆発を引き起こした。
沙羅たちの攻撃に、しかし怪鳥は傷ついた素振りを見せない。雪斗は焦ったように沙羅を振り返ったが、沙羅は冷静に叫んだ。
「渡し守さん、あなたの客になります!」
真っ向からやり合って勝てるとは思っていない。わずかな時間稼ぎができれば充分だ。沙羅の声は小舟にはっきりと届いた。
「やれやれ……」
渡し守は嘆息すると、長い櫓を二人と怪鳥の間に翳した。櫓はたちまち炎に包まれたが、燃え落ちる様子はない。渡し守が櫓を回転させると炎は遮られて吹き飛び、その間に二人は小走りで小舟に乗り込んだ。
それを見ると、怪鳥は興味を失ったようで二人から顔を逸らし、たちまち雲の中に消えていった。
「危なかった……」
沙羅は胸を撫で下ろした。雪斗は物も言えず、船の縁に手をついて肩で息をしている。
「騒がしい……生きのいい客ですなあ……」
渡し守は嘆息しながら首を振った。櫓を川の中に差し直しながら言う。
「ですが、約束は約束。運び賃を受け取って、向こう岸に連れて行きますよ。言葉を取り消すことはできやせん」
観念の世界において、言葉とは力だ。覆りようのない、確たる事実だ。客になると言葉にした以上、沙羅は客にならなければならないし、それは此岸に体を置いていくことを意味する。
雪斗が喘ぎながら沙羅に何か言おうとするが、何を言っていいか分からないのか、息が整わなくてものが言えないのか、言葉にならない。おそらく両方だろう。
雪斗の焦りと不安の気配を感じつつ、沙羅は落ち着き払って荷物から蝦蟇口の財布を取り出した。楠乃瀬家から頂いたもので、京の雅と舶来の意匠が合わさったお気に入りだ。
「お代は六文で……っひぃ!? ちょい、お客さん!?」
言いかけた渡し守の声が裏返る。財布の中にぎっしりと金の粒が入っているのを目にしたせいだろう。黄金の光に目が眩んでいるらしい。とうぜん、六文どころの話ではない。
雪斗もぎょっとして先ほどの恐怖を忘れたらしい。まだ息を荒げながら声を上げる。
「……沙羅さん!? そんな大金……!?」
「? 雪斗さまのご実家は大店ですし、このくらいは見慣れておられるのでは?」
首を傾げる沙羅に、なんだか怖いものを見るかのように雪斗が視線を向けた。
「それとこれとは話が違います……世慣れていない沙羅さんが、どうしてそんな大金を持ち歩いているんですか……」
世間知らずの小娘が持っているのは危なっかしい、ということらしい。さすがに雪斗はそんな言い方をしないが。
たしかに沙羅は世慣れていないが、不用心なつもりもない。芙美仕込みの術をかけてある。滅多なことでは失くさないし、取られない。
「おばあさまのお教えです。ちゃんと保護もかけてありますから大丈夫。お金は世の中のほとんどのことを解決してくれると仰っていました」
「芙美さん……実際的なのはいいですが、孫娘に何を教えているんですか……。それに、世の中って……ここ、幽世ですよ……」
何とも言えない顔で雪斗は零している。どこから突っ込んでいいか分からない様子だ。
雪斗は沙羅に頭を抱えているが、渡し守の目は金粒に釘付けだ。眩しくて見ていられないという表情をしながらも視線を外せずにいる。
「……これだけあったら、船の補修どころか……買い替えも余裕……一回り大きいのでも……」
うわごとのように呟く声を拾い、沙羅はにっこりと笑った。財布を差し出しながら言う。
「これで船ごと借り上げたいのです。お客として。言葉を違えたりはなさいませんよね?」




