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幽世の花嫁  作者: さざれ
雨夜の妻問
3/47

3

 気付いた時、沙羅は見知らぬ部屋に寝かされていた。

 まだ青々と新しい畳敷きの床に、白く清潔な寝具が整えられ、おろしたてと見える襦袢を着せられて横たわっている。体も拭き清められているらしく、泥まじりの雨を浴びた後ととは思えない。水を含んでずっしりと重かった髪も乾かされ、緩く束ねられて体の横にさらりと流れていた。

 沙羅はおそるおそる身を起こした。

(わたくし……生きている。まだ、現世にいる……)

 それが歓迎すべきことなのかはかりかねて、沙羅はつかのま安堵と失望が混ざった気持ちを味わった。

 畳の匂いも、寝具の手触りも、すべて現実のものだった。周りを見回せば、歳月を経た調度が上品に配されている。手入れの行き届いた部屋だ。

 祖母につられて自分も幽世へと行き、今度こそ戻ってこられないだろうと思っていた雨の夜が遠い。いま、この部屋は穏やかな光に満たされており、おそらくはまだ昼前だろう。

(ここは……どこ? わたくしは何故、ここに……?)

 荒れ狂う雨と死の気配のなか、沙羅は自分がたしかに幽世へと囚われたと思った。

 それを引き戻したのが――

「お目覚めになりましたか? 入ってもよろしいでしょうか」

 部屋の外から声をかけ、からりと襖を引き開けて入ってきたのは、柔和な印象の美しい女性だった。

 十七歳の沙羅よりも二回りほど上だろうか。淡い色の着物と目を引く大胆な差し色の帯の合わせ方も、小粋な形に纏められた髪も、洗練されていて趣味がいい。白い前掛けと丁寧な口調がなければ、ここの女主人かと思うところだった。

 目覚めた沙羅を見て、女性は何故だかはっとしたような顔をした。

「……あの、わたくし」

 沙羅は口を開いたが、何を言えばいいか分からない。女性は気を取り直したように微笑み、言葉を引き取った。

「壬堂家のお嬢さま、沙羅さまでいらっしゃいますね。急なことではございますが、上ノかみのもりにある楠乃瀬くすのせ家の別邸、東鶯邸とうおうていにおいでいただいております」

 上ノ杜――というと、黒須平を流れる左陣川さじんがわの上流にある、深い森が広がる一帯だ。劫背連山ごうぜれんざんを構成する背立山せたてやまの裾野にあたる。沙羅もときどき足を運ぶ地域だ。建物を注意して見たことはなかったから心当たりはないが、場所が分かるとほっとする。

 そして楠乃瀬家は、芙美の商売相手だ。薬種商を営む一族で、京にある楠乃屋くすのやでは和薬、漢薬、洋薬に加えて呪薬も扱っている。芙美のもとには主に呪薬を買い付けに来ていた。

「楠乃瀬の方でしたか。いつもお世話になっております。あの、わたくしは一体どうしてこちらへ……?」

 芙美を看取ったことは覚えている。だが、風雨に記憶までかき消されたように、寝起きの頭はまだきちんと動いてくれない。

 女性は目を見開いた。

「ご存知ない……? いえ、まさか……」

 信じられないような表情をして沙羅を見るが、心当たりのない沙羅は困惑の表情を浮かべて見返すしかできない。

 沙羅がいよいよ何も知らないと悟った女性は、表情をやや険しくした。何か怒らせてしまったかと思った沙羅だが、それは沙羅に向けたものではないらしかった。

「ご存知ないとなると、これは大変なことです。沙羅さま、具合がよろしければお召し替えを。そのあとで何か軽いものでも差し上げて、坊ちゃまのところにお通しします。坊ちゃまには何としてでも、この状況を説明していただきますわ」


 女性は多鶴たづと名乗った。楠乃瀬家の使用人として、当主の次男――坊ちゃまと呼ばれていた人だ――と共に少し前から東鶯邸に来ているのだという。いま屋敷にいる楠乃瀬の一族の者は当主の次男ひとりだそうだ。

 次男、という説明をしたところで多鶴は沙羅をちらりと見たが、やはり心当たりがない。困惑顔の沙羅に首を振り、「お嬢さまではなく、こちらの問題です」と多鶴は目を伏せた。

 話を聞きながら、多鶴は慣れた手つきで着物を沙羅に着せ付けてくれた。吉祥文様の美しい、上質な薄物だ。自分でできると申し出ようとしたが、多鶴の手つきが堂に入って淀みないので、ついついそのまま任せてしまった。自分で着れば倍くらいの時間がかかっていたはずだ。

 着付けが終わると、多鶴は戸を開けたまま部屋を出ていった。何気なく外を見ると、庭木の上に鮮やかな梅雨晴間が広がっている。昨夜の嵐が嘘のような晴天だ。黒須平と上ノ杜はそこまで距離が離れておらず、このあたりも大荒れであったに違いないのに。

(ううん……もしかして、それほどでもなかったのかも)

 沙羅は緩く首を振った。昨夜の雨がどこまで現世のものだったのか、沙羅には判断がつかないのだ。雨だったとは思うが、小雨だったかもしれない。もしかしたら晴れですらあったのかもしれない。分からない。

 ほどなく多鶴がお盆に軽食を整えて戻ってきた。熱い重湯の椀を受け取って少し口に含むと、とろりとした舌ざわりにかすかな塩味が口の中に広がった。気を失っていた沙羅に消化のいいものを、という心遣いだろう。眠って回復したとはいえ、昨夜の雨の冷たさを覚えている体に、熱い重湯が嬉しい。そのあとで熱く香ばしい麦茶で口の中をさっぱりさせると、体中に温かさと水とがめぐって人心地つくようだった。

 一連のもてなしにお礼を述べると、「もったいないことです」と多鶴は目を細めた。そのあとで、「これはますます坊ちゃまには、きちんとご説明いただかなくては」と目を据わらせて呟くが、沙羅には意味が分からない。

 沙羅が寝かされていたのは一階の客間だったが、この屋敷は二階建てらしい。和洋折衷の様式で、内装も趣味良く整えられていた。洋式の部屋や調度などは宝天の世にあってすでに珍しいものではないが、沙羅の目には目新しいものに映った。黒須平の屋敷は和国わこく古来の様式で、調度も代々伝えてきたものが多い。あまり観察しては失礼だと自戒するものの、ついつい視線があちこちを彷徨ってしまう。

 多鶴に案内され、沙羅は二階の部屋に通された。広々とした空間で、屋敷の南東の角にあって和室と洋室が継ぎ合わさっている。二方が開けて眺めがよく、沙羅は思わず外の景色に目を奪われた。

 なだらかに下っていく左陣川のきらめき、緑まぶしい森、人里の家屋。沙羅が住んでいる黒須平はあのあたりだろうか。

 洋室の方に通されて席を勧められ、沙羅は多鶴にお礼を述べた。先に卓についていた人が立ち上がる。沙羅はお辞儀をして顔を上げ――

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