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八月が終わりにさしかかり、雑節のひとつである二百十日が近づいて来る。年によって多少前後するが、今年は九月の初日だ。
二百十日とは立春から起算するもので、その十日後の二百二十日ともども、台風の襲来が多いと警戒されている厄日だ。沙羅は暦を眺めて眉を曇らせた。
(今年は猛暑で稲の生育が良くないから、せめて台風は来ないでほしいわ。ううん、そこまで贅沢は言わないから、せめて被害は軽く済んでほしい……)
だが、その願いは叶わなかった。勢力の強い台風が黒須平をかすめるように通り過ぎ、田畑に大きな被害が出たのだ。集落全体が直ちに困窮するような事態ではないものの、収穫の時期を心から楽しみにできるような状態でもない。いくらかは蓄えを放出しなければならないだろう。
さらに、その台風によって死者と行方不明者が出た。増水した川に流されて老年の男性が一人亡くなり、女児が一人行方知れずになっている。沙羅は居ても立ってもいられない気持ちだった。
「お前のせいだ!」
落とされた怒声に、沙羅は首を竦めた。行方不明になった女児は千和家の末娘で、可愛がっていた娘がいなくなってしまった当主の洋蔵が壬堂の屋敷に怒鳴り込んできたのだ。
もちろん、沙羅は何も関わっていない。女児が和歌菜という名前であることは知っているが、ろくに面識があるわけでもない。その子は嵐のさなか、大木が倒れてきて破損した家屋の修復などに大わらわだった千和家の使用人たちが目を離した隙に外に出てしまい、行方が分からなくなったと聞く。
洋蔵は恰幅の良い体を膨らませるようにして鞴のように息をつき、憤懣やるかたないという表情で沙羅を睨んでいる。沙羅は大声に首を竦めはしたものの、真っ直ぐに洋蔵の目を見返した。後ろには巌たちが控えていてくれるし、傍に雪斗もいてくれる。相手が壮年の男性だろうと、怖くはない。
沙羅のたたずまいに気勢をいくらか削がれたものの、洋蔵は怒りに突き動かされるように言葉を並べ立てた。
「今年の夏はひどかった。暑さも、嵐もだ。ここ十年で最悪の年かもしれん。どれもこれもお前が力足らずだからだ。壬堂の先代が生きていれば、酷暑も台風もきちんと予知してくれたはずだ。そうすればこちらも備えができたものを……当代の小娘は役に立たんとくる。いっそお前が」
「そこまで」
雪斗が口を挟んだ。沙羅を庇うように前に出て、体格差のある洋蔵を静かに見据える。身長はほとんど同じくらいだが、体重はかなり開きがあるだろう。殴り合いになればただでは済まないだろうと思えるが、雪斗はいたって平然としていた。
「喧嘩をしに来られたのなら、こちらにも考えがあります。そうでなく、依頼をしに来られたのなら、座ってください」
雪斗は土間の長椅子を示して言った。洋蔵は大きく舌打ちをしたが、忌々しそうにしながらも椅子に腰を下ろした。
沙羅は雪斗に感謝の視線を送り、詰めていた息を吐き出した。
自分が未熟であることは、沙羅自身がいちばんよく分かっている。芙美のように予知ができるわけではないし、経験に裏打ちされた適切な助言ができるわけでもない。顔が広い芙美と違って地域の人々と積極的に関わってきたわけでもない。
それは確かに自分の落ち度であるが、仕方のない面もある。芙美はいろいろな人に信頼されていたので、依頼人にとって沙羅はおまけ程度だったのだ。挨拶くらいは交わすものの、それだけだ。その状況に甘んじて人をむしろ避けていた自分に非があるのは自覚しているし、こうして芙美の後を継いだ以上、改善の努力をしていくつもりだ。芙美のように地域の人々に寄り添える存在になるにはまだまだ時間が足りない。
それはそれとして、台風が来ることが確定的になった後でも、沙羅はとくに千和家から依頼を受けていない。災難除けのまじないやお札などを求められたわけでもない。依頼と対価なしにわざを使うのはお互いにとって筋が違う。
とはいえ幼い少女が行方不明になってしまったことに心が痛むのも確かなので、助力を求められたらできる限りのことをするつもりだ。
果たして洋蔵は言った。
「娘を探してほしい」
「分かりました」
その言葉は予測していたし、実のところ、引き受けざるを得ない。
打てば響くような沙羅の応えに、洋蔵はかえって胡乱げな顔をした。
「心当たりがあるのか? まさか……お前の仕業ではあるまいな?」
力足らずと罵倒しておきながら、その一方で沙羅に受け継がれる壬堂の霊能を認めていると白状しているようなものだ。沙羅は過剰に反応することなく、静かに否定した。
「もちろん、わたくしがしたことではありません。ですが、大勢があちこちを探しており、それでも見つからないのだと聞いております。神隠し……かも、しれません」
心当たりと言えるほどの心当たりでもない。
台風で行方不明になったのなら、まず考えられる可能性は、増水した川や水路に流された、土砂崩れに巻き込まれた、倒壊した家屋の下敷きになった、飛来した物で負傷して動けずにいる、そんなところだ。
だが、そうではなく、神隠し――幽世に迷い込むこと――の可能性も否定できない。雨は神意で降るものだと言われてきた通り、そこには幽世の神の意思が介在する。嵐も同じだ。常ならぬ現象には、常ならぬ存在の影が見え隠れする。例年にない猛暑という現象も考え合わせれば、嵐のなかに消えた子供が幽世にいるということは考えられることだ。――もっとも、幽世で現世の人間が生存している可能性、幽世から身や心を損なわずに戻ってこられる可能性、どちらもかなり低いものではあるのだが。




