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幽世の花嫁  作者: さざれ
現世と幽世
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 幽世に引き寄せられる沙羅を引き留めるためであることは明白で、こうも容易く揺らいでしまう沙羅を咎める言葉が今にも落ちてくるのではないか、と沙羅は心の片隅で身構えた。

 いけないことだと自分でも分かっている。沙羅の心持ちは、現世の人として生きる上で致命的とさえ言えるようなものだ。芙美はそんな沙羅を叱りこそしなかったものの――叱っても無駄だと分かっていたのだろう、芙美は合理的で割り切った性格の人だった――、歯痒さや苛立ちをいつも隠し切れていたわけでもない。

 沙羅はそのたび、自分を思う祖母の愛情に対する感謝と……正直に言ってしまえば、そうした現世のしがらみの煩わしさと厭わしさを……感じていた。家族が沙羅を現世に繋ぎとめる一方、幽世に逃げてしまいたい思いをも起こさせていた。

 雪斗は何を言うのだろう。沙羅を責める言葉か、諭す言葉か。案じる言葉か。

 しかし雪斗はそうした言葉を発さず、眼鏡を外したまま、滔々と流れ続ける星の川に眼差しを向けた。

「……綺麗だね」

「…………ええ」

 そんな雪斗に心のどこかが震えるのを感じつつ、言葉少なに沙羅は応え、しばし二人でこの世ならぬ美に見入った。


「沙羅さん、鰐の絵か写真を見たことはありますか?」

 幽世の星空の余韻が心に残るなか、歩きながら雪斗は唐突に問いかけた。沙羅は少し考えて頷く。

「写真ならあります。記紀に出てくる和邇は絵で見たことがありますが、それとは別物なのですよね。雪斗さまが仰る方の鰐はは写真で見たことがあります」

 恐ろしげな姿として描かれていて、一見しての印象は鰐と大差ないものだったが、和邇は伝説上の生き物とされているものだ。

「そうですね。和邇の正体については諸説あるみたいですが、記述の上では伝説上の生物です。一方、鰐は水辺に棲む外国の生物です。京の動物園に行けば見られますが、少なくとも現代のこの国では、自然の中には棲息していません。でも、こんな怪物がごく普通に生息している国もあるのです」

 沙羅は頷いた。聞くだに恐ろしいが、そういった場所もあるのは知っている。この国にも毒蛇や毒虫、熊などの脅威はあるのだが、鰐のそれは未知だ。

「鰐は夜目の利く生き物で、かすかな光でも捉える目は闇に赤く光るのだそうです。水の中に潜んでいる姿が昼間には見つけられなくても、夜には光を反射して煌めく赤があるから却って見つけやすいこともあると聞きます」

「漁火のようなものかしら……」

「少し似ていますね。ですが、海に棲む鰐ばかりではなく、川や池、湖に棲むものもいます」

 そして雪斗が話してくれたのは、ある画家の体験談だった。


 ――外国を訪れたその画家は、鰐の棲む湖に小舟を浮かべ、満天の星空の下、夜の中を漕ぎ出した。

 静かに櫂を沈め、ゆっくりと動かす。小舟は水面を滑るように進んでいく。

 漕ぎながら画家は、驚愕し、また感嘆していた。凪いだ湖面は星々を完璧に映し、自分がまるで宇宙の只中を漕ぎ渡っているような錯覚に陥ったからだ。上、横、下、どこを見ても星空しか見えない。櫂を漕ぐときに感じる水の抵抗だけがかろうじて、ここが湖の上なのだということを思い出させてくれるばかり。

 だが、と画家は思う。

 もしかしたらここはもう宇宙のただなかで、櫂の代わりに腕を星空の中に差し入れれば、星空のその向こう側にさえ手が届くのではないか、と。

 暴力的なまでの美しさは魂を強く揺さぶったが、画家は誘惑を振り切った。湖面に映る星々は幻で、その中には捕食者の目が紛れており、手を伸ばせばたちまちに食い千切られてしまうだろうことを辛うじて思い出したからだ。

 そして画家は考える。自然界というものは、圧倒的な美の中に危険を潜ませ、それに抗しきれずに手を伸ばしたものを餌食にすることで成り立っているのではないか、と――


「さっき幽世の星空を見たとき、僕はこの話を思い出しました。きっと幽世とは、そういうものなのだと……美しく誘惑的で……危険きわまりないものなのだと……」

 途轍もなく危険で、途方もなく魅惑的で、人間の本能の根本を揺さぶるもの。引き寄せられて迂闊に踏み込めば囚われてしまい、戻って来られなくなる致死の罠のような夢幻郷。

 そう語る雪斗の声には、紛れもない恐怖と、そして微かな憧憬があった。沙羅は思わず、自分の胸元で両手をぎゅっと握り合わせる。

「…………分かります」

 幽世はただ恐ろしいだけの場所ではない。怖気が走るほどの美しさも、そして、人間には耐えきれないほどの闇も併せ持っているのだ。それを知る者は「恐れる」だけでなく、「畏れる」のだ。

 かつてこの和国を創り給うた神々がお隠れになった世界。人々もそこから生まれ、やがては還っていく世界。この国の人々はうつそみの現世を仮宿に譬え、あるいは泡沫に譬えた。あえかに儚い一時のものとして、無窮の闇にか弱く抵抗するものとして。

 横を歩く雪斗を、沙羅はちらりと見上げた。雪斗が持つ洋燈の灯りが顔の陰影を際立たせるが、表情の細部までは見て取れない。

 見えないのだが……声に、気配に、かすかな熱を感じる。彼もまた、幽世に心惹かれているのだ。

 沙羅ほどではないが、雪斗も危うさを抱えている。そのことに胸騒ぎを感じながら、沙羅は少しだけ足取りを速めた。

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