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壬堂の屋敷には通いの手伝いが何人も出入りしており、食事の支度も基本的にその人たちに任せている。沙羅も料理をしようと思えば一応できるのだが、芙美に言わせれば「とろくさい」のだそうだ。さやいんげんの筋を丁寧に取ったり鍋をかき回し続けたりしているとぼうっとして時間を忘れてしまう。さまざまなことを考え合わせて段取り良く進めていくのが苦手だ。
作る方はそんな調子で、食べる方もたいして執着がないので、食事のことは手伝いの人たちに任せることが多い。
以前からずっとそんな感じで、今年も何も変わっていないと思っていたので、雪斗のこの言葉に少し意表を突かれた。
「沙羅さん、素麺がお好きですか?」
「え……? ええ、好きです」
好きというより、嫌いではないと言った方が正しい。なんでも好きだというのはなにも好きではないのと同じだろう。
壬堂家では芙美がいた頃からの習慣で手伝いの人たちと一緒に食べるので、雪斗は最初面食らっていたが、すぐに慣れたようだ。そういえば東鶯邸では使用人の多鶴が雪斗と同じ席につくことはなかった。そちらが普通だろう。
壬堂家の食卓では最近、素麺が出されることが多かった。誰もが多かれ少なかれ暑さにばてていたので、食べやすいものが歓迎されたのだ。
つゆに紫蘇や茗荷や葱や生姜などの薬味をたっぷり入れたり、梅干しで香りをつけたり、辛くしてみたり、素麺はいくらでも工夫の余地があるし、飽きずに楽しめる。沙羅ももちろん毎食美味しく頂いていたのだが、その様子が雪斗の目には好んで食べているように映っていたらしい。
「他のものが食卓に出されたときよりも、箸の進みがよかったようなので。一緒に暮らす人の好きなものは知っておきたいですからね」
「え…………」
思いがけないことを重ねて言われ、沙羅は目を丸くした。箸の進みなんて気にしたことはなかったし、気にされることがあるとも思ってみなかった。
もしかして自分は素麺が他のものより余計に好きなのだろうか。そうだとして、まったく自覚がなかった。他人であるはずの雪斗がそれに先に気づいたこと、彼がそれを知りたがってくれたこと、その二つに困惑する。……悪い気分ではないが、何と言うか、思いがけない方向から見たこともない美しい鳥が飛んできたような驚きだ。
「……雪斗さまのご実家から頂いたので、余計に美味しく感じられたのかもしれません」
楠乃瀬の人々は沙羅が雪斗の婚約者であることを歓迎してくれているらしく――沙羅のように何も知らされていなかったわけではないから、もしも嫌なら早々に破談になっていたはずだから嫌がっていないのは明白だ――時々、贈り物を頂く。素麺もそうして贈られたものの一つだ。揖保川のあたりから直接送られてきた。
「うちは向こうの方に親戚がいるからね」
雪斗が相槌を打つ。京だけでなく近辺にも繋がりがあるようだ。当然といえば当然で、とくに驚くようなことでもないのだが、沙羅にとっては新鮮だった。芙美を亡くして他の親族もおらず、ふつりと糸が切れたようだった沙羅が、雪斗を通じて京や、その向こうまで繋がっていく。現世に繋がれていく。
(おばあさま……だからわたくしの婚約者を雪斗さまにしたのかしら……)
裕福な薬種商の家系で、親戚も多く、地に根を張るように生きている楠乃瀬。そことの繋がりは沙羅にとって――沙羅が現世で生きるなら――非常に心強いものだ。
それを客観的に――どこか他人事のように――考えてしまうあたりが、今の沙羅の限界だ。心強いと理性は言っていても、そんなしがらみは何の枷にもならないと本能は言う。沙羅はまだまだ、幽世に引っ張られたままだ。
「いろいろ送っていただいて……またお礼状を書きますね」
「適当でいいですよ。沙羅さんに喜んでもらえたならよかったです。沙羅さん、気を抜くと食べるのを忘れますから」
沙羅は首をすくめた。
食欲が薄いわけではないのだが、すこんと抜けてしまうことはある。何かを口にすると一気に空腹を思い出して、食べ過ぎてしまうこともあるから困っているのだが。
沙羅の仕草に少し笑い、雪斗は着物の襟元を少しくつろげて風を入れた。
このところ雪斗は和装のことが多い。彼曰く、洋装よりも風が通って涼しいのだそうだ。確かに、体にぴったりと沿わせるように裁断されて縫製された洋装は風が通りにくそうだ。沙羅は基本的にいつも和装だから、彼の洋装を見るたびに目新しく感じてしまう。
晩餐前の運動と夕涼みを兼ねて、二人は乗り物を使わずに川べりを辿っていく。竹藪が茂るあたりにさしかかり、さらさらと鳴る葉擦れの音が耳に涼しい。音のかそけきこの夕べかも、の古歌が思い出される。
竹藪を抜けた風が川面を渡る。細波が夕日に照り映えてあえかな虹色に輝く。ぼんやりと見つめていると、それは反射ではなく自ら光を放つ輝きに変わってきた。
いつしか、左陣側は天の川のように星を集めた光の流れになっていた。
地上に星の川が現出し、きらめきが流れていく。凄絶な美しさの前に言葉もなく、沙羅は息を呑んで光景に見入った。
そっと、しかし断固として、雪斗が沙羅の肩を掴む。痛くはなかったが、沙羅ははっと我に返った。振り仰ぐと、雪斗が眼鏡を外した紫紺の瞳で沙羅を案じるように見ている。気付けば〈みたまの緒〉が振動し、〈音無しの鈴〉が鳴っていた。その鈴の音を紛れさせるように、さらさらとした現世の竹の葉擦れの音はいつしか幾千万もの小鈴が鳴り響くかのような音に変わって辺りを満たし、この世ならぬ星の夜を彩っていた。
雪斗が手に力を込める。




