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幽世の花嫁  作者: さざれ
現世と幽世
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 雪斗は目を見開いた。

 言葉にしてしまってから、沙羅ははっとした。雪斗は沙羅と婚約をしてくれたが、実際に結婚するところまで考えているかどうか、実のところかなり疑問に思っていたのだ。そうした現実的で実際的な関係に踏み込むには、自分たちはあまりに浮世離れしている。沙羅にもそのくらいの自覚はあった。

 それを言葉にしてしまった。しかし、出した言葉は引っ込められない。

「それは、もちろん……」

「『したい』ではなく、『してもいい』ではありませんか? わたくしを現世に引き留めて、おばあさまへの義理を果たすこと……それだけなら婚約で充分なはずでは」

「…………」

「詮索するつもりはないのですが……こういうややこしいお話を抜きにして、結婚したいと思われた方がいらっしゃったりしませんか……?」

「…………!」

 雪斗は表情をわずかに崩した。抑えようとしている動揺が伝わってくる。やっぱり、と沙羅は――なぜか少しの落胆とともに――思った。

 雪斗は二十九歳。婚約話の一つや二つは出ていて当然の年齢だし立場だ。幽世を見てしまう厄介な霊能も眼鏡と彼の努力で抑えられているようだし、普通の結婚を望めば出来なくはないだろうと思う。相手や生まれる子供を幽世の危険にさらしてしまう可能性があるが、どうしてもと望む相手がいるなら守る手段を必死に探すだろう。

 だが、彼は、それをしない。誰か心に思う人がいそうなのに、沙羅との婚約を――恋情ではなく、義理からだけでもなく――続けようとしている。

(雪斗さまは、本当に……いったいどんな動機でわたくしとの婚約を続けたがっていらっしゃるのだろう。わたくしを好いてもいないのに……)

 好き合って結婚する者ばかりではないことは分かっている。お見合いなどはその最たるものだ。だが、それにしたって、結婚後の展望というものがあるはずだ。沙羅は自分が雪斗の妻として生きていくことが想像できないし、おそらくは雪斗の方も同じではないかと思う。

(わたくしたちの関係は、歪ね……)

 沙羅は思う。そもそも、婚約者として最初から普通に紹介されていたら、今のように一緒に暮らしていたかどうか。あの雨の夜の口付けで、全部がなしくずしに決まってしまったような気がする。命の恩人なのだし、口付けひとつで責任を取れなどという気はないが……釈然としない。当人たちの気持ちをよそに枠組みだけが出来上がってしまっていた、というような。

 それぞれが考えに沈み、薄荷茶の香りだけが流れる。半ば無意識に、沙羅は盆に手を伸ばしてお茶請けの干菓子を口に入れた。ほろりと口の中でほどける甘さが――妙に味気ない。

「沙羅さん……」

 雪斗が何かを言おうとした。だが、表の方から客らしき人の声がして休憩時間が唐突に終わった。

「お待たせするわけにはいきませんし、休憩は終わりですね」

 続きを聞きたかったような、聞きたくなかったような思いをお茶とともに飲み下して、沙羅は席を立った。


 今年の夏は例年にも増して暑く、黒須平でも暑気あたりで倒れる者が続出した。

 薬師の代わりをしたり、楠乃屋から各種の薬を取り寄せて売ったり、飲み物や食べ物を傷みにくくするまじないをかけたり、水が行き届かない田圃の水脈の様子を見たり、沙羅は忙しく立ち働いた。お盆の時期も休むどころか仕事が増える一方で、初盆だというのに芙美を偲ぶ時間もろくに取れないくらいだった。

 もっとも、それは却って良かったのかもしれない。沙羅が物思いに沈むなら――沈み込む先は幽世だ。たやすくあちら側に引っ張られてしまう。現世の忙しさは確かに沙羅の身を救っていた。

 とはいえ、沙羅は特に体が丈夫というわけではない。心を保つために忙しさに逃げれば体の方が参ってしまう。そんな沙羅を支えたのが雪斗で、ときに窘められて休息を取ることもあった。その諭し方が、いかにも大人が子供に対するときのそれで、沙羅の心はその度に別の意味で波立ったのだが。

 ただ、その雪斗も雪斗で忙しく、楠乃屋に呼び戻されたりもしていた。大店とはいえ呪薬を扱える者が少なく、京は人が多いうえに盆地という地形もあり、猛暑の影響は黒須平の比ではないらしかった。


 暑さも忙しさも盛りを過ぎた八月の下旬、客が捌けて早めに店じまいをした夕方、二人は左陣川の河原を歩きながら上ノ杜に向かっていた。京から走りの秋野菜がいろいろ送られてきたから、地産の獣肉と合わせて精の付く料理を作ると多鶴から晩餐に招かれたのだ。暑さで落ちた体力を回復するためと、精進落としも兼ねて、ということだ。

 四十九日を過ぎたあたりでちょうどお盆が来たのだが、沙羅はその期間、厳密に肉や魚を断っていたわけではない。鰹出汁は普段から口にしていたし、煮干しなどの干物も料理に使っていた。ただ、新鮮な魚介や肉などはなんとなく避けていた。暑かったからというのもあるが、食べたいと思わなかったのだ。

 仏教系の祈祷師などには厳に肉や魚を断つ者もいるそうだが、芙美や沙羅はそうした立場ではなかった。だから実体験としては知らないのだが――そうした食生活にせずとも沙羅は幽世のものを見聞きしてしまう――、芙美の知り合いに聞いた話だと、動物性のものを食べると「気が濁る」のだそうだ。精神を研ぎ澄ませるにあたって邪魔になり、肉体が鈍重に感じられるそうだ。

 肉や魚どころか穀物まで断つ木食の者もいるが、動物の命に加えて、主食として人の命を支えてきた穀物を断つことでより自然に近づき、肉体の軛を逃れやすくする。そう考えると沙羅はむしろ動物性のものを食べた方がよさそうだが、無理をするとそれはそれで歪みが出るので芙美も沙羅に強いることはなかった。

 あまり好き嫌いがなく、食べればたいてい何でも美味しいと思う、だが裏を返せば執着がなく、忙しいと食事を忘れるのが沙羅だった。

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