10
「ああ、嬢ちゃん。帰ったか」
「巌さん、ただいま。何かあったの?」
雪斗を伴って壬堂の家に戻った沙羅を出迎えたのは、屋敷の通いの手伝いの一人、普段は農家をしている巌だった。老年の男性で、芙美の昔からの知り合いだ。近所に住んでいるため家の内外で顔を合わせる機会が多く、半ば家族のような存在だ。
「ん、ああ。うちのが腰痛を起こしてな。湿布をくれんか」
「用意しておくわ。それで?」
まだ何かあるでしょう、と問えば、巌は気まずげに指で無精髭の頬をかいた。湿布のためだけにわざわざ沙羅の帰りを待つ必要がないのは明らかだ。いつでも会えるのだし、湿布がそこまでの急用だとも思えない。
「あー……千和さんとこの倅がな、その……今年の米の出来を予想してほしいと……」
沙羅は少し困った顔をした。そういった予想――嵐の時期や気候の変化まで含めて――は芙美が得意としていたが、沙羅にはできない。黒須平で一番の地主である千和家の者ならそのことを知っているはずだ。その上で言ってきているのなら、よほど困っているか、もしくは嫌がらせだ。巌の困り顔を見れば答えは考えなくても分かる。
「……巌さん? 他に何て言われたの?」
「……祝言も上げずに男を連れ込んで、その、ふしだらだと……だから予知や何かができないのだと……」
沙羅は溜息をついた。異性との関わりが霊能に影響しないとは言わないが、この場合は関係ない。芙美は結婚前も結婚後も予知ができたし、沙羅はからきしだ。単なる個人差で、言いがかりに過ぎない。
ふしだら云々についても言いたいことはあるが、婚約者とはいえ結婚もしていない相手と暮らしているのは確かだ。通いとはいえ巌たちがいるから、二人暮らしという意識はなかったのだが。
一応、男女間で問題になる様々なことに対応する術や薬も扱っているから、沙羅もそれなりの知識はある。実践が伴っていないのは確かだが、効能については自信を持っている。強制的に相手の気持ちを変えたりその気にさせたりするものは扱わないが――無いとは言わないが依頼主が圧し潰されるほどの代償が必要とされる――、依頼主の魅力を強める香りを調合したり、逆にそうした誘惑に抵抗する力を強める術をかけたり、望まない妊娠に医師とは違った立場から対策を与えたり、そうした仕事もある。
「千和とは、葬儀のときに大勢で来ていた一家ですね? 身なりが特に良かったから覚えています。倅というのは……たしか二十くらいの若者ではなかったかな? 少し日に焼けて、目つきの鋭い……」
「ええ、たぶん雪斗さまがおっしゃる方だと思います」
千和の家に息子は三人いるが、上の二人は結婚して一家を構えている。倅というのは三男の隼人を指す。沙羅よりも五つ上で、二十二歳だ。
「僕のせいで沙羅さんに不愉快な噂が立つのは申し訳ないですね。かといって離れることもできないし……実家の力を借りるべきところかな?」
雪斗の表情になんだか不穏なものを感じて、沙羅は慌てて止めた。
「待って、わたくしは気にしていませんから大丈夫。だいたい、夜這いが珍しくない中で祝言を上げないからどうこうなんて、言われる筋合いないもの」
「夜這い!?」
沙羅の言葉に、雪斗はぎょっとした。京の人はそうした田舎の風習には馴染みがないのだろう。
「いや、ええと……そういうのものだと納得はできるけれど……沙羅さんも?」
「いいえ、うちは無縁でした。多分おばあさまが何かしてくださっていたのだとは思いますが……夜這いでも盗みでも何でも、客としてではなく壬堂家に行くと、化かされてひどい目に遭うと噂されているみたいで」
「ああ……幻術で目くらましとか、芙美さんは得意だったものね……」
何を思い出したのか、雪斗が遠い目をする。巌は沈黙を守っているが、無言の同意を感じる。
「ともかく、わたくしのことはいいの。雪斗さまも巻き込んでしまって申し訳ないのですが……」
「僕の方こそ、どうでもいいことです。しかしそうか、婚約者として近くにいるだけでは、幽世のことはともかく、現世のことからは沙羅さんを守れないのか……」
「あの、雪斗さま? 充分、よくしていただいていますから……」
葬儀のことをはじめ、雪斗には本当にいろいろと助けられている。彼が芙美に感じているという恩がどれくらいのものか分からないが、下手をすれば借りが貸しに傾くのではないか。
婚約とは一時的な状態だ。前提に結婚があり、成るにせよ破れるにせよ、いずれ終わるものだ。沙羅は結婚するわけにはいかないから、雪斗が納得したら破談にしようと思っている。
(わたくしが不安定でなくなって、手を放しても幽世に消えないと納得してもらえれば……それか、おばあさまへの恩を返し終えたと思ってもらえれば……あるいは、わたくしに愛想を尽かすことになったら……)
この婚約は解消になる。沙羅はそう思っているのだが、雪斗の真意が分からない。彼が何かを抱えていることは分かるのだが、それが何なのか、まったく見当がつかない。
腕組みした雪斗と、そんな雪斗を見上げる沙羅の様子に、巌はぼやくように言った。
「……壬堂の婿取りは毎回毎回、普通には進まんな……」
沙羅は苦笑いした。巌は祖母の結婚も、曾祖母の結婚も知っているのだ。べつに女系の家というわけでもないのだが、曾祖母の代から女性の当主が三代つづいている。当主にならなかった百合も含めれば女性が四代だ。一応、そういうことになっている。
祖母の婿取りについては大騒動があったそうで、巌が酒を飲みながら当の芙美に当時の苦労を訴えていたのを何度も見たことがある。芙美はすげなくあしらっていたが。祖父が他界して長いが、祖母はいつまでも祖父を大切に思っていた。
「芙美さんの時のことは、少し聞いていますが……百合さんは?」
雪斗の問いに、巌は分かりやすく顔をしかめた。しまった、という表情だ。雪斗はなおも問う。
「気になっていたんです。僕が芙美さんのもとを離れて、遠方の山で修行をしていた頃のことですから。戻ってきたら沙羅さんが生まれていて、百合さんがいなくなっていて……」
沙羅は少し驚いた。雪斗とはあの雨の夜が初対面だと思っていたが、面識――と呼べるほどではないが――があったのか。
母の百合は、沙羅が生まれるのと同時に現世を去っている。父のことも、雪斗は――巌も――知らないはずだ。




