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世界を塗り替えていくかのように、激しく雨が降っている。
雨粒が間断なく瓦屋根を叩き、屋敷にむっとするような湿気が立ち込める。時は水無月――水の月だ。
田畑を豊かに潤し、山々の緑を育てる恵みの雨。しかしそれも、死の気配が充満した屋敷にあっては、肌に纏わりつき、振り払っても振り払いきれない淀みとなって夏の夜をいっそう陰鬱なものにしていた。
広い屋敷に、人の気配はほとんどない。少女――沙羅は、息をひそめるようにして、今しも死出の旅に立とうとしている祖母を見守っていた。
物が多く、人の出入りもある屋敷であるから、普段は通いの手伝いを何人も雇っている。だが沙羅は、数日前から全員に暇を出していた。屋敷にいるのは沙羅と、祖母の芙美だけだ。
芙美は数か月前、病に倒れた。ここ数日などは床から起き上がることもできない。
沙羅は多少、薬などの知識はある。しかし医師ではなく、薬師を名乗れるほどでもなく、看護の技も経験も持たない。芙美の病が伝染するものではないと医師から診断が下された後、伝染しないのだから人の手を借りることに躊躇う理由はないだろう、芙美さんにはお世話になったのだから、何か手伝わせてほしい――と、何人もから親身な言葉を貰った。
しかし、沙羅は首を横に振り、言葉少なに謝絶した。芙美さんは自分が弱っているところを他人に見せたくないのだろう、他人がいると却って落ち着かないのかもしれない……などと納得して皆は引き下がったが、そんな理由ではなく……
うつむいて芙美の病み寠れた顔を見つめていた沙羅は、不意に走った稲光にびくりと顔を上げた。灯りを最小限に絞った室内が、突如として不穏な明るさに包まれる。間を置かず、低い雷鳴が屋敷を震わせた。落雷だ。かなり近い。
雨はいっそう強まり、風は荒れ狂う。その中に、誰かの呼び声がかすかに混ざり始める。
『――……。――――……』
何を言っているのだろう、誰が来たのだろうと耳を澄ませ、その声が大声でもないのに風雨にかき消されずに届くのに気付き、沙羅は顔を強ばらせた。
(ああ……)
無念とも諦念ともつかない吐息を漏らし、沙羅は静かに覚悟を固めて目を閉じた。
『――で…………。……て……い…………』
少しずつ、少しずつ声が明瞭になってくる。近付いてくる。――気配も伴わずに。
「その時」はもう、すぐそこだ。最後に祖母の顔を見ようと目を開いた沙羅は、芙美の目がまっすぐに自分を見据えているのに気付いて目を瞠った。瞼を動かす力もないほどに弱っていたはずの病人だが、その眼差しは沙羅をたじろがせるほど強く鋭かった。
芙美の唇がかすかに動く。声を出すことまではできないが、彼女が何を言わんとしているのか、沙羅にははっきりと分かった。
子供が嫌々とむずかるように、沙羅は首を振った。
「でも、おばあさま……わたくしは……」
芙美の目に、自分が死ぬことへの恐れは微塵もなかった。強い眼差しが訴えかけるのは、ひたすらに沙羅のことだけ。諭し、叱咤するような眼差しから目を逸らし、沙羅は小さく呟いた。
「……わたくしは……」
何を言いたいのか沙羅自身にも分からないままに零れた呟きは、轟く雷鳴にかき消された。ごく近くに落ちたらしい雷が屋敷を震わせる。
芙美の枕元に置かれていた洋燈の火がふつりと消え、代わりのように青白い雷光が室内の様子を浮かび上がらせる。沙羅は洋燈を点け直そうと、燐寸を仕舞った逗子棚に手を伸ばしたが、棚がじっとりと湿りを帯びているのに驚いて手を引っ込めた。再び恐る恐る手を伸ばし、燐寸を手探りで探り当てたが、やはり湿っている。使い物にならない。
逗子棚だけではなかった。気付けば畳も、おそらくは芙美の横たわる布団や細々した物なども、一様に冷たく濡れている。風雨を防ぐために部屋を中庭から隔てる引き違いの硝子戸も木戸も閉まったままなのに、夏の木々の匂いを含んだ雨の気配が、部屋の中に充満している。――明らかに、異常だ。
「おばあさま!?」
はっとして、沙羅は芙美の手を取った。手に力を込めるが、握り返す反応はない。手首に脈を探るが、血の巡りが感じられない。口元に手をかざしても、息が通っている気配がない。
「ああ……」
沙羅は力なく項垂れた。祖母は、旅立ってしまったのだ。
確かめる前から、本当は分かっていた。だってこんなにも、雨の気配が――閉ざされた戸に阻まれて届かないはずの雨が――部屋を濡らしているのだから。ありえるはずのない事象、それは――
『―いで、……ら……。か……て…おい………』
不吉な、しかしひどく誘惑的な声が、さらに近付いてくる。頭は警鐘を鳴らすのに、心は抗いがたく惹きつけられてしまう。良くないものだと分かっているのに、身を委ねれば甘美だろうと思ってしまう――幽世からの呼び声。かつて自分を生み出して、やがてはそこへ還るはずの世界からの声。
いや、すでにここは半ば、幽世だった。
髪を濡らし、頬に弾ける雨粒に、室内に雨が降っているという異常に気付き、沙羅は戦慄した。芙美の死によって現世と幽世とが重なり合い、沙羅をも――幽世を見聞きし、幽世に引き寄せられる魂を持つ少女をも――招き寄せようとしている。
(駄目……抗えない……)
抗おうという気力すら持てない。唯一の肉親である芙美を亡くした沙羅には、現世に寄る辺などない。芙美は最後に視線で沙羅を叱咤し、生きろと促したが、その心に沿えそうになかった。やるべきことはある、役目がある、理性はそう判断しても、魂が言うことを聞かない。
もともと、分かっていたのだ。不安定な沙羅は、芙美の死を乗り越えられない。一緒に、幽世へと引きずられてしまう。だからこそ手伝いの皆に暇を出し、屋敷を無人に近くしたのだ。巻き込むわけにはいかないから。
『おいで、……らへ……。か……て…おいで………』
呼び声に誘われるまま、沙羅は立ち上がった。濡れそぼつ畳から一歩ごとに水が染み出す。体が重い。足を引きずるようにしてゆっくりと歩を進め、戸を開けて廊下に出た。板敷の廊下も濡れており、すでに水を含んだ足袋の足元が今にも滑りそうだ。着物も湿って重く、しかしそんなことで歩みは止まらない。
風が沙羅の長い黒髪を乱し、雨が視界を遮る。もはや屋敷は家屋としての用を果たしておらず、虚空から降りしきる雨にずぶ濡れになりながら、沙羅は声に導かれるまま足を進めた。
硝子戸を引くと、見慣れたはずの中庭は様相を一変させていた。木々の黒々とした枝が生き物のように蠢き、かと思えば茂みは風雨にも微動だにせず不気味に硬直して沈黙し、波のように闇が濃淡を変えて押し寄せてくる。
沙羅は茫洋とした表情で虚空に右手を伸ばした。芙美の魂と一緒に、自分はこのまま幽世へと消えてしまう。戻って、こられなくなる――
わずかな躊躇いが心にきざした瞬間、手が強く引っ張られた。
後ろから。脇に垂らしていたはずの左手を。
「行くな!」
切羽詰まった男性の声がして、辺りの空気がぴんと張りつめた。
沙羅が驚いて振り返ると、見知らぬ青年が険しい表情で沙羅を見据えている。
風が唸りを上げて青年を襲った。獲物を横取りされた獣のような獰猛さで風が吹き荒れ、青年はたまらず廊下に引き倒された。それでも沙羅の手は掴んだまま離さず、沙羅も折り重なるように倒れ込んだが、青年の体が沙羅を受け止めた。
混乱して、沙羅は物も言えずに青年の顔を間近で見つめた。背後で稲光が閃いて、周囲を一瞬あかあかと照らし出す。
沙羅は思わず息をのんだ。青年の瞳は不思議な、美しい紫紺の色をしていた。
高貴な紫と夜の闇を溶かし合わせたかのような瞳が近付いてくる。吸い込まれそうだ、と沙羅は思った。
「行っては駄目だ! 君は、生きているのだから!」
青年の言葉を理解するいとまもなく、沙羅は頭を強く引き寄せられ、青年の唇に唇を重ねていた。